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ごく少量の血液や唾液の検査で、さまざまな種類のがん、肝臓疾患からうつ病まで早期発見できる画期的な技術がある。慶應義塾大学先端生命科学研究所(山形県鶴岡市)が開発した先端技術で、人の体が作りだす数百種類の代謝物質の量を一度に分析する「メタボローム解析」だ。
研究所長の冨田勝教授はもともと人工知能の研究者であったが、人の遺伝子の情報量がわずか1ギガバイトであることに驚嘆し、30歳を過ぎてから生物学を学び直した。冨田教授はまた、受験競争が勉強の喜びを奪っている現状を憂い、高校生が自由に好きな研究に熱中できるよう「高校生研究助手」や「特別研究生」の制度を創設。さらに「50年後の日本が食べていくには、ベンチャー精神こそ不可欠」という信念のもと、自らベンチャー企業を創業するなど、日本社会を熱く触発し続けている。

がんからうつ病まで、一度に丸ごと解析できるメタボローム解析

――「メタボローム解析」により、血液や唾液からどんな病気が分かるのでしょうか。その仕組みについても説明していただけますか。

冨田勝氏冨田 糖やアミノ酸など体内にある代謝物質のことをメタボライトと言います。そのメタボライトの数百種類の含有量を、一度に丸ごと分析する究極の成分分析技術がメタボローム解析です。13年前に当時助教授だった曽我朋義さんが中心となって開発した技術です。

唾液からはすい臓がん、乳がん、口腔がん、血液からは肝臓がんなどの9種類の肝臓疾患を、短時間かつ高い精度で診断することができます。「地球上に3億5000万人の患者がいる」と言われるうつ病の診断にも有効で、いま実用化を目指しています。この他にもありとあらゆる疾患について、いろいろな機関と共同研究をしています。

ある病気の患者30人と健常者30人の血液を調べて、患者グループに特徴的な代謝物質を見つけます。それはこの病気になると体内に増える物質ですので、病気の診断マーカーとして使えるのです。例えばうつ病の場合は、エタノールアミンリン酸(EAP)という代謝物の量で判定ができます。
これを症状がまだ出ない初期段階のがんなどを発見するために活用するには、受診者数が多く、たくさんのサンプルが得られる健康診断を活用するのが効率的です。

そこで2012年に、鶴岡市民1万人から血液や尿などを提供していただいて、メタボローム解析するプロジェクト「鶴岡コホート計画」がスタートしました。プロジェクトリーダーを、慶應義塾大学医学部教授でもある武林亨さんが務めています。メタボロームでは世界初の試みです。35歳から74歳までの方を対象に、2~3年に1回、健康診断の機会を利用して25年間のデータを追跡します。
数十人の患者さんと健常者の比較をした診断マーカーを、1万人規模で検証できますし、マーカーの変化を観察することもできます。

――これほど大掛かりな検査体制を作れるのは、慶應の先端生命科学研究所が市民に信頼されている証しですね。

冨田 鶴岡では私たちの研究所の他に、市役所、医師会、保健所、山形大学、市立荘内病院など、オール鶴岡で取り組んでいます。受診者全員に紙芝居などで主旨を説明し、賛同してくださった方から健診用とは別に16mlの血液を提供していただいています。血液はその時点での研究に使用するだけでなく、小分けして冷凍保存するので、将来の研究者も使うことができます。
市民には「研究成果は今のあなたにメリットはなくても、必ず子孫に役立ちます」と説明しています。すると9割の方が賛同してくださり、すでに約7000人分が集まっています。サンプルの数が多いほどデータは正確になります。

創薬・医療の面では、がんのメカニズム解明に特に役立ちます。1人のがん患者の組織からがん細胞と正常細胞を採取し、比較して差があれば、それはがんによって生じた差ですから、これも明確な診断マーカーになります。私たちが10年前に創業したヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(HMT)社が、すでに診断キットを販売しています。

抗がん剤は半分近くの患者には効きません。そういう人たちにとっては副作用がある上、高価な薬でもあるので負担が大きい。そこで、投与した結果を分析して、薬が効いている患者に特徴的な代謝物質を知り、その代謝物質がない人は早めに別の薬に切り換える。こうすれば無駄な投与で患者を苦しめることもなくなります。

成分分析で食品のブランド価値を高める

――メタボローム解析は、医療や創薬の他にも、農業、微生物などの分野に貢献できると言われます。将来の可能性をどう見ておられますか。

冨田 たくさんの共同研究をしており、農業では地元名産のコメ「つや姫」、ダダ茶豆、日本酒などを調べています。
つや姫と他の全国30品種のコメを比較すると、つや姫にはうま味成分であるグルタミン酸が他のコメの1.5倍含まれていました。このデータを使えばブランド価値を高めることができます。
ダダ茶豆10品種と他の枝豆10品種を比較すると、ダダ茶豆には2-アセチル-1-ピロリンという、ポップコーンやタイ米と同じ香り成分が含まれていました。ダダ茶豆がおいしい秘密がこれだったのです。

――微生物の分野も面白そうです。どんな技術革新が可能になりますか。

冨田 人の腸内細菌は約100種類あって、100兆個以上、重さは1.5kgあります。100種類もの微生物複合体のメカニズムはブラックボックスだったのですが、そこをガツンと解明したいと考えています。
それには微生物の遺伝子を調べるメタゲノム解析と、メタボローム解析を併用して、お腹の中でどういう微生物がどういう代謝をしているか明らかにします。両方使わないと解析できない難題なので、世界でもこの研究所しかできないと思います。

食品関係では日本酒を調べており、特任准教授の杉本昌弘さんらがこのプロジェクトを担当しています。鶴岡市には8つの酒蔵がありますが、「毎月同じように酒を作っているのに、出来がちょっとずつ違う」という話があったので、「日本酒プロジェクト」と称して、山形県の地酒50種類を買い集めてメタボローム解析し、利き酒師4人にも協力してもらって、酸味とか甘みを採点しました。いろいろな要因が考えられますが、酒蔵の環境中にいる菌(乳酸菌など)も日本酒の品質に影響している原因の1つではないかと思います。

また日本酒をビン詰めして1、2、4カ月後に調べてみると、成分が随分変わっていました。雑味のもとになるアミノ酸が減り、逆に糖類が増えてまろやかになるのです。ですから、酒の味はビン詰め後何カ月経ったものかを知らないと比較や評価はできません。

あらゆる生物は複雑で多様で例外ばかりのように見えるが、共通のところは皆同じ

――冨田先生はもともと情報科学がご専門で人工知能の研究者でしたが、途中から畑違いの生命科学へ進まれました。何が飛躍のきっかけになったのですか。

冨田勝氏冨田 私は鉄腕アトムのように賢い人工知能を作りたいという夢を抱いて、1981年に米国カーネギーメロン大学の大学院に留学しました。しかし、人間なら簡単にできることがコンピューターにはなかなかできない。研究を進めれば進めるほど自分が生きている間は難しいと悟り、脱力感に襲われました。人工知能という学問分野は、画像処理や音声認識などの要素技術については、今ではかなり実用化されて来てはいますが、「人間の知能を再現する」という究極の目標には、いまだにほとんど近づけていないのです。

いったいなぜ人間はこんなに賢いのだろうか。たった1個の細胞が分裂を繰り返して筋肉や脳や肺になり、60兆個もの細胞を持つ人間という知的な生命体になる。これはすごいことです。しかも、そのプログラムがたった1ギガバイトのゲノムに書き込まれている。私のパソコンですら750ギガバイトあるのに、人の設計図はたった1ギガバイト、30億文字のデジタル情報です。その文字列の意味を知ることは暗号解読であり、自分がやっていた自然言語処理そのものでした。
1989年にヒトゲノム計画が発表され、2015年までに30億文字を全部読む作業を世界中が協力してやるという記事を見た時、「これだ!」と思いました。2015年なら自分はまだ現役だし、文字列を読むのが得意な自分の出番が必ずあるはずだと。

当時はすでにカーネギーメロン大学の准教授として授業で人工知能を教えていましたが、私は中学高校と生物が嫌いで知識がなかったので、バイオロジー学部の1年生向けの生徒になって1から勉強を始めました。幸いカーネギーメロン大学には、教員が他学部の授業を履修することを推奨する制度があり、早速、それを活用したのです。
若い先生が「あらゆる生物は複雑で多様で例外ばかりのように見えるが、共通のところは皆同じだ」と言うのを聞いて、「そうだったのか!」と驚き、初めて生物学の面白さに目覚めました。大腸菌からゾウ、そして人間までDNAの構造は同じだし、エネルギー代謝も一緒だというのです。すべてDNAでプログラムされ、文字列の並びと長さだけが違っていて、人になったり猿になったりする。人とチンパンジーのDNAはわずか1.5%しか違わない。つまりソフトウエアの問題だったのです。

その時、将来の生物学は必ず情報科学になると確信しました。当時もこの2つの科学の融合が言われましたが、コンピューターは生物学のツールとしか見られていませんでした。
生物学の研究は基本的に「仮説検証型」でした。最初に仮説を立てて実験系を組み、ピンポイントで仮説の正しさを検証しようとします。ところがゲノム解析はその逆で、測れるデータは全部測り、その膨大なデータの中から仮説を見つけに行きます。

――網羅的にデータを集めて統計処理するやり方は、現在のビッグデータと同じですね。先見性に驚きます。先生は慶應義塾大学に戻って、コンピューターを学生に教える一方、30歳を過ぎてから大学院医学研究科に入学して医学博士号を取られました。大変な決断でしたね。

冨田 学問分野というのは、人間が教えやすいよう便宜上定義したものです。例えば1つの都市を作ろうとすれば、経済学も法律学も建築学も環境工学も必要になる。1分野だけで何かを成すことは不可能なのです。
「何かの学問で基礎を固めるまでは、先端研究はできない」とよく言われますが、それは間違いです。慶應湘南藤沢キャンパス(SFC)の学生には「やりたい研究が見つかったら、なるべく早く研究を始めたらいい」とアドバイスします。研究しながら同時に基礎を勉強すればいい。興味があれば勉強は苦にならないので、モチベーションが高まります。ゲーム好きの子どもが攻略本を懸命に読むようなものです。

情報科学者だった私は生命科学に片足ではなく一気に両足をつっこむ覚悟を決めました。5年間ぐらいは論文などの研究業績を出せなくなるので、当時の相磯秀夫学部長に相談したら、「何をケチなことを言っておるか」と、背中をポーンと押してくれました。今でもとても感謝しています。

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