夢の日本か、現実の日本か
ハーン『英語教師の日記から』

平川祐弘(東京大学教授)

ハーン評価の内外の落差

 一八五〇年に生れ、一八九〇年に来日し、一九〇四年に亡くなった小泉八雲ことラフカディオ・ハーンとは一体いかなる作家であろうか。どの程度の価値のある人なのだろうか。

 日本では小泉八雲の人気は依然として続いている。平成二年は来日百年ということもあって新訳も次々と刊行されたが、従来の旧訳ともども着実に読まれているという。日本における八雲評価は『怪談』の著者としても、日本の心をとらえた作者としても、明治日本の面影を伝える記者としても、依然として高い。とくに八雲が明治二十三年八月末から一年二ヵ月余を過した松江では、八雲はヘルンさんとしていよいよ愛情をこめて回顧されている。その後移り住んだ熊本や神戸や東京の土地ではそれほど話題にならないとしても、松江ではこの作家は「文豪」扱いを受けている。すくなくとも市の観光課の案内にはそう書いてある。もっとも私は、ハーンはいかにもすばらしい作家だとは思うが、だからといってヴィクトル・ユゴーやトルストイが文豪だという意味での文豪だとは考えていない。小泉八雲は『レ・ミゼラブル』のような大作は書いていない。しかしなにはともあれ彼の名前は日本ではよく知られている。世界のよその国ではラフカディオ・ハーンにもうそれほど関心がないにしても、この国ではハーンは日本の心をつかみ、明治日本の面影を伝えた世にも稀な外国人として高く評価されている。多くの日本人がヘルンさんと呼ばれたこの人に対して非常な愛着をもっている。私もその一人である。

 ところで英語名をハーンHearnといい、帰化して後の日本名を小泉八雲というこの作家にまつわる今日の問題点は、右に述べた、日本人という内輪の者の小泉八雲に対するきわめて高い評価と、外部の者のラフカディオ・ハーンに対するいまでは必ずしも高いとはいえぬ評価―より有体にいえば低い評価―とのギャップにあるのだろうと考える。一体内と外といずれの評価が正しいのか。その点を内外のハーン研究者が一堂に会したこの席(1)で取りあげてみたい。内から見た小泉八雲と外から見たラフカディオ・ハーンといずれが実像であり、虚像であるのか。その認識のギャップはそもそもなにを意味するのか。

 過去一世紀、ハーンに対する国外での評価は、国際社会における日本の評価とどこかで連動してきた。日本が国際社会で優等生として振舞うとハーンも愛読され、日本が悪役を演ずるとハーンも裏切者扱いをされ、日本が自己満足におちいり西洋で「日本叩き」がおこると「ハーン叩き」もおこる、といった具合である。ハーンの来日第一作『知られぬ日本の面影』は日清戦争が起った一八九四年に初版が出、世界が極東の新興国に注目しはじめるとともにハーンも英米でにわかに読まれはじめた。ハーンは日露戦争が起った一九〇四年の九月に亡くなるが、日本滞在十四年間に出した十三冊の書物は日本がロシヤに勝利した後、次々と各国語に訳された。『心』など十数ヵ国語に訳された。また日本が第一次世界大戦では連合国の一員として共に戦ったからであろうか、フランスでは千九百十年代から二十年代にかけてハーンの代表作はほぼ全部仏訳された。そのように日本と固く結びついたハーンの名前であっただけに、千九百三十年代にはいって日本が軍国主義化するとともに評判も落ち、太平洋戦争中アメリカで船に「ラフカディオ・ハーン号」と命名しようとした時は非難の投書が殺到し、当局者が、船名はアメリカの愛国者の中から選び直す、と釈明することを余儀なくされたほどであった。

 そのように時勢が変化するにつれ、かつてはB・H・チェンバレン(一八五〇-一九三五)と並び称された日本解釈者の代表であったハーンは、西洋では次第に不評となった。日本を美化したロマンティックな文筆家と目され、著述の内容の客観性にも疑問が持たれ出した。やがて西洋の日本研究者の間でも、学者的なチェンバレンほど重んぜられなくなった。もっともそのチェンバレンも第二次世界大戦後は日本解釈者の地位をライシャワー、ノーマンといった人たち―宣教師の師弟として日本で育ち、後には占領軍の要員として対日政策にも関係した人々―に次第にとって代られた。しかもそれに引続き戦時中に日本語の強化訓練を受けた語学将校の秀才がやがて陸続として大学院を出、日本学者として頭角をあらわすに及んで、西洋ではハーンの存在はいよいよ遠くにかすんでしまったのである。

 では日本国内ではどうであろう。二十世紀のはじめハーンはHearnとして西洋語でしか読まれなかった。それが二十世紀の末近くなったいまはむしろ小泉八雲として日本訳で愛読されている。それは過去においては必ずしも秀れた訳者に恵まれたとはいいがたかったハーンが、昨今になってようやく正確で美しい日本語に訳されるようになってきたことともあるいは関係があることかもしれない。

 もっとも海外にも一部には根深い愛好者もあり、国際社会における日本の地位の再向上に伴い、ハーンに対する見直しも行われ、タトル社だけでなくペンギン社からもLafcadio Hearn : Writings from Japan(一九八四)という題で一冊本の選集が出た。それに解説を付したフランシス・キング氏は、

 日本と外国世界との仲立ちを試みた作家や学者たち―ピエール・ロティ、ラジャード・キプリング、アーサー・ウェーリー、モーリス・デコーブラ、ウィリアム・プルーマー、ジョン・モリス、フォスコ・マライーニ、ルース・ベネディクト、エドウィン・O・ライシャワー、ジェームズ・カーカップ―の中でラフカディオ・ハーンが断然秀れていると日本人によってずっと見做されてきた。なるほどほかにはハーンよりももっと頭脳明敏で、学もあり、バランスのとれた人もいた。中にはもっと文章の上手な人さえもいた。しかしハーンほど日本のあらゆる階級の人々にその名を知られている作家はない。

 と書いている。このような日本人の感じ方は正しいのか。それともこのような日本人のハーン評価は日本人の許しがたい国民的ナルシシズムの表れであるのか(2)。

 ハーン評価にまつわる内外の落差の問題は、二つの事と連関する。一つはハーンが描いた対象である日本の宗教や民俗をどう評価するか、という問題であり、いま一つはそれを描いたハーンその人をどう評価するか、という問題である。明治に来日した西洋人の多くは、そして日本の知識人の多くも、キリスト教的西洋文明の優越を当然自明としていた。それは明治大正に限らず敗戦後の日本でもたいヘん強かった見方である。ハーン評価はそのような優劣の価値観の対立からも右左に分かれた。次にハーンその人についての問題は、その記述や分析の信憑性をめぐるもので、その点については最晩年にチェンバレンが書いた「ラフカディオ・ハーン」という一文(チェンバレン『日本事物誌』第六版、一九三九年)が良かれ悪しかれあまりにも有名である(3)。

 四十歳近くになった時、ハーンは新天地を遥かなる日本に求めようとした。……来日後数年の間、彼の日本熱は異常なほど昂進した。ハーンは神々の国を発見し、彼の『知られぬ日本の面影』は日本を手放しで絶讃したが、その日本なるものは、実は彼が自分は見たと勝手に思いこんだところの日本にしか過ぎない。……

 この著名なイギリスを代表する日本学者の言分(いいぶん)をそのまま承認するのだとすると―そのような人は西洋に限らず敗戦後の日本にも多かったが(4)―ハーンが出雲について書いたことはハーン本人の主観的な思いこみであって客観性はない、ということになる。ハーンが見た日本は夢の日本であって現実の日本ではない、ということになる。ハーンが松江について記述した文章の真偽のほどは本来松江の人がいちばん論ずる資格を備えているはずである。しかし土地のハーン熱心家はハーンを尊敬するあまりこの著者に対して讃辞を呈することはあっても客観的な批評や実証的な分析がなかったともいわれる。それでよそ者の私がハーンの『知られぬ日本の面影』の真偽のほどを検証するのはまことに僭越な次第だが、しかし私には最晩年のチェンバレンのハーン批評はいかにも不当に思われるので、ハーンが島根県尋常中学校教師としての体験を基に綴(つづ)った『英語教師の日記から』における詩と真実を分析して、右に提起したハーンにまつわる根本問題にお答えしたいと考える。ハーンがそこに記した松江なるものは現実の松江か、それとも彼が自分は見たと勝手に思いこんだところの松江にしか過ぎないのか。ハーンという日本研究者の著述は信用するに値するのか、しないのか。

HIRAKAWA2
小泉八雲旧居 島根県松江市

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