ハーンとアショー校

ルイ・アレン(ダラム大学教授)

 陸軍元帥モンゴメリー子爵の伝記を著した人とラフカディオ・ハーンの伝記を著した人の一人には、嘘のようなことだが、共通した特徴がある。どちらもダラム州がどこに位置するのか見当もつかないのである。陸軍元帥は戦時中にダラムのヨークシャー・ムーアズの荒野に狩猟に行った、とナイジェル・ハミルトンは軽はずみな口調で言う。一方、ヴェラ・マクウィリアムスは「ダラムの近くのヨークシャーの丘での生活」(1)と言う。この地理上の混乱をまず正しておこう。ダラムはノーザンバーランド―イングランドの最北の州でスコットランドの縁に位置する州―とイングランドで一番大きい州であるヨークシャーとの間に横たわっている。河川で言うと、それはティーズ川とタイン川の間にある(というよりも、あったのだ、より新しい境界線が出来る前には)。前者は鉄や鋼鉄の発掘と世界初の旅客用列車の鉄道(ストックトン・ダーリントン間鉄道、一八二五年)が敷かれたことで知られ、後者は造船で知られた。二つの河川は、ともに日本と関係を有している。ダーリントンのティーズ河畔には馬場辰猪の仲間の一人で、ミドルズブローの造船所で徒弟として働いていた最中の一八七三年に十八歳で溺死した四国出身の若い侍の遺体が埋められている。そしてタイン川は、いうまでもなく、アームストロング造船所の発祥地で、そこで一九〇五年の対馬の日本海海戦でロシア軍を破った日本海軍の船の多数が造られた。福沢諭吉が一八六二年、幕府遣欧使節に随行して―この間に見聞したことを彼は『西洋事情』で述べている―、訪れたのもここである。興味深いことに、福沢が若き日本への教えとした「脱亜入欧」(アジアを去り、ヨーロッパに入る)は、ダラム州を福沢が通り過ぎていったその一年後にそこの学校に入学した少年が後に日本の人々に説いた教えと正反対であった。その少年がラフカディオ・ハーンである。

 話題となる学校は、カトリックの神学校で、ダラムの町からおよそ三マイル西に行ったところのアショーにあるセント・カスバート・カレッジで、普通はアショーカレッジと簡単に呼ばれている。今なお建っており、今日では神学校であると同時にダラム大学の一部となっている。そして、それはまた今はその構内にラフカディオ・ハーン・カルチュラル・センターを、そこにふさわしい敬意と適切な土地の選択でもって設立した日本の大学のイギリスの本拠地ともなっている。十九世紀のアショー校はカトリック僧の卵を訓練するだけのところではなかった。それは、英国軍軍医であるハーンの父親のように、親が海外に出ているカトリック教徒の家族の子弟のための二流のパブリック・スクールとしても機能したのである。帝国が膨張していく最中には、このような教育システムはそれが子供達にもたらした悲嘆―例えばキプリング自身のイングランドで過ごした子供時代の記述を見られたい―にもかかわらず、欠かせないものであった。ラフカディオ・ハーンも疑いなくキプリングと似たような感情の緊張を、肉親が、遠いといってもたかだかダブリンにいたにもかかわらず、始めは経験した。

 しかしながら、半分荒地、半分炭鉱用地という土地にアショー校が建っており、それがディケンズの『ニコラス・ニックルビー』の寒々とした地理的背景と似てなくもない場所に位置しているからといって、そこにニコラスたちの住んだドーシボーイズ・ホールとの共通点がたくさんあったろうと考えるのは間違っている。もちろん、意図して不自由な楽しくない場所ではあった。その当時、そしてそれから何十年後にも、そこにあった唯一の座席の設備は遊戯室であろうと、教室であろうと、食堂であろうと、背もたれのない木製のベンチであった。五十年経た後でも、少年達は、週七日間六時半起床、七時にミサ、七時四十五分にパン(それにバター一かけ)と紅茶の朝食、という規律に従いつづけた。例外はクリスマスの日で、その日にはぶどうパンが、それからイースターの日曜日には、キリストの復活を祝うためにゆで卵が各々二個配られた。毎晩同じ夕食―ビーフとポテト、ただし金曜日は鱈―が出され、その後に、「ポッド」と呼ばれる牛の油とぶどうとスパイスを合わせて蒸した茶色のプリンが出るのだった。奇妙なことだが、この時代の多くのイギリスの学校がそうであったように、ビールはかなりおびただしい量を飲むことが出来た。夜食はパンとココアであった。九時十五分過ぎに、感謝の祈りを唱え、高学年は十時消灯、だが低学年の寮は九時ないしは九時半に消灯となる。寮の中でふざけることは非常に重い罪とされ、むち打ち(それは“tipping”―「軽く叩く」と呼ばれていた)で罰せられる。全館暖房のシステムは導入されたものの、あまり効率的ではなかったし、それに身体を洗うための温かいお湯もなかった―それはとんでもない贅沢とみなされていたからである。

 アショー校は、自校の生徒たちをグループに分けるのに独自の名称を用いた。初心者は「低い数以下(アンダー・ロー)」と呼ばれ第一、二、三級に分けられ「低い数(ロー・フィギュアーズ)」のグループに至る。「小さい者(リトル・ラッズ)」は、「大きい数(ハイ・フィギュアーズ)」、「シンタックス」、「文法(グラマー)」のグループに分けられ、「大きい者(ビッグ・ラッズ)」は「レトリック」と「詩(ポエトリー)」に分けられる。さらに上に行くと、「哲学者(フィロソファーズ)」―「上級」と「初級」に分けられている―があり、ついには僧職につくのが間近な者たちによって構成される、「神学者(ディヴァインズ)」という畏れ多い最高のグループに達する。これらの名称は、昔の中世の分類法を思い起こさせる。それは学校の基礎が、一五六八年にフランダースのドゥエーにアレン枢機卿が創設したイングリッシュ・カレッジ(エドモンド・カンピオンはイエズス会に加わる前は、そこの学生であった)にまで遡る学校にとっては自然なことだった。アショー校には学問、敬虔、献身の長い伝統がある。エリザベス女王の治世が終わる前には、四五〇人の僧がイングランドの旧教を存続させるために活動して、当時の刑法により投獄や死刑の罰に処された。このことは学問や自分たちの知性や創造力を伸ばすことが真に尊ばれたことを意味しない。それらは尊ばれていなかった。十九世紀のイギリスのパブリック・スクール教育には反インテレクチュアルの色彩が濃くアショー校も当然その通りであった。

 アショー校がいまのところに建てられた理由は、他の土地での度重なる試行錯誤の結果である。ドゥエーの神学校は、一七九五年にフランス革命の反聖職者勢力がそこの職員と生徒をイングランドに追い返すまで、「英国伝道団」として知られたカトリック僧たちを養成した。カトリック教徒解放はまだ三十三年も先のことであった。しかし、ルイ十六世が一七九三年に処刑されてからというものイギリス政府がフランス革命に対して抱いた敵意は、追放されたフランス人の聖職者ばかりか、海外で勉強することを余儀なくされたイギリス人のカトリック教徒たちも歓迎した。それで、ドゥエーから追い立てられた人々は、まず拠点を「ダラムの町から西北西に十マイル程行った陰気な地域に孤立している…」(2)場所、クルック・ホールにみつけ、その後一八〇八年になって、アショーに移った。雨や風、チフスの流行が新しい生徒と職員を迎えた。その中の一人には、初めて原史料の研究に基づいてイングランド史を著したジョン・リンガードがいた。十九世紀を通じて、神学校はカトリック教徒の全体人口の増加に伴って発展し、昔からの建物に新しい建物が付け足され、オーガスタス・ウェルビー・プージンの手で流行の最新様式、ネオ・ゴシック調のチャペルが設計された。

 一八四二年にイングランドの学校制度中を吹き荒れた不平の嵐は、アショー校にまで達した。そのきっかけは新しいロンドン大学の要求条件に合わせてなされた地方施行試験のカリキュラムの変更にあった。学校は、そこの試験を生徒に受けさせるつもりだったのである。しかしながら、生徒たちのつぎのような荒々しい抗議の裏には、明らかに複数の理由が絡まっていた。一八四二年の聖セシリアの祭日(十一月二十二日)に、食堂での祝いの催しから排除された生徒たちは勉強監督の部屋に行き、その部屋をめちゃめちゃにし、寮の周りを雑多の騒音をたてながら行進し、食堂の扉に持ち運びの出来る消火器を投げつけた。そして、彼等の仲間の一人―学校の公認の鼠捕りで、ガス管の配管事情に明るい者―を食堂の屋根沿いに、場所全体を真暗闇にするためにガスを切りに行かせた。ところが彼は足を滑らせ、食堂の屋根に足を突っ込み、天井を抜けてその下で食事している人々の中に墜落するのを辛うじてまぬがれた。他のある生徒は、土地の村人からピストルを十シリングの保証金で借り受け、警戒中の教授たちが目に入ると空弾をぶっぱなした。別の一人は生徒監督が遊戯室の一つに入ろうとするや、火かき棒を生徒監督に向かって投げつけた。この反乱もしまいには勢いを失うが、それでも副校長のテイト博士が自ら首謀者の一人を放校にするまで終わらなかった。副校長はミサの後にその少年をチャペルで捕え、少年を連れ去るために待機させていた馬車に乗せて、家に送り返したという(3)。

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