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鎌倉から京都へ
ハーンの紀行文とロチ

河島弘美(東京大学講師)

 ラフカディオ・ハーンがギリシャのレフカダ島で産声を上げたのは、一八五〇年六月二十七日のことである。それより約五ヵ月早い一月十四日に、ブルターニュの港町ロシュフォールでピエール・ロチ、本名ルイ・マリ・ジュリアン・ヴィオが生まれており、さらに同じ年の秋、十月十八日、ポーツマス軍港のサウス・スィーにバジル・ホール・チェンバレンが出生―この一八五〇年という年は、明治日本を見つめ、書き記した西洋人のうちでもとくにユニークな個性の持ち主が三人までも誕生した、記憶すべき年である。

 三人は前後して日本を訪れ、それぞれの見方、立場で観察、あるいは経験した日本の姿を西洋の読者に紹介した。その三者三様の文章は、現代の私達にとっても、実に興味の尽きないものである。来日した時期が三人の中で最も遅いのがハーンで、日本に関して先輩であるロチやチェンバレンを、ハーンはアメリカ時代に非常に良く読んでいた。わけてもロチは、ハーンが傾倒し、愛読していた作家である。ロチが訪ねた鎌倉、京都という二つの古都を、後にハーンもまた訪ねた。

 ピエール・ロチを視野におさめながらハーンの紀行文を読む時、私達の目には一体どんな流れが見えてくるのであろうか。

 一八六九年、ハーンは生まれ育ったヨーロッパをあとに単身渡米した。ロチはこの年、海軍の青年士官として世界周航の旅に出ている。ともに十九歳で若々しいスタートを切ったのである。やがてハーンの方は、『シンシナティ・インクワイアラー』、『シンシナティ・コマーシャル』、ニューオーリンズの『デイリーアイテム』、『タイムズ・デモクラット』などの記者として文筆の修行を続けるが、フランス語で発表されていたロチの文章にハーンが目をとめたのが、そもそも二人の関わりの発端となる。

 ロチは、『アジャデ』(一八七九)を処女作に、『ロチの結婚』(一八八〇)、『アフリカ騎兵物語』(一八八一)など、外国生活に題材を得た作品を書いていた。一八八五年に来日し、その夏の長崎滞在をもとに有名な『お菊さん』を、また、秋には京都、鎌倉、日光に旅し、その見聞を『秋の日本』にまとめた。後に『秋の日本』に収録されることになる「聖なる都・京都」が一八八七年三月一日の『ヌウヴェル・ルヴュ』に発表されたのを読み、いちはやくこれを英訳して四月三日及び一七日付の新聞に載せ、アメリカの読者にロチを紹介したのが、ほかならぬハーンである。モーパッサン同様、ロチもまた、ハーンによって初めて英語圏の読者に紹介されたのである。

 ハーンは、以前からこの異国情緒の豊かな作品を書くフランス人作家に注目していた。たとえば当時、友人クレイビール宛の書簡でロチの作品を賞讃したあとに続けて「ロチほど私に影響を与えた作家は、ほかにいません。そして、時がたつにつれて、私の感嘆の念はいよいよ増すばかりです。現存する印象派の中で最高の作家で、しかもそれ以上の人です」と書いている。ロチを非常に高く評価し、さらにはロチ自身と個人的な文通も始めたのである。ハーンは、「聖なる都・京都」を訳す以前にも、一八八〇年からこの頃までに『ロチの結婚』、『アフリカ騎兵物語』、『弟イヴ』などからの抄訳を『タイムズ・デモクラット』に二十回以上も載せている。

 ロチは一種独特の雰囲気を持つ文を書く人で、そこにはハーンの好みと相通じるものがあったに違いない。ハーンによるロチの翻訳をAlbert Mordellという人が一冊にまとめたStories from Pierre Lotiのページをめくると、そこにはタヒチの海あり、セネガルの砂漠あり、焼けつく日ざしや風を肌に感じるような描写がふんだんにある。ハーンのロチ崇拝には、作品中の異国の風物への興味による部分が大きいことは否定できないようだ。

 さて、ロチの「聖なる都・京都」は、後に『秋の日本』の冒頭を飾ることになった作品で、軍艦で神戸に着いたロチが鉄道で京都に入り、ホテルに宿をとって、八坂の塔、清水寺、大仏殿、北野天神、三十三間堂などを見物した時の様子を綴った一編である。カルマン・レヴィ版の原文で約六十五ページのうち、ハーンが訳して『タイムズ・デモクラット』に載せたのは、分量にしておよそ四分の一強、約十八ページ分にあたる。四月三日付紙面には「大釣鐘」と題して、また四月十七日付では「太閤様の御殿にて」のタイトルで掲載された。紙面であるための長さの制約が当然存在するわけだが、どの箇所をどれだけずつ選ぶか、そこに訳者としてのハーンの選択が働いていることは事実である。ハーンはちょうどこの時期、翻訳についてこんな風に書いている。

 翻訳者の道は、実に険しいものです。……原作を好むがゆえに翻訳に携わる者が手にする報酬は恐らく、美しいものを創造することの満足感と、ことによるともう一つ、一編の傑作を、尊敬の念の薄い人間の手によって冒涜される憂き目から救うことの満足感―これがすべてです。それ以外には何も得られないでしょう。けれども、これだけでも報われるというものです。(一八八三年一月 ジェローム・A・ハート宛書簡)

 ロチを訳した時、原作への愛着という点において、ハーンの右に出る者はほとんどいなかったと言っても過言ではないかもしれない。ハーンにとって翻訳は、原作者に対する敬意の表現であり、その美しい世界を共に創造する、喜ばしい体験でもあった。「聖なる都・京都」の抄訳にあたって、ハーンは三つの箇所を選んだ。珍しい装飾の施された、神秘的な部屋を幾つも案内されて行く、太閤様の御殿の一節、大仏とそれを見物に来ていた日本人達のおかしな様子を描いた一節、そして、薄明かりの中に仏像が居並ぶ三十三間堂の一節である。どれも「聖なる都・京都」全体に共通な、いや、ロチのいわゆる日本ものすべてに共通な、独特の雰囲気に満ちている。

 ロチが日本について述べる時、好んで使われる言葉として、「小さな」、「奇妙な」、「おどけた」、「こっけいな」、「不思議な」、「風変わりな」、「外国風の」、「神秘的な」、「悪魔のような」、「死んだような」、などの形容詞が挙げられる。今、一例として、ハーンが訳した三十三間堂の情景を読んでみょう。

 中央の、いわば貴賓席には、塔の台座のように大きい、開いた黄金の蓮の花の上に、一体の巨大な黄金の仏陀が、大きな孔雀の尾のように広がった黄金の光背を背にして、御座についておられる。そのまわりを取り巻き、護衛しているのは、人間の姿を拡大した、また悪魔にも屍体にも似ているように見える、二十人ほどの恐ろしい像である。低い中央の戸口から入ると、目の前にこれらの悪夢のような人物が並んでいるので、思わずしり込みするのである。

 ロチの魅力は、見聞した異国の風物を短時間で直観的にとらえ、感覚に訴える語を巧みに用いて、謎めいた気分に包んだまま、読者の前に繰り広げてみせる才能にあった。印象で人を惹きつけ、酔わせてしまうことにかけては天賦の才を持っていたのであろう。

 ロチの熱烈な愛読者であったハーンは、美しいと感じたロチの文章を忠実に英語に翻訳することにより、自分の受けた感銘を伝えようとした。この京都こそ、ハーンのペンを通じて英文となった初めての日本像である。まだ実際の日本をハーンは知らない。だが、ハーンが強く興味をそそられ、魅力を感じた日本の一面であることは明らかで、その後ハーンが日本で書くことになる紀行文の原点として、無視することのできない価値を持っている。来日以前のハーンの胸に温められた日本のイメージの一端が、ここにうかがわれるのである。

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