『怪談』『日本の面影』などの著書で多くのファンに親しまれているラフカディオ・ハーン(小泉八雲)。
 当『Mugendai』の前身である日本IBMの広報誌『無限大』が、ハーンの特集を組んだのは1991年でした。その前年の1990年は、彼が来日して100年目にあたり、これを記念してゆかりの地・島根県松江市で大規模な国際シンポジウムが開催されました。国内外からハーン研究の第一人者たちが参集し、「小泉八雲――解釈の試み」のテーマのもと、さまざまな角度からハーンの作品や人物像等に関する研究発表がなされました。
 『無限大』88号は、このシンポジウムに参加された諸先生方のご意見を集めて特集を組み、当時の読者の方々に非常に大きな反響を呼んでいます。
 あれから23年。『Mugendai(無限大)』は、特集の中からその一端をWeb読者の皆様に向けご紹介することにいたしました。

 なお、当Web掲載にあたり、平川祐弘・東京大学名誉教授をはじめ、記事を掲載させていただいた諸先生方、ハーンの曾孫にあたる小泉凡・島根県立大学短期大学部教授、松江市観光施設課の皆様には多大なご協力をいただきました。深くお礼を申しあげます。

2014年10月吉日

目次

『無限大』88号 表紙 (1991年発行)

『無限大』88号 表紙
(1991年発行)

1 … 写真で見る/ハーンの生涯  小泉 時
32…〈特集〉ハーン、百年後の解釈
34… 夢の日本か、現実の日本か  平川祐弘
51… 文化人類学者としてのハーン  ジョージ・ヒューズ
57… アウトサイダーとしてのハーン  浦川直子
63… ハーンとアショー校  ルイ・アレン
81… 西洋人の神道理解  遠田 勝
90… 鎌倉から京都へ  河島弘美
97… グリフィスとハーン  瀧田佳子
102… 帰路のない旅  ドニーズ・ブライミ
109… ハーンと日本  アール・マイナー
120… 『新曲浦島』をめぐって  関田かおる
132… 三つの夢  ドニーズ・ブライミ
137… ハーンの変容  土谷直人
145… アインシュタインの訪日とハーン体験  金子 務
150… 書簡が語る八雲の生涯  遠田 勝
188… 知っておきたいコンピューター知識/海外の話題
189… 田中一光のグラフィックアート/植物園④ 舌出草

※掲載内容や人物の所属組織、役職名は発行当時のものです


写真で見るハーンの生涯

解説:小泉 時

[扉]

写真で見る
ハーンの生涯
解説:小泉 時

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一雄がモデルとなった八雲の肖像 鈴木朱雀 画

P2 ラフカディオ・ハーン小伝 小泉 時(ハーン 孫)

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 ハーンは1850年にギリシャのイオニア海に浮かぶレフカダ島で生まれた。この島に因んでラフカディオと命名されたが、このレフカダという島名は「彷徨う」というギリシャ語の意味を持つといわれる。ハーンの生涯を振り返った時、何かギリシャの神による運命的ないたずらとも考えたくなる。

 もう1つ“Hearn”の読み方であるが、一般的にはハーンと呼ばれているが、彼が来日して松江に赴任した時に、役所で出雲訛りも加わってか、ヘルンと書いてしまったという。最近、ゲール語の研究者やアイルランド生まれでゲール語を話す方々から、“Hearn”は鼻にかかったアクセントのハーンではなく、ハーンよりむしろヘルンに近い音だといわれた。

 ここでハーンの生い立ちに触れてみると、彼は1850年の6月、イギリス陸軍軍医であった父、チャールズ・ブッシュ・ハーンと、ギリシャ・キセラ鳥生まれの女性、ローザ・カシマチとの間に生まれた。ラフカディオは幼い頃に両親の複雑な事情から、母と生き別れ、大叔母のもとで育てられた。

 ハーン家は代々軍人、宗教家、芸術家を出す裕福な家系であった。大叔母がカソリック信者であったことから、ラフカディオは1863年にダブリンからイングランド・サリー州にある神学校へ入れられた。この学校に在学中、彼が16歳の時に、この学校独特のゲームで遊技中、他生徒の振り回したロープの結び目がハーンの左眼にあたり、失明する。

 この負目は一生彼の心に暗い蔭を残した。右眼も極端に悪くなり、日本へ来てからも、少し執筆に精をだすと、眼が充血して物が見えなくなったという。その後、大叔母の破産により学校も中退を余儀なくされるが、親戚たちの相談によりフランス語修得のために、一時期フランスの神学校へやられた。彼は19歳の時にアメリカへ渡り、ここではどん底の生活を体験し、種々の職業に従事した。そうして24歳の時、シンシナティではじめて新聞記者としての仕事をみつけ、これ以後、彼の記者生活が始まる。ニューオーリンズへ移ってからは、同地のアイテム紙、タイムズ・デモクラット紙など記者を続け、この間、ヨーロッパ文学の翻訳、中国、インドの民話を紹介した。またカリブ海の仏領西インドへ出向いて、同島の紀行文をまとめたりしており、未知の世界、特に東洋への興味を増大し始めた。また、ニューオーリンズではアフリカ移住民の歌として、当時黒人の歌う綿摘みの歌や、その他ジャズを民俗音楽として取り上げている。またハーンはこの頃、クレオールの諺とか、クレオール料理の本も書いており、この頃から彼は民族学的なものに大いに興味を感じ始めている。

 東洋に深い関心を寄せていたハーンは1890年に来日する。ちょうど100年前の4月である。通信社とのトラブルから記者を辞め、島根県松江尋常中学校と師範学校の職を得る。

 そうして、士族の娘、小泉セツと結ばれ、彼の日本愛好の気持は一層強くなる。それから、熊本の第五高等中学校の教師を経て、一時再度神戸クロニクル紙の論説記者となる。

 この神戸時代に日本への帰化手続きをとり、小泉八雲と名乗る。1896年、明治29年であった。またこの年に外山正一博士の招聘で帝国大学文学部講師となり上京する。

 同大学で教鞭をとりながら、彼は日本文化の紹介に努力し、その印象や研究を多くの著作物として発表したが、最後の力を振り絞って書いた本が、『日本 一つの試論』だと言われる。

 1903年、帝国大学を辞め、翌年早稲田大学に招かれ、講義を受け持っていたが、1904年、9月26日に狭心症のため死去した。生前八雲が好んで散歩をしていた雑司ケ谷霊園に埋葬された。この時八雲は54歳であった。日本が日露戦争に勝利する前年である。

 ハーンは一生を通じて幼い頃に引き離された母親への愛情から、弱者に対する同情、小動物、昆虫、植物に対する憐憫を持ち続けた人であった。また、自然界の美しい変化をこよなく愛し続けた。聖職者としての厳しいカソリックの宗教教育には、自由主義、汎神論者のハーンはついて行けずに飛び出した。アメリカ時代、親友からの紹介でスペンサーの進化論哲学に傾倒し、来日後のハーンは仏教的色彩、特に輪廻観に興味を持ち、晩年の作品にも取り入れている。彼の哲学的な思想は仏教的、汎神論的な世界観を持ち続けた。

 そして彼は一仏教徒として死に、埋葬された。しかし彼が未だ若い頃、どん底生活にあえぎながらも、常に目標を持ち続け堕落しなかったのは、幼い頃からの厳しいカソリックの宗教教育の賜物ではなかったかとも思う。

(キャプション)
八雲愛用の遺品類
アメリカから持参した
インク壜とペン
蛙のペン置きは後日
上野の商品陳列館で
求めたといわれる(上)
シンシナティ時代のハーンが
自分になぞらえて描いた
カラスの絵(下)

P3

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八雲の直筆原稿(ローマ字で書かれたもの)の掛軸 表装は山陰絣で臨終の時に敷き蒲団にしていたもの

P4 生誕

ハーンは1850年、
ギリシャのイオニア海にある
サンタ・モウラ島(現在のレフカダ)で生まれた。
同島の正面玄関に当たる
レフカダ湾に面した町、
レフカダには
現在ハーンの記念碑と胸像がある。
ハーンの生誕地である
このレフカダと終焉の地である
東京都新宿区との間で、
平成元年(1989)10月に
友好都市提携調印式が行われた。
レフカダ湾を望む公園に佇むと、
入り江の周囲が低い丘に囲まれ、
そこには一面のオリーヴやコルク樫、
松などが生えており、
同湾に静かに沈む夕日を眺めていると、
松江の宍道湖の景色そのものであった。
この島の記憶はハーンにとっては
2歳までである。
38年後に極東の日本、
松江の風物を愛したハーンに
母から受け継いだ、
何か潜在意識的なものがなかったか?
こんな空想に走らせるほど
レフカダの夕日は美しかった。
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ハーンの生誕地 レフカダ島レフカダ町の全景

ラフカディオ・ハーンの
父親であるチャールズ・ブッシュ・ハーン(右)
ジェーン・ハーン(左)
ラフカディオの父チャールズの
妹(ラフカディオの叔母)

ラフカディオ・ハーン出生記録の台帳(右)
同出生記録簿の一部(左)

レフカダ町詩人公園のハーン胸像(1987年6月建立)
ハーンの生家

P5

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ハーン生家の壁につけられたプレート

P6 幼年時代

P7の写真はハーンの
大叔母サラ・ブレナン夫人と
一緒に写したもので、
現在残っているハーンの写真の中では
一番古いものである。
この写真は
ハーンが7、8歳の頃と思われる。
ハーンが4歳頃に母と生き別れ、
彼は大叔母のサラ・ブレナン夫人の
もとで育てられた。
幼い頃のハーンは経済的には
最も恵まれた時代であった。
幼児の頃は神経質な子供であったが、
その反面、大変な腕白であったという。
彼の思い出には、
誕生日が来るとキャンドルを
立てごちそうを食べ、
それが済むと間もなく
ウォーターフォード州のトレモアや、
ウエールズのバンゴーなどの
海岸へ連れて行かれた。
ハーンの水泳の腕前は
ここで身につけたといわれる。

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幼いハーンが大叔母によく連れて行かれたアイルランドのトレモア海岸
ハーンはここで泳ぎを覚えにという(写真:紫田一良)

ダブリン市内のハーン旧居に
取り付けられたプラックの
序幕式を行う松江市長
中村芳二郎氏(1988年5月)

ハーンの幼年時に
住んでいたダブリンの近所の家
(写真:紫田一良)

P7

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P8 学生時代

P9の写真はアショー神学校時代、
ハーンが16歳頃のものである。
ハーンが13歳で
イングランド・サリー州・ダラム市郊外アショーに
ある聖カスパート神学校(現ダラム大学)に入学する。
ハーンが16歳の時にこの学校独特の遊技である
「ジャイアンツ・ストライド」と
呼ばれるゲームで、
飛んできたロープの結び目が、
彼の左眼に当たり、
失明する。
ハーンはこれから生涯強い
コンプレックスを背負わねばならなくなる。
1867年にはブレナン夫人が破産し、
ハーンも同校を退学させられる。
これから彼はフランスの神学校へ送られる。
ハーンのフランスでの滞在期間、
学校名がはっきりしない。
1年間くらいとの説もある。

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1990年ダラム大学にある
ダラム帝京大学カルチュア・センター前に
建てられたハーンのリリーフ
(関口昌孝氏の手による)

アショー校内にある大聖堂
少年時代のハーンもここで祈祷をしたと思われる

若いハーンが学んだ セント・カスパート・カレッジ・アショー校(イギリス ダラム市のはずれにある 写真:紫田一良)

P9

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ラフカディオ・ハーンの
アショー校時代

P10 青年時代

ハーンにとってその青年時代は
最も波乱に富んだ時代であり、
また新聞記者として
文筆の才能を認められた時代でもあった。
彼は24歳で
シンシナティ・インクワィラーの記者となり、
絵入り新聞「イー・ジグランプス」(大きな眼)の
発行も手掛けている。
虐げられた人々への同情から
ハーフの女性との結婚に失敗し、
心機一転ニューオーリンズで立ち直り、
アイテム、タイムズ・デモクラット両紙の
記者として活躍に入る。
この間、ヨーロッパ文学の翻訳、
中国、インドの民話を紹介し、
アメリカ南部を題材にした
小説にも手を染めた。
しかし彼はエッセイスト、
評論家、翻訳家の道を選ぶようになり、
未知の国への憧れ、民族学、
民俗学へもつよく興味を持ち始める。

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ミシシッピー川を行く外輪船
ハーンのシンシナティ
ニューオーリンズ時代には
主要交通機関であった

ニューオーリンズ時代
「アイテム紙」に発表した
ハーン自筆の挿絵

ニューオーリンズ時代ハーンが
借りていたアパート
現在でもクリーヴランド
1565番地に健在

P11

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シンシナティ時代のハーン
23歳くらいといわれている

P12 西インド諸島取材の旅

ハーンは1887年の
7月上旬から9月上旬までと、
同年10月から
1889年の5月までの2度、
仏領西インドの
マルチニーク島を取材している。
ギリシャで生まれ、
アメリカ南部で生活したハーンは、
体質的にも南の暖かい、
明るい土地には憧れていた。
マルチニークでの2年間は
彼にとっては余程印象的であったらしく、
晩年自分の家族に
楽しい思い出として
マルチニークの生活を語っている。
彼はペレー山登山を試みたり、
島内風物のスケッチ紀行、
島の女性の髪型、服装、
島に伝わる民話、怪談、民族音楽などに
至るまで克明に取材し記事にしている。
後で『仏領西インドの2年間』と
題して1冊の本にまとめている。

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マルチニーク時代に使用した
ハーンのメモ帳

ハーンの乗船した
マルチニーク島行き
貨客船の士官たち

ハーンの著書
『仏領西インドの2年間』

P13

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1888年頃のマルチニーク島サン・ピエール港

P14 来日

在米時代から東洋への
興味を持っていたハーンは、
チェンバレンの『古事記』、
ローウェルの『極東の魂』を読み、
またハーパー社の
美術主任パットンとの出会いにより、
いよいよ訪日取材を決心する。
ハーンはハーパー社の特派員として、
挿絵画家のウェルドンと共に
ヴァンクーヴァーよりアビシニア号で来日。
1890年、明治23年4月4日に
横浜に上陸する。
船客の予想した視線より
遥か高い位置に富士が見え、
親子の漕ぐ和舟にのり、
手が届くそばまで鴨が近づき、
パン屑を与えたという。
彼は日本では法律により、
鴨が保護されていると思った。
上陸第一歩で感激したハーンは
自分はこの地で骨を埋めたいと思った。
ハーンは早速に人力車で神社仏閣を訪れ、
体験取材をする。
その後出版社とのトラブルから契約を解消し、
友人たちの骨折りで松江に
英語教師の職を得ることになる。

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ハーンがアメリカから持参したトランク(松江市小泉八雲記念館所蔵)

ハーンの来日以来の
親友である
ミッチェル・マクドナルド

バジル・ホール・チェンバレン
来日したハーンは仕事の先輩として
大層世話になった

P15

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1880年当時の横浜の海の玄関 税関(小学館『百年前の日本』より)
ハーンの来日姿を同行画家ウェルドンが描いた思い出のスケッチ

P16 松江時代

ハーンの松江滞在期間は
明治23年(1890)8月30日から、
翌24年(1891)11月15日までの
1年3カ月半である。
しかし日本への第一印象を深く刻んだ土地であり、
ハーンにとっては見るもの聞くものすべてが
好奇心の対象となった。
ハーンは松江で尋常中学校、
師範学校の教壇に立つが、
生涯の親友となる教頭、
西田千太郎との出会いや、
彼の世話で
よき伴侶となるセツとの結婚など、
ハーンの人生にとっては
大事な時期でもあった。
また松江を中心として
出雲、隠岐、美保の関などこまめに取材し
これらの周遊が
『知られざる日本の面影』として
1894年に出版された。
しかし、南での暮らしが
長かったハーンにとって、
松江の冬はとても耐えられなかった。
暖房設備はほとんど無きに等しい
当時では
仕方がなかったかも知れない。

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ハーンが赴任した
松江尋常中学校の
教頭であった西田千太郎

ハーンが使用した机と椅子
眼の悪いハーンは
机を少し高めにつくらせた
(松江市小泉八雲記念館所蔵)

ハーンはセツと結婚し
武家屋敷の1つである
根岸家を借りた
ハーンが好んだ裏庭の蓮池

P17

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松江時代 和服姿のハーン(1891)

P18 熊本時代

ハーンの熊本時代というと
明治24年(1891)11月19日から
明治27年(1894)1月9日頃までである。
第五高等中学校では
当時200円の俸給であったが、
授業時間が多く、
執筆に十分時間がとれない不満があり、
また日本の生活にも慣れてくると同時に、
反動的に幻滅を感じはじめる。
しかし、講演では市民に
熊本スピリッツの高揚を説き、
一方ハーンの尊敬する日本人、
校長の嘉納治五郎、
漢学の秋月胤永などと知遇を得た。
熊本ではよく旅をしており、
太宰府、博多を始め、
長崎、神戸、京都、奈良、門司、境、
隠岐島、美保、福山、尾道から
讃岐の金比羅さんまで出かけている。
ここで長男一雄の出生があり、
彼の始めての日本に関する著書、
『知られざる日本の面影』2冊の出版もみた。

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ハーンが好んで散策した
小峯墓地にある石仏

日本での最初の著書『知られざる日本の面影』2冊が
ハーンの熊本時代に刊行された(1894)

熊本市取本町34にあったハーン旧居
現在熊本市が記念館として管理している

P19

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熊本第五高等中学校時代の記念写真(1892)

P20 神戸時代

明治27年(1894)10月10日前後から
明治29年(1896)10月27日までの
約2年間である。
第五高等中学校では執筆にさく時間がなく、
チェンバレン教授などを通じて
神戸クロニクル社への転職に踏み切った。
論説記者として俸給は
100円であった。
皮肉にも今度は執筆のため
眼を痛め1895年には
クロニクル社を退職する。
一方少しずつ快方へ向かうが、
ハーンにとってもう1つ
大きな負担があった。
これは帰化問題であった。
彼が英国人であれば
死後の財産権は放棄せねばならぬ。
結局、彼が小泉家へ入夫するかたちで
日本へ帰化を決意、
翌1896年の1月に帰化が認められた。
同年6月には帝国大学へ招聘をうける。
また、神戸時代には
『東の国から』と『心』が発刊された。

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『心』の扉

ハーンの著書『心』が
1896年ニューヨークの
ホートン・ミフリン社より出版される

ハーンが勤めた
「神戸クロニクル」社

P21

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長男一雄を中に親子3人の記念写真(1895)

P22 東京帝国大学時代

当時の文科大学学長、
外山正一博士の熱心な要請によりハーンは
帝国大学文学部講師となり、上京する。
明治29年(1896)の9月である。
これから明治36年3月解雇されるまで、
6年3カ月を講師として俸職、
週12時間の授業で月俸400円であった。
しかし夏目漱石の『三四郎』に出てくるように、
講義を終えたハーンは
教官室へ入らず、
三四郎池の辺で休んでいる。
外人教師との接触を避けるためである。
学生には好感を持ち、
成績優秀な学生には
ポケットマネーから書物を買い求め、
学生に贈っている。
外山学長が亡くなった後、
1903年には大学側から解雇される。
学生たちの留任運動、
新聞の同情記事に驚いた大学は
留任を依頼するが、
ハーンは応じなかった。
ハーンは文筆に専念したかったが、
翌年には早稲田大学に
招聘されることになる。

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東京でセツが求めた『狂歌百物語』の歌をローマ字で書きとり
そのわきへ八雲が押絵を添えたもの
後日『妖魔詩話』と題して発行された

八雲は『日本おとぎ噺』という和綴じ
ちりめん紙の絵本シリーズを出している

八雲の東京時代の著書
上段左より
『異国情緒と回想』
『霊の日本』
『日本雑記』
下段左から
『影』
『骨董』
『仏の畠の落ち葉』

P23

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1895年ハーンの神戸時代

P24 焼津

ハーンは明治30年(1897)の夏、
静岡県焼津に初めて滞在して以来、
明治37年(1904)まで
ほとんど毎夏(明治31と36年を除く)、
魚屋山口乙吉の2階を借り
海水浴に出かけた。
それは海が遠浅ではなく波が荒いこと、
乙吉の人柄に引かれたこと、
当時の焼津は一漁村に過ぎず、
外人に会うこともなかったことなどが、
ハーンを焼津に引きつけた理由のようだ。
ここでは休養を主に、
簡単な校正や一雄への勉強をみるのが
日課であった。
ここから東京のセツ宛に拙い“へるん言葉”を
使った仮名綴の絵手紙を送っている。
焼津にあっても取材の手は休めず、
ここを題材にしたものには、
「乙吉のだるま」、「漂流」、
「焼津にて」、「海辺」がある。
焼津はハーンにとって唯一の
息抜きの場であった。

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山口乙吉
焼津では魚屋 山口乙吉の
家を借りていたが
八雲は正直者の乙吉を
神様のような仁といい
信頼していた

八雲が焼津から妻
セツに宛て出した片仮名の手紙

八雲は東京から
夏休みには
焼津へ行っているが
留守番のセツ宛に
絵手紙を送っている
八雲の描いた
焼津でのスケッチ

P25

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八雲は1897年の8月に愛弟子藤崎八三郎と共に
富士登山をしている この時の記念写真

P26 早稲田大学時代

ハーンは明治37年3月9日から
同年9月26日までの短期間を
早稲田大学の講師として在職している。
わずか半年である。
東京帝国大学時代のハーンの教え子であり、
当時早稲田大学教授をしていた
内ケ崎作三郎が高田早苗学長に推薦し、
高田学長から坪内逍遥に話があって、
ハーンを早稲田の
「床飾」として欲しいと
いうことになった(早稲田大学、関田かおる氏)という。
東京帝国大学より
好比率の4時間で年俸2000円と決まる。
当時の早稲田大学で最高給の坪内博士より
給与はよかったという。
ハーンは日本の宗教、民俗、習慣などを
取り上げた『日本一つの試論』を脱稿した後、
日本の演劇、歌舞伎を調べたかった。
そこで坪内博士に
日本の演劇についての質問を出しており、
坪内博士からは日本の演劇を
細かく分類説明した手紙が届いている。
ハーンの寿命がもう少しあれば………。

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『怪談』に出てくる
‘むじな’の
直筆原稿添付の団扇

1904年八雲が亡くなる年に
『怪談』は発刊された

八雲より
日本の演劇についての
質問に対する
坪内逍遥博士の返事
この手紙を屏風に張り込んだもの
(早稲田大学演劇博物館所蔵)

P27

HEARN_P27

1904年9月11日早稲田大学教職員の記念写真(上野の山)

P28 小泉家の人々

P29の1枚の写真はセツを中心とした
家族・身内の写真で
東京本郷にある中黒写真館で写したもの。
左からセツ、隣の学生が書生の新見、
若い頃の三成重敬(セツの従兄弟)、
その下が稲垣トミ(セツの義母)、
右が玉木花(セツの姪)、下段の子供たちが左から、
三男の清、次男巌、長男一雄の順である。
市ヶ谷富久町ではセツ、義母のトミ、
子供3人、書生3人、女中3人、車屋夫婦と
何時も12人程の人たちを
八雲は養っていたことになる。
いくら物価が安定していた
時代とはいえ大変である。

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セツの英単語覚え帳(松江市小泉八雲記念館所蔵)

一雄が刻んだ八雲の肖像画

長男一雄に
時計の読み方を
教えるために描いた
八雲のスケッチ

P29

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P30 逝去

ハーンは明治37年(1904)9月26日に
狭心症のため息を引き取ったが、
同月19日にも心臓発作が起きている。
その直後、セツの縁戚にも当たる
梅謙次郎博士にフランス語で遺書を認めている。
またセツには「3銭位の壺を買い、
自分が死んだらその中へ入れて、
静かな小さな寺に埋葬してくれ、
死亡通知はいらない」などといっている。
セツの『思い出の記』によると、
亡くなる当日の朝、
ハーンは煙草をくゆらせながら、
「昨夜は大層遠いところへ旅をした夢をみました、
西洋でも日本でもない、珍しいところでした」と
語ったという。
寺に葬っても、
墓地は移転する恐れもあり、
生前ハーンが好んで散歩をした
雑司ケ谷墓地へ埋葬された.
葬儀は梅博士を葬儀委員長として
牛込瘤寺で仏式に行われた。
汎神論者であったハーンは
仏教徒として、
正覚院殿浄華八雲居士の法名を贈られた。
享年54歳であった。

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八雲の最後の著書『日本 一つの試論』の校正刷りの一部

『日本 一つの試論』
実際本が出たのは
八雲が亡くなったすぐ後であった

『日本 一つの試論』
和綴じで三巻にわたる校正つづり

P31

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亡くなる少し前の八雲像

P32 ハーン、百年後の解釈

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アメリカから持参した
つば広のカウボウイ・ハットを
かぶった八雲(1897 東京)
長男一雄に教材として描いた八雲の詩画
水彩絵の具で彩色している(下)

P33

小泉八雲―ラフカディオ・ハーンが来日して100年がたつ。これを記念して、
昨1990年秋 ゆかりの地、松江で大規模な国際シンポジウムが開かれた。
テーマは「小泉八雲―解釈の試み」。100年前、明治の日本は、アジアの台風の目と
なろうとしていた。西洋世界に向かってそのアイデンティティを示し、
国際社会の中で正当な地位をうる必要があったのだ。
このときハーンはその作品をとおし、日本文化の特質を
高度な倫理社会のそれとして西洋社会に提示し、実をあげた。
100年後近代化した現代日本も、世界にそのアイデンティティを
示すことに苦しんでいる。いま、ハーンの軌跡を振り返り、
その創作と努力のあとをたどることは、新しい
道を求める現代日本に大きな示唆を与えることになろう。
国内はもとより、世界からこの催しに参加した諸先生のご意見を集め、
特集を組んだゆえんである。

HEARN_P33

‘お化け行灯’
東京で浮世絵を求めた時に
オマケとして入手したもので
八雲は大事に書斎に
飾っていたという


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※日本IBM社外からの寄稿や発言内容は、必ずしも同社の見解を表明しているわけではありません。