被災地に、途上国に。 一過性の支援ではなく、地域に根付く産業を起こしたい

被災地や途上国の支援には、さまざまな形がある。
「一般社団法人re:terra(リテラ)」代表の渡邉さやかさんは、東日本大震災で被害を受けた三陸地域に新しい産業を起こすため、土地の椿を使った化粧品づくりに着目した。この事業の立ち上げに奔走する一方、カンボジアではネイルサロンを立ち上げた現地の女性とともに美容学校設立を目指す。そのほかにも、アジアの女性起業家をサポートする取り組みや、JICA、経済産業省が手掛ける事業にも参加するなど、ビジネスを通じた支援活動によって新たな社会の在り方を模索している。
渡邉さんをこうした支援活動に駆り立てるものは何か。また、被災地や途上国での取り組みから見えてきた社会の課題とは何か。世界を股に掛け、精力的に活動する社会起業家・渡邉さやかさんにお話を伺った。

東日本大震災が
新たな一歩を踏み出すきっかけに

被災地に、途上国に。 一過性の支援ではなく、地域に根付く産業を起こしたい

2011年3月11日。東日本大震災発生と同時に渡邉さんは動いた。渡邉さんが企業に勤務しながら活動に参加していた米国NPO法人「コペルニク」は、いち早く寄付を集め、ソーラーランタンを被災地に届けた。電気もガスも使えず、暗く凍てつく夜を過ごす被災地の人々。そこでは、コペルニクが普段途上国向けに支援活動で提供しているソーラーランタンがきっと役に立つはずだ、と判断したからだ。このとき、渡邉さんはどこの地域で電気やガスが止まっているか、何に困っていて何を必要としているかの調査など、後方支援に奔走した。

当時日本IBMでコンサルティング業務に従事していた渡邉さんは、その年の6月に同社を退社し、社会事業への道に飛びこむ。もともと国際協力や社会貢献といった分野に興味を持ち、大学や大学院では国際関係論を専攻した渡邉さんだ。いつかは会社を辞め本格的に活動しようと考えていた。震災は新たな一歩を踏み出すきっかけとなった。

地域を再生するためには産業が必要だ。一過性の支援ではなく、地域に根付く産業として、少しでも多くの雇用を生むようなものにしたい。渡邉さんは最初、コンサルタント業務に携わってきた自分として何ができるのか、東北3県の三陸沿岸をまわって地域の中小企業の人々に会い、いろいろな可能性を探った。醤油、デニム、日本酒……。最終的に取り組む決断をしたのが、のちに商品化した椿油だった。震災発生からまだ3、4カ月後という時期の話である。

気仙沼の椿油を利用し
もっと高付加価値の商品に産業化できないか

渡邉 椿は雪の中でも咲くとか、津波を被っても枯れず美しい花を咲かせた椿があるとか、地元の人たちから話を聞いていました。もともと三陸では椿の実から油を絞って食用油として使っていたのですが、それはほんの一部。ほとんどの実は活用されることもなく、道端に落ち放置されたままでした。それを見て私がイメージしたのは、モロッコのアルガンオイルです。現地の女性たちが食用油として絞っていたものを、美容の原料として使うようになり、いまや化粧品の高級オイルとして市場に出回っています。気仙の椿も、もっと付加価値の高い商品として産業化できないかと考えたのが始まりでした。

被災地に、途上国に。 一過性の支援ではなく、地域に根付く産業を起こしたい

気仙椿とその実

こうして方向性は定まったが、現地との協力体制を確立するまでには時間を要した。たどりついたのが岩手県陸前高田市で椿油の採取、精油をしていた石川秀一さんだった。渡邉さんが東北新幹線の中でふと目にした地元の新聞には、石川さんが震災で息子を亡くし、工場も津波で流されてしまったため廃業届を出し、事業は地元の障がい者就労支援施設に引き継がれた──と記されていた。

早速、石川さんのもとを訪れて事業計画を説明したが、簡単にOKは得られなかった。そもそも石川さんは震災前に、大手企業から「椿油を売ってほしい」と頼まれても断り続けていたのだ。地域の外から大きな資本が入ってくると、地元らしさなど二の次で飲み込まれてしまうだけではないだろうか。そんな不安を抱える石川さんに、渡邉さんは「一緒に地域のブランドを作りましょう」と、スタッフとともに粘り強く説得を続けた。

やがて石川さんも少しずつ心を開くようになる。本当は椿油の仕事を続けたい。息子の代になったら、何か付加価値の付いた商品開発をしたいと考えていた。ようやく理解を得られたのは2012年の春のことだった。
渋る石川さんを根気強く説得する作業は言うは易しで、よそ者である渡邉さんには大変だったはずだ。初志を貫徹できたのは「地域を支えるには経済が必要だ」という強い信念だった。

渡邉 地域を支えていくためには絶対に経済が必要というのは、途上国と一緒です。国際協力を勉強し、いろいろなNGOを見て分かったことがあります。その地域で、そこに住む人たち自身が仕事を身に付け主体的に運営していかなければ根付いていかない。だからこそ、そこの地域らしいものを作りたかった。そして何より、石川さんご夫婦の心の復興、まずはお二人に元気になってほしいと思って陸前髙田に通い続けました。

いざ、商品開発は動き出した。東北支援に取り組む女性医師の会「En女医会(エンジョイ会)」が企画に参加し、大手のハリウッド化粧品が製造を担当した。2012年12月1日、地域の椿油を使ったハンドクリーム「Heaven&Heart」は3000ロットという少量ながら、立派に発売を開始し、見事完売した。 

被災地に、途上国に。 一過性の支援ではなく、地域に根付く産業を起こしたい

石川秀一さんご夫妻(左)。 En女医会(エンジョイ会)の皆さん(右)

被災地に、途上国に。 一過性の支援ではなく、地域に根付く産業を起こしたい

椿油を使った「Heaven&Heart」のリップクリーム(左)とハンドクリーム(右)

11歳のとき訪れたネパールが
その後の人生の原点になった

なぜ渡邉さんはこれほどの情熱を持って東北の復興支援に取り組んでいるのだろうか。ここで彼女の経歴を紹介しよう。
渡邉さんは長野県出身。11歳のとき、母親と訪れたネパールでの体験が、その後の人生に大きな影響を与えた。

渡邉 私が母のおなかにいるとき、山登りが好きだった父は、ネパールにトレッキングに行ったそうです。以来、父は「いつかお母さんと一緒にネパールに行っておいで。私と同じところをまわっておいで」と言っていました。それを実現したのが11歳になったときでした。

教員だった父親はネパールでトレッキングだけでなく、孤児院を訪れるなどネパールの人々の暮らしや社会に触れていた。「私と同じところを回っておいで」と言ったのは、そうしたところを娘にも見せておきたい、という親としての気持ちがあったからに違いない。
ネパールで目にしたのは、日本では決して知ることのなかった現実だった。路上で生活をし物乞いをするストリート・チルドレン、訪れた孤児院の子どもたちの視線。牛を殺すところからランチが始まるという経験もした。目にする多くの光景に衝撃を受け、心をかきむしられた。

渡邉 どうして日本人の大人はストリート・チルドレンを私の視界から遠ざけようとするのだろうかとか、旅行日記にいろいろな思いを書きました。豊かさってなんだろう、幸せってなんだろう。漠然とそういうことを考えていました。振り返るとあれが私の原点で、いつか貧困の解消など途上国のために何かできたらいいな、と思うようになりました。

ビジネスの力による課題解決法を学んだ
コンサルタント会社での4年間

被災地に、途上国に。 一過性の支援ではなく、地域に根付く産業を起こしたい

将来は国連や外務省で働きたいと考え、中学、高校時代はアメリカへの交換留学を経験した。高校卒業後は「国際協力に強い」というイメージがあった国際基督教大学(ICU)に進学する。大学では大いに勉強し、ボランティア活動や国際貢献のサークル活動に精を出した。大学時代も国連で働きたいという思いはあったが、インターンとして国連で働いたり、いろいろな人の経験談を聞いたりしているうちに、考えの幅が広がっていった。

渡邉 民間企業を知らないと、民間企業の人たちと会話がしづらいということを聞きました。逆に民間の人もNGOや国連の人と議論がしづらい。日本のODAがどんどん減っていく一方で、途上国一国よりも大きな予算を持っている大企業がある。だとしたら、民間企業ができることってもっとあるんじゃないか。じゃあ、まずはビジネスを経験してみようと思いました。

短期間でいろいろな企業を見ることができるという理由で、外資系のコンサルタント会社に絞って就職活動を展開した。すべての面接で「私は最終的には国際協力の仕事に戻りたい」と、はっきり言い続けたというから意志も強いが度胸もなかなか。結局入社したのは前述したようにIBMだった。面接官の「それなら3年で1人前にしてあげるから、そうしたら辞めて、志に向かって力いっぱいやりなさい」という言葉が決め手となった。

IBMではコンサルタントとして精力的に働き、さまざまなスキルを身に付けていった。同時に、NPO法人の立ち上げに参加したり、国連の報告書を読んだり、外部の勉強会に行ったりして、国際協力の世界を忘れないように努めた。「企業の帽子をかぶっていても、そこに染まりすぎると国連やNGOの人たちが言っていることが分からなくなってしまう」。結局IBMには予定の3年を超えて4年間勤務した。

渡邉 会社ではロジカルに物事を組み立てる力や、リサーチの方法、事業計画の作り方など多くのことを学ぶことができました。今いろいろなところで講演をさせていただく機会もありますが、コンサルタント業務でプレゼンをすることも多かったので、それが役立っていると思います。また、この時期に同じ思いを持つ、同世代の社会人とのネットワークもできました。そうした中で、もう少しビジネスの力を使って社会の課題を解決することに挑戦しようと考えるようになりました。

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