芸術とは、常に枠を広げ変革していくこと。そして、時代に提言しつつ、革新的に創造していくこと。

世界の才能が競い合うニューヨークを拠点に、日本画家として活躍する千住博氏。岩絵の具を駆使し、斬新な技法で描いた「滝」や「崖」の作品は、人種や民族、国境を超えて、人々の生命の本能に訴えかけてくる。
遠い昔、シルクロードの東端にあった日本は、ギリシャやローマ、ガンダーラや中国など世界の多様な文化を受け入れ、長い時間をかけて「和」の精神の下に調和させ、熟成し発展させてきた。日本の美術の中には世界中のものが凝縮されている。混迷する現代にあって、自然の側に身を置く日本画の発想は、世界に発信すべき平和創造のメッセージである。

「芸術とは、そして文化とは、内側ではなく『辺境』にいて、絶えず一番外側の枠を拡げている人々によって創られていくもの」「私は日本人としてではなく、『人間』として民族や時代を越え発信していく」と信念を語る千住氏。時代と共に生きながらも、作品を通して時代を変革的に創造することに挑戦し続ける千住氏に、芸術論から「AKB48とネット社会」の意外な関係まで、縦横無尽に語っていただいた。

時代を表現しつつ変革的に創造する 

――千住さんは、お若いころから日本画壇の中枢とは無縁なニューヨークに拠点を置かれ活動をされていますが、その目的は何だったのでしょうか。

芸術とは、常に枠を広げ変革していくこと。    そして、時代に提言しつつ、革新的に創造していくこと。

千住 世界の優秀な芸術家が集まってしのぎを削っている場所があったら、自分もそこに身を投じたいと思うのが芸術家を志す者にとっては自然な気持ちです。それが私の時代はニューヨークでした。100年前はパリであり、もっと前はフィレンツェでした。共通しているのは世界の経済、金融、貿易の中心、つまり情報の中心地だったことです。

ニューヨークでは天才たちが素晴らしい作品を発表していました。私が渡米した1990年代前半は、ホームページもインターネットもユーチューブもブログもツイッターも何もなかった。つまり情報が何も手に入らないので、情報発信されている場所に行くしかありませんでした。だから水玉模様で知られる現代アートの草間彌生さんも、現代美術家、ポップアーティスト、映画監督として活躍する村上隆さんもニューヨークに行かれたのです。

芸術とは、そして文化とは、内側ではなく「辺境」にいて、絶えず一番外側の枠を拡げている人々によって創られていくものです。私は日本画壇の内側ではなく、一番外側にいて、日本画の定義を拡げる仕事をし続け、新しい日本画の骨格を作ってきました。
よく伝統(トラディション:tradition)を守ると言いますが、本来、トラディションの「トラ」は、トランジション(移行、変化:transition)とかトラベル(旅:travel)という派生語にも見られるように、打ち破って新しいものに移っていくという意味を持っています。常に枠を広げていくこと、これが芸術の本質です。ただ守っていればよいものではありません。長い年月をかけて育んできた伝統や普遍的な芸術性を大切にしながら、作品を通して時代に提言し、変革的に創造して、時代を牽引していくのが芸術家の役割です。

しかし、私が今、20代の若者だったら、私の時代ほどにはニューヨークに行く意味はないと思います。すべての情報はインターネットで知ることができるし、世界のどこにいても文化的中心になれるからです。作家は自ら発信し、自分を知ってもらい、世界をインスパイアすることができる。私たちは今とても豊かな選択肢を手にしています。これはインターネットの利点であり恩恵です。

もし、ゴッホが現代の画家のようにホームページを作ることができていたら、あのように埋もれることはなかったでしょう。誰かがホームページを見て、ゴッホの所へ自分から出かけて行ったはずです。画商たちは絶えず新しい作品を探しています。ゴッホの作品は今、何百億円という値段が付いていますが、もし時間差がない形で世に受け入れられていたら、もっと違う形で全世界に認識されていたはずです。

芸術とは「分かり合えない人たちと分かり合う手段」である

――千住さんは「芸術とはイマジネーションをコミュニケーションすることである」と述べておられます。分かりやすく解説していただけますか。

芸術とは、常に枠を広げ変革していくこと。    そして、時代に提言しつつ、革新的に創造していくこと。

千住 「分かり合えない人たちと分かり合う手段」、それが芸術です。「仲良くやる知恵」と簡単に言うこともできます。こう明確に言えるようになったのはごく最近のことで、それまで「芸術とは何か」という問題は、専門家にも全体像がよく分かっていませんでした。

なぜ最近になって分かってきたのか。これにはネット社会の登場が大きく影響しています。インターネットによって世界は大変革を遂げ、はかり知れないメリットを得ることができました。しかし、その半面失ったものは何だろうかと考えた時、それは人間味のあるコミュニケーションであり、同時にそのコミュニケーションを担ってきたのが実は芸術であった、ということが浮かび上がってきたのです。
1990年代はまだ芸術の本当の姿が見えていませんでしたが、ネットが発達する2000年代になると人間性という水が引いて水面が下がり、本来見えるはずのなかった生命の根源的な存在感が見えるようになりました。

少し歴史的に考えてみましょう。人類が地球に初めて登場したころ、言葉はしゃべれませんでした。偶然、鳥の骨を口にくわえて吹いてみたら、呼吸に合わせて悲しみや喜び、切なさ、孤独感などを表せることに気が付いた。そうした感情を何とか伝える術を手に入れた時が芸術誕生の瞬間でした。
その音を聞いた他の人たちが「私もそうだ」と思ったら、それが芸術的感動の始まりです。つまり芸術とは、表現することが難しい感情や気持ちを、人間の五感を通して何とかして伝達しようとする全体表現なのです。のちに絵画、音楽、文学などに細分化しましたが、人類の長い歴史の中ではすべてが一体になった総合的な表現であり、目指すところは1つでした。

しかし、現代のように人と直接対面をせずネットを介したコミュニケーションに依存する社会では、そうした総合的な表現を通じたコミュニケーションがとても難しい。ネットでは五感のうち目と耳以外ほとんど使いません。匂いも味も触感も伝わらない。それは相互に分かり合う人間本来のコミュニケーションではありません。ネットでは嫌なことは簡単に消去できますが、現実には嫌な人とも付き合わねばならず、恋愛でも友情でも仕事でも、何とか分かり合う手段を互いに探り合う。それが本来の人間のコミュニケーションです。

人類の歴史の99%は、そういうことを意識しなくてもちゃんとコミュニケーションできていました。それに比べ、今は人間として難しいディス・コミュニケーションの状況にあることを自覚しないといけません。ですから芸術の役割がますます重要になっています。

分かり合える人たちだけで分かり合うことを「オタク」と言います。分かり合えない人たちに何とか分かってもらおうとするのが芸術です。人間という文字は人の間と書くように、自分の感情やイマジネーションを相手に伝えようと、常にコミュニケーションし合うのが人間です。つまり、人間イコール芸術であり、人間的感動を芸術的感動と言い、本来人間がする行為はすべて芸術的行為です。それが芸術の今日的な意味です。

襖絵に描いた滝に、鳥が飛び込んでくる

――千住さんの代表作の「滝」は、見る者に自然の中で生きる厳粛さや生命の喜びを実感させてくれます。発信者としてはどのような感動を表現されているのでしょうか。

芸術とは、常に枠を広げ変革していくこと。    そして、時代に提言しつつ、革新的に創造していくこと。

千住 何かを描くとき、世界の誰が見てもそれが何であるか理解できることが大切です。「滝」は世界の誰が見ても滝であることが分かりますが、同時に他にはない独自性を表現しなくては優れた芸術作品にはなりません。
非常にラッキーなことに日本には天然の岩絵の具があり、見た人は「これは滝だ。でもこの絵の具は何?」と疑問に感じる。日本文化が世界に伝わる瞬間です。

私が滝に魅力を感じるのは、静止した風景の中でそこだけが動いているからです。それを表現するために筆で描くのではなく、上から絵の具を流してみる。すると「この作家は動くものに興味があるのだな」と伝わる。順番から言うと、滝を描くことより「水が滔々と流れ落ち続けている」と伝えるのが先なのです。
森の中で滝を見て、これは何だろうと思うのは人間だけではありません。シカもクマもキツネも近寄ってくる。そこに行けば水が流れ生き延びることができる。これが美という感覚、つまり生きていくことです。私は本能として生命の源である滝に興味があるから描いているのです。

静岡県伊東市にある京都の大徳寺別院の襖絵に描いた「滝」には、鳥がしょっちゅう飛び込んできます。くちばしが刺さって穴があく。鳥もそこに滝を感じているのだとしたら、画家としてこれ以上の喜びはありません。展覧会では子どもたちが「滝」に触りたがります。こうした生命の本能に関わる仕事ができれば、時代を超えることができるし、まして人種、民族、国籍などは何ら壁にはなりません。

私は 「滝」を描くたびに、前回はどう描いたか忘れてしまっています。ですから毎回初心からやり直しです。大徳寺の偉いお坊さんが「悟りとはそういうものだ」とおっしゃった。1度悟りを開くとそれで終わりではなく、全部忘れてしまって、また分からなくなる。だから永遠に修行するというのです。
芸術の制作もそうで、毎回描き終るたびにリセットされ疑問が湧いてくる。経験は生きず、毎回初めてなのです。垂らした絵の具が斜めに流れるとか、いつも想定外のことが起きます。でも自然は人間がコントロールするものではない、それが自然なのだと受け入れて、次の形を考える。これ以上、手が打てないというところまで来たら完成です。

岩絵の具の魅力とその限りない可能性

――「日本画は岩絵の具との対話が出発点であり、到達点である」とおっしゃっていますが、千住さんを引き付けるその魅力とはなんでしょうか。

芸術とは、常に枠を広げ変革していくこと。    そして、時代に提言しつつ、革新的に創造していくこと。

千住 道端の小石を見ても人は何の感動も抱かないでしょう。でも、147億年前に宇宙が誕生し、46億年前に10個の原始小惑星がぶつかって地球が生まれた。地球の存在自体が奇跡であり、我々はその奇跡の上で生きています。宇宙創成の産物が路傍のその小石なのです。小石は気の遠くなるような年月を経て丸い小さな石になった。いわば時間と空間の宝石です。

それと同じように、宇宙創成の産物である天然の鉱石や半貴石を砕いたのが岩絵の具です。それで絵を描くことは宇宙とスキンシップすること。大昔、人はそれを顔に塗って宇宙(コスモス)と同化した。それが化粧品(コスメティックス)です。化粧をするという行為は、本来宇宙と一体化するということだったのです。

岩絵の具はいつも同じように描けるものではありません。日差しや湿気、気温、空気の流れによって発色が変わってきます。その微細なところまで観察する力がないと、岩絵の具を使うことはできません。
岩絵の具は知れば知るほど、その無限の可能性のほんの一端にしか触れていないことに気が付きます。和紙もそうです。私は和紙を揉んで崖に見立て作品を制作しましたが、そんなことはそれまで誰もやっていませんでした。絵の具を上から流すこともそうです。素材自体があまりに魅力的なので、誰もが新しい技法を開拓しなくても自分を十分表現できると思っていた。これはいわば日本画の悲劇です。
日本画の伝統や普遍的な芸術性を大切にしながら、こうした魅力的な素材を存分に生かした新しい技法も積極的に開拓し、変革的に素晴らしい作品を創造していくのが芸術家の使命だと思います。

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