1つ屋根の下で暮らし、見えてきた真の異文化 コミュニケーション  ――10年間で40人の留学生と暮らしたホストマザー

「だったら、私の家に来ない?」
貸してくれる部屋が見つからないアジアからの留学生の友人に掛けたひと声。そこからすべては始まった。
シンガー・ソングライターの玉城ちはるさん。映画やドラマに楽曲を提供しながらテレビ、CM等に出演し、ラジオのパーソナリティーやMCなどの活動をしている。また、大学では非常勤講師として「異文化コミュニケーション」を伝え、ボランティア団体の代表としては平和イベントや地域での清掃活動などを行う。
さまざまな顔を持つ彼女は、アジア各国を中心とした留学生を受け入れてきた「ホストマザー」でもある。2004年から約10年間、シンガー・ソングライターなどの忙しい仕事を精力的にこなしながら、これまでに約40人の年代も国籍も違う留学生たちを受け入れてきた。毎朝早起きをして、常時7~8人いる留学生の弁当を作って送り出し、掃除、洗濯、料理を続け、まさに「母親」として接してきた。
玉城さんは、1人ひとりの学生を「うちの子」と呼ぶ。
「ネットや学校で教わった知識ではなく、同じ屋根の下で共に暮らし語り合う。そうすることで、同じ人間同士だということを肌で感じ、理解し合うことができる」という玉城さんに、真の国際理解とは何か、ホストマザーの活動を通して感じた新しい価値観や、今後の目標などについて伺った。

共同生活の中で芽生えた「血よりも濃い絆」

――10年間、延べ40人もの留学生のホストマザーになられたきっかけは、何だったのですか。

1つ屋根の下で暮らし、見えてきた真の異文化 コミュニケーション  ――10年間で40人の留学生と暮らしたホストマザー

玉城 2004年、アルバイト先で知り合った中国からの女子留学生が、住むところがなくて困っていました。当時、彼女は6畳1間のワンルームを、4~5人でシェアして住んでいました。「外国人だから」という理由で部屋がなかなか見つからず、“又貸し”状態。そんな狭さなのに、家賃は5万円も払っていたと言います。せっかく日本に興味を持って、日本語を学んでくれているのに、「日本人は家も貸してくれない民族だ」と思って帰国してしまうのはあまりに悲しいと思ったのです。そこで、「だったら、私の家に来ない?」となったのが始まりです。そして、その子の知り合いの困っている子も・・・と芋づる式に増えていき、どんどん家も広いところに移らざるを得なくなって、最終的には3階建ての一戸建てに7~8人で住んでいましたね。

――保証人もない状態で、口コミだけで同居させていたのですか。

玉城 はい。最初は「学校に困っている子がいるから、連れて帰っていい?」から始まり、誰かが卒業して帰国する時に、次の子を連れてくるようになりました。共同生活なので、他の子たちと、「だれだれちゃんの紹介の〇〇君、みんなはどう思う?」と聞き、面接をして、みんながOKを出せば、来てもらうことになっていました。そうやって、いろいろな国の子どもたちと「家族」として暮らすようになったのです。
保証人、身元引受人には私がなっていました。薬学部や医学部では、学費の保証人が必要になります。「よく考えてね。ママはあなたを愛していて、大切に思っているからハンコを押すんだからね」と念を押しましたが、さすがに印鑑を押す時には手が震えましたね。

でも、不思議なもので、2~3年一緒に暮らすと、いろいろなことを共に乗り越えてきた信頼、血よりも濃い絆のようなものが生まれてくるんです。子どもたち同士も話しているのでしょうね、「ママはあなたを裏切らないから、あなたも絶対にママを裏切ってはいけないよ」と。運が良かったのかもしれませんが、騙されるようなことはありませんでした。

――20~30代の若いホストマザーとしては、プライバシーや人間関係などで苦労されたのではありませんか。

玉城 私自身はプライバシーということをあまり気にしないんですよね。子どもたちは、6畳の部屋に2段ベッドを置いて、2人ずつ生活していましたが、私は寝る時以外はリビングにいるようにしていました。うちには留学生だけではなく、日本の「施設」を出た子も滞在していました。その子たちは、愛情を確かめたいのです。自分が愛されていることを理解するには、私が「そこにいる」ことが安心につながります。何かあれば彼らが私に声を掛けてくるので、私から彼らの部屋をノックはしません。私は「ここにいるよ、大丈夫だよ」ということを分かってもらうために、リビングにいました。

うちに来てから半年間、ずっと私を無視していて、部屋から出てこない男の子もいました。「そういう態度を続けるのなら、もう、この家を出ていきなさい!」とついにたまりかねて怒鳴ったらことがあります。すると、「ママ、僕を追い出すのは人道的にちょっと」とか言うんですよ(笑)。
結局、彼は7年間うちにいて、就職して出て行く時には、「あの時の僕は何も分かっていなかった」とボロボロ泣きながら感謝の言葉を言ってくれましたけれど。
子どもたち同士には兄弟のような人間関係が生まれました。滞在年数順で一番上の子が下の子の面倒を見たり、口うるさいために疎まれたり。本当の大家族のようでした。

DNAは争えない

――衣食住、すべてを玉城さんがお世話なさっていたのは、なぜですか。

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玉城 私自身、学生時代に父を亡くしたために、大学をやめざるをえませんでした。だからこそ、困っている留学生と出会った時に、本能的に学校をちゃんと卒業してほしいと思いました。私が衣食住の面倒を見てあげさえすれば、彼らがアルバイトをして学費を払い、卒業できるのだとしたらそれはさせてあげたいと。
振り返れば、人のためというよりは、自分のためでしたね。私自身も欲するところがあって、彼らと共同生活していたと思います。

――そこまで相手に愛を与えられるということは、玉城さんご自身がしっかり愛情を受けてこられたからなのでしょうね。

玉城 父は自ら死を選ぶという亡くなり方でしたので、なぜ父がそうしたのか、もしかしたら私たちを愛していなくて、自分のことしか考えていなかったのではないかと悩んだ時期もありました。けれど、どう考えても、愛されて育ったのです。父は私も、妹も、本当に愛してくれた。そして私自身、親に愛されて育ったという実感があるから、他の人にも同じようにという気持ちになったのだと思います。

――玉城さんが小さい時、お父様は保護司の方からお子さんを預かって育てていらしたのだそうですね。

玉城 その時の経験から、他人と一緒に暮らすことに抵抗感が無くなったのかもしれません。母は私に「DNAは争えん」と口癖のように言います。
父は四半世紀も前の広島の片田舎で、少年院のような施設を出た子どもたちを更生の一環として預かっていたのですが、きれいごとだけではなく、本当にいろいろな問題がありました。私が小さい時は、「血はつながらないけれど、優しいお兄ちゃんたち」という感覚でしたが、小学生になると、近所の人や同級生から変な目で見られているということに気付きます。思春期になると「お父さんは見栄っ張りだから、こんなことやっているんだ」と父と喧嘩したこともありました。けれど不思議なもので、その父親と今の自分は同じことをしているんですよね。結局父も、「わししか助けられんて」というのが口癖でしたから。あんなに喧嘩するほどいやだったのに、今、同じことをしているのがとても不思議です。

その「お兄ちゃん」たちは今では立派なパパになって、子連れで私のコンサートに来てくれます。父が多くの子どもたちを愛した結果が、今、私を愛してくれている人々につながっているのだろうと思います。

共に住むことで「体温」が伝わり、価値観の違いも分かり合えるようになる

――共同生活をしたからこそ見えてきたものや課題などはありますか。

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玉城 いろいろな国際理解の形はありますが、私が一緒に暮らすことにこだわったのは、「体温が伝わる」からです。頭では、「違う国の人と暮らしているのだから仕方ない」と分かっていても、感覚としてはつかめないことって、ありますよね。

例えば、ある中国人留学生は、必ず食事を残しました。私もなんとか全部食べてもらおうと、味付けや盛り付けなどいろいろ工夫して頑張りましたが、それでも残すので、ある日ついに「日本では食べ物を残すことは失礼なのよ!」と注意しました。
すると、彼は中国では食べ物を残すことが礼儀なのだと言うのです。「ご馳走は充分な量でした、もうお腹いっぱいです」という意味なのだと。お客さんには余るほど出して、お腹一杯になってもらうのが中国流のおもてなしであり、お皿がカラになっていると料理の量が足りなかったという意味につながるので、相手を思いやって一口残すのがマナーなのだそうです。所変わればマナーも違うというところでしょうか。

頭では分かった後も、こちらは「食べ物を残してはいけない」が染み付いているから、やはり抵抗感があります。ところが不思議なもので、その子とずっと長く暮らしていると、残されることにそんなに腹が立たなくなりました。共同生活を続けてその人の「体温」が伝わってくると、腹が立たなくなるのです。これは価値観が違うのだから仕方がない。誰も悪くないのだと。

――大学の「異文化コミュニケーション」の授業では「体温」が伝わるコミュニケーションを、どのように教えていらっしゃるのですか。

玉城 例えば、学生たちをA国とB国に分けます。B国の子だけに「相手の意見がいいなと思ったら、その相手の頭をポンと叩きなさい」と書かれた紙を渡します。授業中、B国の子はA国の子の頭をたたき続けますが、A国の子は、なぜ叩かれるのか分かりません。1時間もすると、A国の子たちは、とてもおとなしい子までもが、次々に怒りだして文句を言うようになります。
私たち日本人は小さい時から頭を叩かれることは屈辱的だと思っているので、その意識にはあらがえません。簡単に異文化コミュニケーションと言いますが、果たして日本人がどれだけ異文化を分かっているでしょうか。本当の異文化コミュニケーションは、言葉が通じるだけではなくて、「肌感覚」でお互いの痛みや喜びを分かり合えることだと思います。

新しい世代で、新しい形の国際理解ができたらいい

――これまでの10年間で、玉城さんご自身が学ばれたことはどんなことですか。

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玉城 さまざまな国の人たちを受け入れたことで、多様な価値観の違いを受け入れられるようになりました。自分の視野も広がりましたし、仕事が楽になりました。相手から何か威圧的に言われた時も、育った環境が違うんだな、と思ったり、どうしてこの人はこんな風に言うんだろう、と考えてみたりすることで、傷つかないようになったんです。

例えば、以前うちにいたモロッコ人は全然食事を一緒にしませんでした。彼女は自分のプライバシーを大事にして行動しているだけなのですが、協調性を重んじる日本人としては否定された気持ちになりますよね。そういう時に、ちゃんと一緒に食卓を囲んでいる中国人や韓国人を見て、「ああ、アジアだなあ」と一体感さえ覚えましたね。それまで、韓国も中国も日本とは違う、と思っていたのに、「一緒に食事するなんて、協調性あるなあ」と思ってしまいました。不思議ですよね。単に一軒家で、地味に暮らしているだけですが、その小さな共同生活が大きな理解を生むんです。

――異文化を許容するって、そういうことですよね。

玉城 もちろん日本人の奥ゆかしさ、空気を読むという配慮は素晴らしい文化ですが、そのために心を病んでしまう人がいますね。そういう子どもたちに知ってもらいたいのは、世界の人たちはもっと空気読んでないよ、そんなに頑張らなくていいよということ。日本人は繊細で、必要以上に傷ついてしまうので、他を知ることで楽になれます。

うちには、日中韓、3カ国の子どもたちがいることが多かったのですが、みんなでいろんな話をしました。それぞれ受けてきた教育が違いますから、時にはディベートのようになります。そういう時には、どちらが正しい、どちらが間違っている、ではなくて、これから私たちに何ができるかを話し合えたらいいね、と言ったんです。「この家では、日中韓、3カ国の人間が仲良く暮らしているから、こんな風に新しい形を、私たちの世代で見つけられたらいいね」と。

すると、中国の子が「僕たちはいいけど、おじいちゃん、おばあちゃんの世代は難しいね」と言ったのです。その時の「僕たちはいいけど」に私は光が見えた気がしました。いわゆる、政治的、歴史的課題は私個人が解決できることではないけれど、新しい形を見つけられたらいいね、という若者が増えて、やがて大きな輪になっていけば個人レベルで、民間レベルで理解していけるのではないか。時間も手間もかかるけれど、私ができることって、それしかないんですよね。

東京にはたくさんのゲストハウスがあります。いろいろな国の人たちが住んでいます。1~2カ月、無理なら1週間でもいいから一緒に住んでみると、これまで気付かなかった新しい発見や、感動や、さまざまなことを体験できると思います。
これからオリンピックに向けて、シェアハウスに泊って交流したり、短期間のホームスティを受け入れたり、個人で外国の人と交流をしてみようと思えば、どんなことでもできると思うのです。家が狭いとか、お金がかかるからとか考えないで、おもてなしとは「心」だと、もっと気軽に考えたほうがいいと思います。

多様な活動の根幹にあるのは、「生きること」

――玉城さんは、平和のためのボランティア活動なども幅広くされていますね。

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玉城 いろんな活動をしているね、とよく言われるのですが、結局、すべてが「生きること」につながっているんです。父の死の影響が大きいと思いますが、人はなぜ生きるのか、愛とは何だろうか。父の死をきっかけに考えるようになりました。子どもたちとの共同生活も、彼らが困っていたから私が衣食住の面倒を見ましたが、精神的には、「彼らを支えている」という自負心が私を奮い立たせ生きるすべてだったと思います。

私の歌に出てくる「愛」も「平和」も、結局は「生きる」ことがテーマです。生きているから喧嘩もするし、葛藤もします。喧嘩してうちの子たちに、「もう、ママなんて嫌い!お世話になったのは、最初の1年だけ」なんて言われると、みじめだなぁ~とか、こんなに頑張っているのに、こんなことを言われるんだ・・・、と落ち込む。でも、「ありがとう」と言われるとすごく幸せになって、私ほど人に愛されている人はいないな、と曲を作ったりもします。本当に、格好悪いくらいに人間くさく泥臭く生きていると思います。

――それらの活動の中で、心掛けていることは。

玉城 学生たちとのボランティア活動では必ず言うのですが、「自分のためにやっている」ということです。「人のため」と思うと、どこかで破綻を来たします。うまくいかない時に、誰かを責めたくなる。
実は私個人の預金の残高が7万円までに減ったことがありました。毎月の家賃が28万円、電気・ガス代が12万円。子どもたちに「あなたたちも少しは負担して!」「なんで節約しないの」と思ったこともありました。自分が彼らを助けたいと思ってホストマザーを始めたのに、助けようと思った人に文句を言うようになってしまったのです。そんなみじめな自分になり下がらないために、すべては自分のため、とか、自分がやりたいと思ってやっているのだ、と思うようにしてきました。

50歳までにかなえたい将来の目標

――昨年、最後の留学生が卒業したのを機に、玉城さんもホストマザーを卒業されたそうですが、今後の活動の目標は何でしょうか。

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玉城 東日本大震災後、震災孤児が増えましたが、18歳以上の子どもたちがいられる施設が日本にはありません。例えばそういう若者たちと、留学生たちが通えるような学校、そして、学生たちが一緒に生活できるシェアハウスのようなものができないかと思っています。

というのも、うちには日中韓の3カ国の学生がいることが多かったのですが、共同生活をして常にコミュニケーションしているので、どの子もお互いの国の言葉を覚えるのがとても速かったのです。日中韓の3カ国語に加えて、英語ができたら、それはとても素晴らしいですよね。
実際に、うちの子が就職した日本のある企業の社長さんに、「4カ国語が話せるっていうのはすごい。これからは彼のような人材がもっと必要になります」と言われたことがあります。

中国や韓国だけでなく、英語を話す香港やシンガポール、フィリピン、マレーシアなどからの留学生たちと、なんらかの事情で学校に行けない日本の子たちが共同で生活する。生活の中でお互いの言葉を覚えながら学校に通う。施設で育った子たちは、留学するお金はなくても共同生活で留学と同じような体験ができるし、留学生たちも日本語の他に複数の国の言葉を日常的に覚えられて双方にメリットがあるのではないかと思うのです。
そういう場である学校やシェアハウスのようなものを50歳までにつくりたい。それが将来の目標です。今、そのためにお金を貯めて、支援者を募っているところです。

――まさにアジアの時代にふさわしい「グローバル人材」の育成ですね。

玉城 日本企業は東南アジアに多く進出していますし、そういう企業にとっても、素晴らしい人材の育成につながると思うのです。

生きることを選んだからには覚悟を持って生きていきたい

――玉城さんが作詞された『私は生きている』という素敵な歌がありますが、玉城さんにとって、「生きる」とは何ですか

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玉城 「覚悟」だと思っています。生まれることは選べないけれど、死ぬことは選べますね。今は笑って話せますが、個人の貯金が7万円になった時、うちの子たちを路頭に迷わせてしまう、私はどこで失敗したんだろうと自分を責め、悩みました。人助けだと思っていたのは、私の見栄だったのかと、かつて父に吐き捨てた言葉が全部自分に返って来て、眠れない夜もありました。

けれど、立ちあがって生きるしかないのですよね。今は、新しい目標をつくって、自分の生き方への覚悟をしています。この10年、ホストマザーとして経済的には回しきれなかったことが、ある種の失敗でした。ただ、ここに至るまでのいろいろな失敗、試行錯誤があったからこそ次に向かえる。今度は1人で頑張るのではなく、もっと周りの支援やいろいろな知恵を頂いて、学校をつくるという次の目標に向かって行きたいと思っています。

TEXT: 深井久美

玉城ちはる

たまき・ちはる
玉城ちはる シンガー・ソングライター

1980年 広島県出身。映画音楽の制作、CMへの楽曲提供を始め、ナレーション、ドラマやゲーム音楽を手掛けるなど多方面で活躍。2012年発表のアルバム『ひだまり』では、伊藤銀次、杉真理、村田和人といった豪華メンバーが加わり、話題になる。2014年9月、フルアルバム『私は生きている』でメジャーデビュー。2015年8月、餃子好きが高じて、日本全国から独自の視点で43店の餃子店を紹介した書籍『餃子女子』を発売した。
東京を中心に全国各地にてライブを行う一方で、自らができる平和活動として「ホストマザー」を始め、チャリティーイベントやセミナーに積極的に参加。こうした活動が認められ、公益財団法人日本ユースリーダー協会の第五回「若者力大賞~ユースリーダー賞」を受賞。そのほか、自殺撲滅を考えるチャリティーイベントの開催、東日本大震震災後の避難所での炊き出しなどの支援活動、チャリティーコンサートなどを行っている。2009年から始めたボランティア団体「Each Feelings」では、身近にできる平和のための活動をテーマに、全国各地でピースコンサートを開催。国際協力機構(JICA)などが推進する「なんとかしなきゃ!プロジェクト 見過ごせない55億人」において活動する著名人100人のメンバー。
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