慶賀の見たオランダの日々 一番 蘭船入港図

慶賀の見たオランダの日々
一番 蘭船入港図

 オランダ商館が平戸からこの出島に移されたのは寛永18年(1641)のことである。慶長7年(1602)、オランダは連合オランダ東印度会社を設立し、ジャカルタ(後に、バタビヤ)に総督府を置き、東洋貿易にのり出した。長崎の人達は、この会社のことを「こんばんや」とか「こんばにや」とか呼んでいる。
 右上画面右側、入港しようとするオランダ船を物見台から見ている人物はシーボルト、タキ、イネの親子であろうといわれている。シーボルトは文政6年(1823)から同12年(1829)まで出島に滞在していた医者で、鳴滝塾を開き、多くの門人に医学を教授したことは有名である。娘のイネは文政10年(1827)の生まれで、日本で最初の西洋流女医(産科)となり、明治36年(1903)、77歳で没している。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

 

ガリレオの望遠鏡、平賀源内のエレキテル、杉田玄白の『解体新書』……、みんなお手本はオランダだった。
1609年、日本とオランダが長崎で貿易を始めると、望遠鏡、顕微鏡、温度計、手術用具など科学技術の粋と蘭学が渡来してきた。
オランダは、鎖国中のわが国にとって、ただ一つの「世界への窓」だったのだ。
それから380年、ふたたび国際交流を真剣にうけとめているわれわれは、当時のオランダ体験から何を学びうるだろうか。
科学技術に焦点をあてて考えてみた。

慶賀の見たオランダの日々

 江戸時代、当時もっとも先進的な知識、蘭学をこころざした人々は、鎖国のため、そのすべてを書物で勉強した。その書物を生み出したオランダという国、社会を見た人は皆無に等しかった。ただ、鎖国の中で唯一世界に開かれた窓、長崎・出島で会うオランダ人、オランダ風生活を見てオランダを想像することはできた。
出島出入絵師、川原慶賀(推定1786〜1868)描くところの「蘭館の巻」は、当時の人々が実見しえた生きたオランダそのものだったのだろう。
ここに掲載した川原慶賀の絵十点は、「唐蘭館絵巻」のうちの一部である。

長崎市立博物館蔵(重要美術品)。紙本著色「唐蘭館内の図」(2巻)のうち「蘭館の巻」(題字なし)。各図説明は同博物館主任学芸員原田博二氏。

●この特集は、1989年4月21〜22日、大阪府堺市において科学技術フォーラム主催で行われたシンポジウムを、「無限大」編集部がまとめたものである。
(科学技術フォーラム=科学技術庁、大阪府立大学、(財)大阪科学技術センター、(財)つくば科学万博記念財団、「オランダフェスティバル’89大阪」実行委員会)


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