講演1 日本とオランダ 司馬遼太郎(作家)

オランダはイギリスやフランスなどにずいぶんいじめられながら、
一生懸命生き、自らの独立を保った国です。
そしておそらく次の世紀では、ECの中でたいへん重要な役割を果たす国だと思います。
あれやこれやを考えてみて、オランダを見る上で重要なことは、つねに主人顔をしないということです。

優れた国

 私事ですが、私は学校の中途でにわかに卒業証書だけを貰い、軍隊に取られた世代です。敗戦まで―23歳になるまで軍隊におりました。
 その間じゅう、自分の戦車(私は戦車兵でした)と敵の戦車の比較ということをいやでも考えさせられました。こちらの戦車はいかにも小さな大砲を積み、薄い鉄板を貼ってあります。私が考えたのは、この程度の軍備(四捨五入して言えば、とても近代的な軍隊とは言えません)を持った国が、なぜこんなに大きな戦争を始めたのか、始めた人はよほど馬鹿な人か、真に国家を愛しない人々か、ともかくも正気でない人々だったろうということでした。ともかくも、自己や自国についてのこの程度の認識を持っている人々によって、日本はつぶされてしまったのです。

 しかし、どうも明治の人とか、もっと前の日本人はもうすこし立派だったように思えました。立派というのは自己認識がしっかりしていたということです。…これは昭和になってから日本人が変わったのに違いない、と思い続けました。極端に言いますと、自分は馬鹿な国に生まれてしまったものだという感じを持ったのです。そのことが、私に歴史への関心を抱かせるきっかけになったと思います。その後、小説を書くようになっても、私は「日本人とはなにか」ということばかりを書き続けて来たように思います。また、これは23歳の時の私が読者なのでありまして、23歳の私に手紙を書き続けているような小説なのです。私と歴史、小説との関係は、そんなことであります。

 ところでオランダという国のことですが、これは世界でいちばん立派な国なのではないかと思ったりします。「世界は神様が創ったかも知れないが、オランダだけはオランダ人が創った」と、よく言われますが、オランダの立派さはこのひとことで尽きるのではないでしょうか。もともと海であったところをダムでふさぎ、干拓しては国土を広げて行った国なのです。

 私はオランダのライデンという町に行ったことがあります。古い大学を中心にした、落ち着いたいい町ですが、道がアスファルトなどではなく割り石で舗装してあります。
「オランダには石がないはずなのに、これはどこから持ってきたのですか」と、案内の人に尋ねましたら、
「外国から買ったんです」
「それはいつごろ?」
「さあ、300年ほどまえでしょうか」
「その頃いくらしたのでしょう」
「うーん、いまの値段で100円くらいかなあ…」

 まあ、この値段はいいかげんなものですが…(笑い)。安くはなかったということでしょう。輸送費や手間などを考えるとこれはたいへんなことだったでしょう。干拓用の巨大なダムも石を積んで造っています。その石ももちろん外国から買っているわけです。ご存じのようにオランダのダムはたいへんしっかりしておりますが、日本のようにコンクリートでは造りません。人類の経験の中でもっとも手堅い材料である自然の石を沈め、その上に柳の枝を束ねたものをクッションとして置いては、さらに石を乗せて行くという方法で、オランダのダムというダムが造られ、いまもその方法で造られつづけています。持続こそ文化なのです。

 我々がオランダ人と付き合いはじめたのは、380年前の4月のことです。もし神様がいらっしゃるとすれば、これはまさしく神様がオランダ人を日本によこして下さったのだろうと思う…(笑い)。有名なリーフデ号という船が、別府湾に漂着したのが1600年4月18日のことでした。ちょうどその年の秋、関が原の合戦があり、その結果江戸時代が始まります。

 ところで、このオランダ人との付き合いがなければ、今の日本史は少なくとも全く違ったものになっていたろうと私は思います。私は三度オランダに行きましてぶらぶら歩きましたが、オランダを歩いていると絶えず日本のことを考えます。不思議なことにフランスあたりを歩いても日本のことをあまり考えません。それはなぜかということが私のこの話のテーマです。

オランダ語読みのオランダ知らず

 山がまったくない、九州をまっ平らにしたくらいのオランダの土地を歩いてひとつ思い出したことがあります。江戸末期ころ来日して、日本に強い影響を与えたフォン・シーボルトのことですが、彼はじつはドイツ人でした。

 当時の日本にはヨーロッパ人ではオランダ人しか来られないことになっていました。ですからシーボルトさんは国籍を偽って入ったわけです。なぜそれほどまでにしてシーボルトさんが日本に来たかったかと言えば、博物学的野心でした。当時の欧州で博物学は大流行しており、遠い国でヨーロッパでは知られていない動物や植物を“発見”して、学界に紹介すると英雄扱いされていたのです。ドイツ大学の医学部を出たばかりのシーボルトさんも、日本という珍しい国で、珍しい事物を集めて見たいという野望を持ちました。

 シーボルト家は医学の名門でした。おじさんの一人がオランダ王室の医師をしていたので、その人にたのみこんでオランダの海軍軍医ということにしてもらったのです。船旅は時間がかかるので、その途中でシーボルトさんはオランダ語を勉強したようです。まあドイツ語とオランダ語の間の開きは、日本の津軽弁と薩摩弁の間の開きよりずっと小さいのではないでしょうか。ですからシーボルトさんはオランダ語の習得に1か月くらいしかかからなかったでしょう。

 長崎には長崎通詞という役人がおります。幕府の人事というのはなかなか面白く出来ていて、長官である奉行は江戸からやって来ますが、下級の役人や通詞などの技官は「地役人」と言いまして土地の人です。待遇は幕臣というようなことですが、ほんものの幕臣とは言えません。通詞は通訳を御家の芸として世襲してまいります。なかにはいいかげんな人もいましたろうが、なにしろそれで飯を食うわけですから、優秀な達人もいます。
 その通詞たちが、
 「どうもおかしい」
と、首をひねるのです。シーボルト先生としゃべっていると、しょっちゅうアクセントが違ったり、発音が違ったりする。そこで、
 「先生のお言葉は、私達の家で学びましたオランダ語とずいぶん違うように思いますが…」
 こう尋ねますと、シーボルトは国籍がばれると国外追放になってしまうので、こうごまかしました。
 「私のは、山オランダ語です」ご存じのようにオランダには山などありはしません(笑い)。

 シーボルトは、魅力的な人でした。しかし、言われるほどに大きな影響を与えたとは思われません。確かに医学は教えてくれたし、化学も教えてくれました。しかしそれは、日本人の好奇心に合わせただけの教えかたです。医学や化学の基礎をきちんと教えたわけではありません。この物質とこの物質を合わせると、こんな化学反応が起こる。どうだ、面白いだろう…それをこのように使うとマッチが出来、シュッと擦ると、ほら、火が出た…という程度のサイエンスです。その程度で日本人は十分喜んだ。

 これは別に日本人をばかにしていたわけではありません。全く別の、強烈な文明との最初の接触というのはそんなものなのです。シーボルトさんの医学も、まあおできを切る程度のものでした(笑い)。いや、今ではできものなどはなんでもありませんが、江戸時代ではできもので死んだりいたします。私の子供の頃でも、どうかすると命取りのことだったのです。戦後、抗生物質が出回って初めて、腫物はなんでもなくなったのです。シーボルトさんはその切開法を教えました。これは大きい功績でした。それともうひとつ、眼科の薬で、瞳をパッと開く薬、これを持って来ました。この薬は今の眼薬にも入っております。

 まあこのようにシーボルトさんは日本人の好奇心を刺激はしたけれど、それ以上のことではありませんでした。
 日本に体系的な医学を伝えたのは、オランダ人、ポンペでした。

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