シーボルトを支えた日本人、川原慶賀 兼重 護(長崎大学教授)

文政11年(1828)9月、長崎出島オランダ商館の医師シーボルトは帰国することになっていた。帰路の船コルネリウス・ホウトマン号には、滞日5年の間に彼が収集した貴重な多くの資料が既に+積み込まれていた。8月10日に襲った台風は、この船を稲佐海岸近くに吹き寄せ、積荷を流出させた。その中から禁制の日本地図などが現われ、シーボルトの帰国禁止、関係者の処分が行われた。いわゆるシーボルト事件の発生である。
 この事件に長崎の一人の画家が巻き込まれ、歴史の片隅に名を留めることになった。
 長崎奉行所文政一三寅年犯科帳に、

一、今下町出嶋出入絵師 登与助 子一二月廿五日入牢 丑正月廿八日出牢之上町預 寅閏三月廿五日伺之上叱

とあり、続けて大略次のような理由を付している。オランダ人の拝礼参府に道行し、医師シーボルトのために薬草の絵図等を描いたが、シーボルトに治療を受けた者や教えを受けた者が彼に禁則の品を渡しているのを知りながら黙っていたことは不埒である、と。
 この登与助が川原慶賀(1786〜1860以後)に他ならない。犯科帳には「出嶋出入絵師」とあるが、これは特定の職種を指すものではなく、出島に出入りすることを許されていた画家、といった意味合である。鎖国時、公的に出島に出入りできる画家は、長崎奉行所の役職唐絵目利に限られていた。慶賀は唐絵目利ではなく、町絵師であったが、おそらく唐絵目利役の中でも大御所的存在であった石崎融思の計らいであろう。シーボルト来日以前から出島出入りを許されていた。そして彼の器用な画才は出島のオランダ人たちに重宝がられたとみえて、例えば商館長ドゥーフ(1803〜1817滞日)の肖像を描いたり、ブロンホフ(1817〜1823滞日)やフィッセル(1820〜1829滞日)のために日本の風物を描いている。また、彼が出島内で見たオランダ人の生活や見せられた絵画などから題材を得て作画し、好奇心の強い日本人に売り、結構商売上手であったようである。
 右のような状況からみて、来日早々シーボルトが川原慶賀に出会ったのは自然の成行きであったと言えよう。周知のように、シーボルトは商館医としての仕事の他に、総合的な日本研究という使命を持って着任した。それはオランダ本国の意志とシーボルト自身の学問的野心とが一体となったもので、それ故大著『日本』に見られるような成果を得ることができたのである。シーボルトが日本研究を進めて行く上で、自分の意のままに作画をしてくれる画家が必要であった。いわば現代の記録写真家を必要とした。『シーボルト江戸参府紀行』中にも「晩に余の日本画師登与助帰り来れり。余が下関の西部の景色を写すことを頼みしなり」など、随所に慶賀の作画活動のことが記されている。このことは、慶賀がシーボルトの日本の地理的研究に大いに貢献していたことを物語り、事実これらの日本風景は『日本』の挿絵原画として用いられている。また、シーボルトが当時のライデン国立自然科学博物館館長テミンクへ宛てた手紙に「…私には一人の日本人の画家がおり、既に百枚以上の植物の図を顕微鏡図と共に画いています。…」とあり、慶賀がシーボルトの植物学的研究にも貢献していることが分る。その他、現場ライデン国立民族学博物館所蔵のシーボルト・コレクションの中には、慶賀の作になる日本の風俗行事の絵が多数含まれている。
 これらの事実から、慶賀はシーボルトの総合的日本研究に一体となって協力していたことが分る。では何故一介の町絵師でしかない慶賀がこのように熱心になり得たのか。それは彼がシーボルトの人問的魅力に触れ、単に雇い主と雇われた者との関係以上の感情を抱くようになったからだと思われる。つまり、シーボルトの純粋な研究者としての態度、そして彼の許を訪れる日本人学者たちの旺盛な研究心などに直に触れ、自身の仕事の意味を自覚したものと考えられる。シーボルトが日本を去った後も、数年の問はなお甲殻類の標本図などを、日本に留まった助手ビュルゲルを通して送り続けていることなども、その表われである。
 このような仕事を続けているうちに、慶賀自身いろいろの知識を身につけていったらしく、例えばシーボルト事件の10年後、天保7年(1836)に浪華書林積玉圃より『慶賀写真草』上・下を出版している。上冊には草の類27種、下冊には木の類29種が収載され、その図には花・果及びその解剖を載せ、薬用効果の説明まで付している。慶賀がかなりの植物学的知識を有するようになっていたことを示すものであろう。
 確かに慶賀はシーボルトの仕事を契機に徐々に新しい広い世界に眼を開かれていった。シーボルトの絵師になった当初、犯科帳の罪状に記されたように、監視役という別命があったのかもしれない。しかし、彼はそのような閉された世界とは違った別の世界に目覚めて行き、別命には熱心になれなかったのであろう。
 鎖国時において西洋の絵画に関心を持った画家は多数いた。中でも司馬江漢は最も熱心に西洋画を、理論的にも実践的にも研究した人である。長崎の画人の中に、若杉五十八や荒木如元など、西洋画と取り組んだ人を挙げることができる。そして、これらの画家たちに共通して言えることは、いかに西洋画的なものを摂取するか、あるいは模倣するかということにあったと言えよう。つまり、一方的に西洋的なものを摂り入れるということであった。ところが、同じ画家であり、日本における西洋との接点の最前線にあった慶賀は、これらの画家たちとはかなり異なった関わり方をした。確かに彼の絵画作品の中には、西洋画から直接的に借用したものや部分的に洋画的手法を用いたものもあるが、西洋画そのものを純粋に絵画的に追求した形跡は見られない。そのような画家が、結果的には西洋の科学的研究の一助をなしたということに大変興味をひかれる。つまり、彼は自己の画技をもって、西洋に日本というものを知らしめた最初の人と言えるのではないか。それはもちろん主体的にではなく、シーボルトの手助けという形ではあったにせよ、現実には彼自らが描いた絵によって西洋の人々に日本を知らしめたのである。
 川原慶賀が「出島出入絵師」という特権を得た当初は、おそらく町絵師としての商売上、好条件を得たことで単純に喜んだであろう。しかし、それを契機としてシーボルトという稀有の人格に触れることになり、結果として西洋の日本理解のために一寄与をなすことになったのである。
 シーボルトと慶賀の出会いは、双方にとって幸運であったと言えるであろう。慶賀なしにシーボルトの実りある日本研究はあり得なかったであろうし、また慶賀もシーボルトに出会わなければ、その存在すら知られぬままに終ったかもしれないからである。

 

慶賀の見たオランダの日々 二番 蘭船荷揚図

慶賀の見たオランダの日々
二番 蘭船荷揚図

出島は在留していたポルトガル人を住まわせるために、寛永11年(1634)に造成に着手し、同13年(1636)5月に完成した人工島である。面積約4,000坪(約13,000平方メートル)であった。その後寛永18年(1641)よりは、この地にオランダ人が居住することになった。(現在復元整備実測14,878平方メートル)  長崎港外の高鉾沖に到着したオランダ船は帆をおろし、多数の曳舟で出島沖まで曳入れられた。この時、港口で蘭船は礼砲を発射し、出島沖に投錨すると、火薬類は稲佐の塩硝蔵(後に馬込に移る)に保管された。
 出島沖に碇泊したオランダ船の荷物は、出島の水門(二ノ門)に小舟で運ばれ、陸あげされ本方荷物と脇荷物とに分けられた。前者はオランダ商館の会計に属するもので、貿易の主体をなすものであり、後者は会社の会計外で、商館長以下の私有の荷物で、一定額までの貿易が認められていた。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

 

慶賀の見たオランダの日々 三番 商品入札図

慶賀の見たオランダの日々
三番 商品入札図

 当初は自由貿易であった日蘭貿易も、日中貿易と同じように次第に統制が加えられ、貿易額は、だんだんと縮小されていった。  図は出島乙名の立合のもとに、日本商人が貿易品の入札をしているところである。出島乙名は総町乙名の中より2名程度が選ばれた。出島に出入りする商人達は、この出島乙名の発行する門鑑(通行許可証)を携帯し、表門では門番による厳重な身体検査がなされた。
 出島には、様々な織物が舶載された。それにはアジア産とヨーロッパ産のものとがあった。アジア産にはインドの木綿や絹、ベトナム方面の絹などがあり、ヨーロッパ産には羅紗・羅背板・「へるへとわん」などの毛織物があった。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館


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