慶賀の見たオランダの日々 四番 商品計量図

日本の外界に対する反応において、政府や行政機関の役割が、あまりにも大きいのは驚くべきことです。
…日本では文化交流やその所産は、まず、政治的選択の問題となるのです。
蘭学も例外ではありませんでした。

“架空の世界”から来た人々

 1862年6月、初めての遣欧使節団(幕府が送った竹内下野守保徳を正使とする使節団)が、ハーグに来ました。街の人々の興味は、たいへんなもので、ハーグの野外ホールでは、長いスカートをはいた女性まで、たしなみを忘れて椅子や机によじ登り、日本人を見ようとしました。そのころ、オランダでは、イタリアの革命家をたたえた「ガリバルディ万歳」という歌がはやっていたのですが、小学生たちは日本人の泊まっているホテルの前に集まっては、その「ガリバルディ万歳」のメロディで、「日本人万歳」と歌ったそうです。こんなに熱狂的に彼らが迎えられたのは、日本人たちがホテルの窓に時々姿を見せて、子供たちに日本のおみやげを投げたからということもあるでしょう。しかし、その熱狂の主な理由は、もの珍しさにあります。それまでオランダ人は、ほとんど誰も日本人を見たことがなかったのです。江戸時代を通じて日本を訪れたオランダ人が見物の対象になりつづけたように、遣欧使節の日本人も、オランダ人の興味をひどくひいたのです。日本人は、当時、ヨーロッパの人々にほとんど知られていませんでした。架空の世界から来た人のようだったのです。しかし、日本人がヨーロッパで評判となったのは、実はこれが最初ではありません。その3世紀ほど前にも日本人、日本についての情報がヨーロッパの学識者たちの話題になっていたのです。

 では、日本の存在を、ヨーロッパが最初に知ったのはいつだったでしょう。ギリシャ・ローマ時代のヨーロッパ人は、明らかに日本を知りません。日本について最初に触れたのは、9世紀ごろのペルシャの地誌です。13世紀にはMarco Poloが有名な日本についての記事を紹介しました。しかしこれでもヨーロッパの人には、日本がどんな国なのか、さっぱりわかりませんでした。「JAPAN」という名称が、最初に使われたのは、1531年、Tomé Piresが書いた。“Suma Oriental”の中においてです。Tomé Piresは、この「JAPAN」という名前を、マレー語の「Japang」、または、「Japun」から取ったと思われます。このマレー語の名前は、さらに、中国の海沿いの方言から来ているのです。

 記録に残っている最も古いヨーロッパ人の来日は、1543年です。3人のポルトガル人の水夫が、九州に流れ着いたのです。1549年8月15日には、イエズス会の宣教師Francisco Xavierが、鹿児島に到着しました。以来、17世紀の初めまで、イエズス会の報告書を通して、日本についての情報はヨーロッパに急速に広がって行きました。イエズス会が入念に企画した少年遣欧使節が来た時、ヨーロッパにおける日本への関心はその頂点に達したのです。4人の日本少年が、スペインの宮廷、イタリア、バチカンを訪ねたのは1584年のことです。これはカトリック教以外のヨーロッパの国でも大きな関心を呼びました。

 日本をえがいた最初の世界地図は、1595年に出版されています。1600年になると、ヨーロッパは、単に日本の存在を知るだけでなく、手紙や、歴史書や、紀行文学を通して、日本にかなり詳しくなりました。しかし、この状況は長く続かなかったのです。イエズス会宣教師の追放と、オランダ以外の西洋の国々に対する鎖国によって、日本は再び西洋から見た地平線のかなたに消えてしまったのです。

監禁状態の中での交易と交流

 日本に対するオランダ側の興味は貿易でした。それまでのイエズス会の宣教師たちの関心は、もっぱらキリスト教の布教だったのです。ですから彼らの研究目標は日本語を始め、日本人の文化、民族性と、幅広いものでした。しかしオランダ人は、そういうことに若干の例外を除けばまったく興味がなかったのです。それに、出島という境遇は、日本の文化研究には、非常に難しい環境でした。

 イエズス会は、日本で布教に成功したという報告書を、ヨーロッパにおける布教活動に利用しました。ヨーロッパでは、イエズス会は、プロテスタントの宗教改革に対抗しなければならなかったからです。イエズス会の人たちは、日本での収穫により、ヨーロッパで教会が失った分の埋め合わせができたと考えたようです。宣教師たちは、日本人の資質を「今まで発見した中で、最も優れた民族だ」と言ってとてもほめたものです。彼らの評価では日本人は、丁寧で、礼儀正しく、気高く、忍耐力があり、質素である。平静で、勤勉で、かしこい。また潔癖で、誠実で、規律正しく、理性的だと賞賛しています。また、軽犯罪のとりしまりもよく、心安らかに生活をしていると、べたほめしています。一方、日本人の欠点についてもいろいろ伝えている。日本人は、男色好きで自殺をよくする。家臣が主人に忠実でない。偽善的で、あいまいで、取引は閉鎖的である。戦いを好み、非人道的な行動力がある。法律を尊重せず、内縁関係の制度をやめない等……と。しかし当時、イエズス会が下した結論は、「キリストの祝福を受けたことのなかった民族に、完全を求めるのは、まず無理である」というのです。

 オランダ人は、日本との取引を公表する理由がありませんでした。むしろ東インド会社は、競争に巻き込まれるのを恐れ、報告書の公開を禁止しました。オランダ人は、何よりもその貿易の成行きに関心があったのです。
平戸のオランダ商館長は、手紙に対日貿易の伸びなやみについて不満をのべ、日本になど来なければよかったと書いています。これは、オランダ人が日本に滞在を始めてから最初の10年間の、オランダ人の代表的な意見といえるでしょう。その後、商館は平戸から出島に移り、オランダ側の利益は上がりはじめたのですが、生活環境は悪化し、日本についての一般的な評価も悪くなりました。そのような状況のもとで、つまり、会社の秘密主義、出島への監禁状態、交易にしかほとんど興味を持っていない、という条件下で、日本に関する本が出版されていったのは、驚くべきことです。16世紀以降では、商館長だったCaronの本やMontanusが、オランダで集めた報告書を編纂したものが出ています。さらに18世紀前半には、Valentijnの本が出ました。彼は日本についての章をまとめるにあたり、やはり商館長だったCamphuijsの報告書の話をもとにしております。またオランダ商館の医師であったKaempferが書いた不朽の著『日本の歴史(History of Japan)』もあります。どちらも17世紀後半の状況を扱ったものです。

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