慶賀の見たオランダの日々 五番 倉前図

オランダが日本に種を蒔いてくれたということは大きかったと思います。
その種が育つか、育たないかは日本の責任でした。日本の土壌の責任でした。

17世紀はオランダの世紀

 今年はご存じのとおり日蘭修好380周年ですが、これは、大阪府と今姉妹都市の関係にあります商都ロッテルダムを出発した五隻の商船団のうち、やっと一隻、例の名高いリーフデ号が別府湾に漂着した1600年の9年後、1609年に、また2隻のオランダの船がやってまいりまして、そのときに家康が朱印状を渡し、正式に修好関係が始まった、そこから数えて、380周年ということです。

 この17世紀はオランダの世紀といわれるような時代でした。例えば画家ですと、レンブラントやフェルメールというような、光をうまく処理して、近代絵画の基をつくった人たちがオランダから出ておりますし、自然科学では、光が波動であると最初に唱えたり、土星のリングを発見したりしましたホイヘンスや、砂つぶのような非常に小さな球型のレンズを工夫して精密な顕微鏡をつくったレーヴェンフックという人も出ております。哲学者ではデカルトやスピノザが仕事をしていましたし、また18世紀にかけまして、当時のヨーロッパ医学界の泰斗だったブールハーフェ、あるいはオランダのニュートンといわれたミュッセンブルークといった人たちが出ています。

 もっとも、オランダの過去の科学はすばらしいが、今は駄目だというようなことはありません。20世紀に入りましても、例えば心電図を発明したのはオランダ人のアイントホーフェンですし、神経炎に効きますビタミンを発見したのはエイクマン、動物行動学の基をつくりましたティンバーゲン、浸透圧という現象を発見したファント・ホフ、気体をX線で研究したデバイ、液体における分子間の結合力を発見したファン・デル・ワールスという物理学者もおります。そのファン・デル・ワールスの弟子であるカマリン・オネスは、永久に気体の状態であろうと思われたヘリウムをマイナス270度という超低温によって液体化することに成功しております。これは1908年のことでしたが、これが今日騷がれております超電導、あるいは超流動現象研究の端緒を開いたものです。この人たちはみなノーベル賞を受賞しております。そんなぐあいにわれわれの現在の生活ともオランダは強く結ばれているわけです。しかし、私の話は、もう少し歴史的な部分での日蘭の科学技術交流にしぼりたいと思います。

 17世紀の初頭、1609年に日蘭の正式修好が始まってわずかのち、1614年には日本が鎖国体制に入りました。それまで国交関係のあったポルトガルやイギリスは日本の国内に立ち入れなくなり、わずかにオランダのみが長崎の出島を唯一の窓としてヨーロッパの文物を日本に持ち込んでくることになりました。それがともかくも江戸期に連綿と続き、物品や書物、情報というかたちで流れ込み続けたことが、明治以降の日本の近代化に対して、大きな役割を果したということについては、皆さん異論のないところだろうと思います。例の『解体新書』の翻訳の中心となり、また『蘭学事始』を書いた杉田玄白は、こんなことを記しております。

「すべて、その舶来の珍奇の類(たぐい)を好み、少しく好事(こうず)と聞えし人は、多くも少なくも取り集めて常に愛せざるはなし」
 これはちょうど、元禄の華やかな時代が過ぎて、享保の時代に入ったころの発言です。いわば緊縮財政の時代でしたが、18世紀前半8代将軍吉宗は、例えば新田開発、あるいは特産物の開発に役立つようなものや本の輸入は許すというような政策を一方で取っておりまして、そのためにオランダに対する関心は俄に高まったようです。ではその時期にどういうものが持って来られていたか、同じく杉田玄白が挙げております珍奇な品々をちょっと見てみますと、例えば、気圧計、温度計、ドンドルグラスなどがまずあがっています。このドンドルグラスというのは、つまりライデンびん、摩擦電気を蓄電するびんらしく思われます。それから比重計、暗箱の写真機、幻灯機、サングラス、メガホン、そういったたぐいのものです。

旺盛な日本人の知識欲

 玄白は挙げておりませんけれども、この他にも顕微鏡、天球儀、世界地図、医学・天文・航海・軍事関係のいろいろな書物類、辞書などが入っています。また、医学関係では外科用のメスであるとか、ランセットであるとか、そういった品々がかなり頻繁にオランダ商館を通して日本に将来されたわけです。これらのものには将軍や大名が発注したものもありますし、また、オランダ商館員たちが脇荷と称してこっそり持ち込んだものもかなりあります。こうした品々が沢山入るとともに、オランダ語の名詞がずいぶん私たちの言葉の中にも入り、それが今も生きています。だいたい300くらいのオランダ語が日本語に取り入れられて来たようですが、そのうち160くらいはいまも使われております。コップなどという言葉はもっとも古くから使われていますし、わりに新しく、明治になって入ってきたものではポルダーというのがあります。ポルダーというのは干拓地であります。オランダは国土の相当部分が海抜以下で、常に水をかい出してないと国土が沈没してしまいます。オランダの干拓事業はたいへん盛んで大規模です。例えば1920〜30年代にゾイデル海という内海をひとつ仕切ってしまいました。このときにはノーベル賞をもらったローレンツというオランダの有名な物理学者が指揮を取りまして、この海を仕切ると海水がどういうふうに変動するだろうかということを推定すための委員会を7、8年にわたって継続しました。そんなスケールの大きな仕事をいたします。ですからそういう伝統的技術を買って明治にお雇い外国人がオランダからかなり来ております。彼らが使ったので、ポルダーというのは河川土木関係者がよく使う言葉になっています。

 その他、日常的な言葉では、ビール、ブリキ、ダンス、ガラス、ガス、インキ、カバン、コーヒー、マスト、ピストル、ポンプ、ランドセル、メス、オルゴール、レンズなどでしょうか。カンヅメというのはこれは日蘭の合成語ですね。カンというのは元来はオランダ語なのです。これはちょっと気がつかれないと思います。半ドンも合成語ですね。ドンタクつまりゾンタークは日曜日で休み、土曜日は半休だったから半ドンというわけです。

 輸入機器の中で特に好まれたのは眼鏡とか望遠鏡でした。望遠鏡は、ご存じのとおりオランダで発明されました。発明者についてはいろいろ説がありますが、多分オランダの眼鏡師リッペルハイがいちばん有力な発明者でしょう。これは1608年のことでした。その翌年ガリレオがその噂を耳にして原理を推定し、自分でも望遠鏡を作るのです。これは対物に老眼用の凸レンズ、接眼に近視用凹レンズを置いた屈折望遠鏡で、凸レンズは度が弱いほどいい……。ということは屈折率が小さいわけだからレンズが焦点を結ぶまでの焦点距離はたいへん長くなる、その焦点距離を、後方のこちらは度を強くした凹レンズの焦点距離で割ったものが倍率です。ですからこの型の望遠鏡は、前方の凸レンズの焦点距離を大きくするために、必然的に筒がうんと長くなるのです。

 そういう望遠鏡が日本にたいへん早く入っているのです。記録によりますと、徳川家康にイギリスが献上しております。1613年、慶長18年にイギリス軍艦のセーリスという男が家康に会いまして、そのときに献上しています。長さが一間ぐらいあり、倍率は多分20〜30倍でしたでしょう。さっき言いましたようにヨーロッパでの発明が1608〜9年ですから、これはそのわずか数年後ということになります。反射望遠鏡が日本に知られたのはだいぶ後のことで、国友一貫斎が1833年に作り黒点観測をやっております。モノの影響とともに忘れてならないのがヒトの影響です。オランダ人ももちろんですが、国籍がオランダ人でない人も、名目上はオランダ商館員という名目で、かなり日本に入って来ており、そういう人と人との接触はなかなかバカになりません。その接触の場は、もちろん主として長崎の出島ですが、幕末近くになると少し広がります。ケンペル、ツュンベルクに続いて、幕末にはシーボルトが現われる。彼は長崎の町の中に鳴滝塾という塾を設けることが許されましたから接触の幅は当然広がるわけです。それからカピタンは任に着くたびに江戸参府旅行をしていますので、これはけっこう庶民の目にもふれました。芭蕉にもオランダ人についての句がありますね。例えば、「かぴたんも つくばはせけり君が春」つまりカピタンも徳川将軍家の前に出ると平伏するというさまを詠っている、有名ですがつまらない句です(笑い)。また、江戸にはカピタンの常宿で長崎屋というものがありました。その長崎屋に篤学の人たちが次々と訪れます。例えば桂川甫周、中川淳庵などです。また、平賀源内が化石象の骨を彼自身四国のほうで調べていて、その知識をカピタンに披瀝したところ、相手が非常に驚いたという有名な話もあります。まあ束の間の会見にせよ、日本人は貪欲に知識を吸収しようとし続けたということです。

慶賀の見たオランダの日々 五番 倉前図

慶賀の見たオランダの日々
五番 倉前図

  日本から初期の時代に輸出した主なものは銀・金・樟脳・漆器・磁器などであった。日本の銀は良質で、オランダ人も中国人もこれを喜んだ。金は寛永18年(1641)以来輸出が禁止されていたが、寛文4年(1664)には条件付で再び解禁され、さらに、同8年(1668)からは銀の輸出が禁止され、代わって金の輸出が一般に解禁された。しかし、その対象となった元禄小判は品質が悪く、オランダ人もこれを好まなかった。
 そこで、これに代わるものとして銅の輸出が一般におこなわれるようになった。輸出品として使用された銅は2センチ×75センチ内外の細長い棒状で、棹銅(さおどう)と呼ばれていた。棹銅は大坂銅座で精錬して長崎に回漕されたが、享保10年(1725)、同16年(1731)には長崎の地に銅座が設けられ、棹銅を製造している。しかし、元文3年(1738)には長崎銅座は廃止され、再び大坂銅座で精錬された。
 銅の請渡しは銅蔵(どうくら)前で、日本とオランダの双方が立会って計測がなされ、正味100斤を箱に詰め船積みされた。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

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