慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

――蘭学の内容も蘭学の実践も、日本独得の世界秩序への挑戦や脅威でさえもなかった。
……確かにごく少数の蘭学者は幕府からにらまれたりしていますが、それはその研究のせいというより、その個性が脅威となったと思います。西洋科学の挑戦は、明治以前には日本にはほとんど伝わらなかったと言えます。
――オランダの方は、オランダが日本に何でもくれてやったとおっしゃるかと思いましたらむしろ反対のご発言だったのでびっくりしましたね……。
――蘭学の時代「科学」という言葉はありません。ふつう使われていたのは「窮理」でしょう。これは元々朱子学の言葉です。道徳的な理を究めることであって、自然界にある理を究めることではありません。……しかし、日本の儒学は中国のそれとは違って非常に緩やかなところがあり、この窮理という言葉も自然科学的な探求をも許容するというふうに読み替えていくことができたのです。
――中国の学問、考証学の意味を考える必要がありませんか。……これは一面から大変サイエンティフィックな視角だと思います。
――ただ、江戸時代にオランダ学をあまりにもやりすぎたせいでしょうか、いま日本人は英語下手、外国語がなかなか上達しません。「カム・ヒヤー」というのを「コメ・ヘレ」と発音していた。
――異質な文化が交ったときに、そこに何が起こったのかということは、その接触の両サイドから、かなり精密に歴史的に考証をしながら、再検討していく必要があるということです。

基調報告 吉田光邦(京都大学名誉教授)
発言(発言順) 角山 榮(和歌山大学名誉教授)
伊東俊太郎(東京大学教授)
石附 実(大阪市立大学教授)
吉田 忠(東北大学教授)
伴 忠康(大阪大学名誉教授)
W・レメリンク(日蘭学会常務理事)
司会 金子 務(大阪府立大学教授)

基調報告
日蘭の科学技術交流について
吉田光邦

それは軍事技術から始まった

 日本とオランダの関係はやはり、1600年から考えるべきでしょう。1600年にリーフデ号が豊後に漂着いたしました。これはマゼラン海峡を通って日本に初めて到達した西洋型の帆船です。日本人はこれで初めて新しい船のスタイルを知りました。リーフデ号の船尾には、哲学者エラスムスの像がかざられていました。また、三浦按針―イギリス人のウィリアム・アダムスがリーフデ号のパイロットでした。

 次の接触は1609年であります。この年二隻のオランダ船が平戸に到着しました。このときのオランダ使節は、駿府にまいりまして徳川家康に会い、ご朱印状つまり貿易免許状をもらっています。その内容に自由貿易が強調されていることに、ご注意願いたい。この年オランダは、平戸に商館を建設します。新しい西洋式の建物が初めて日本人の目に触れたのです。オランダはまた、四門の大砲や望遠鏡、築城術のテキスト、戦争の場合の軍隊の配置についてのモデル、いわゆる、戦陣モデルなどを献上しようとしました。やがてこれは幕府の手に入ります。

 1637年に島原の乱が起こりました。このときオランダ側は、大砲五門を陸上から送り、船からも島原を攻撃しています。これは極めて有効な打撃を反徒に与えました。11日間に422発の弾が発射されたといいます。これで日本人は、オランダの軍事技術について、深刻な印象を抱き、その翌年、1639年平戸において新しく七門の臼砲が鋳造されるのです。このときに用いられた炉やふいごは、すべて日本式です。

 この大砲はブロンズでしたから、在来の鋳造技術がそのまま応用できたのです。この七門の砲の鋳造は成功し、その翌年、江戸でこのテストが行われました。こうして日本人は、西洋式の火砲の技術を知ったわけです。17世紀の初めは、いうまでもなく徳川幕府はまだ草創期で、不安定な状況にありました。そうした時代には、まず外国の軍事技術が注目され、軍事技術によるコンタクトが行われたのです。

実用学としての蘭学の組織化

 やがて日本とオランダの間は、ご存じのように、江戸ヘカピタンが参向したり長崎を中心とする銅、生糸などを中心とする貿易が行われるようになり、1つの安定期が到来いたします。銅の輸出量は1715年、いわゆる正徳新令によりまして、毎年ほぼ2,500トンと決定されて、この状況は19世紀の中頃まで、そのまま続きます。

 1720年には歴史上有名な、いわゆる洋書の一部の輸入解禁が行われます。このころ日本の都市は非常に大きく発達していました。都市が成長すると、そこに人間の私的な世界というものが成長することになります。この私的な世界を埋めるものとして、オランダという異質の文化が新しく人々の興味を引くようになります。つまり、好奇心を持って異質の文化に接触する態度が生まれます。大名や一般市民の中の特定の人々、例えば平賀源内、司馬江漢に代表されるような人が、好奇心にみちてオランダの文化と接触します。同時に、日本特有の隠者的な趣味生活でも、オランダの文化に接触しようとする態度が生まれます。一方、オランダという世界からもたらされる異質の知識に対する憧れも新しく生まれてまいります。その最初が、杉田玄白のグループによる、初めてのオランダ語の書物の翻訳ではないでしょうか。

 長崎を通じての貿易という公的な世界においては、職業としての通訳たちによる翻訳グループが生まれました。彼らは暦学、天文学に傾斜します。こうした公的世界は、政治的必要性というものに対応していたので、専ら実学に傾いたのです。こうした実用の学問をさらに成長させるためには、そこに組織化が生まれます。この公的世界における組織化の原理は、やがて他の方面にも及ぼされるようになります。例えば医学の場合では、やがてオランダ医学を専門とする人々を生みます。その中においても常に強調されたのは実用性です。ですから、オランダ医学を学ぶ塾でも日常的にオランダ語を用いることは許されませんでした。医学用語としてのオランダ語だけが、認められたのです。

 こうした安定した世界に衝撃を与えたのが、アヘン戦争のニュースでした。新しく軍事技術の組織化が急務と考えられるようになります。国防政策、海防政策が重視されます。オランダは、新しい世界を認識するための重要なメディアとなりました。この軍事技術への傾斜は2つの方向を生みました。1つは、このオランダの新しい軍事技術、西洋の異質の軍事技術によりまして、新しい技術官僚が生み出されたことです。これらの国防技術は、さらに組織化されなければならないというので、長崎に海軍伝習所が設けられることになります。これもまた、オランダによって教育されます。ここに公的な世界において、オランダによる組織的な新しい西洋の科学・技術の分野が誕生することになります。それに並行して、日本は多くの海外情報を必要とするようになり、その情報を収集のために蕃書調所が生まれます。

河川改修技術とオランダ人

 やがて、明治維新が始まり、この明治維新によって日本は、再び新しい不安定状況に入ることになります。その不安定さを抜け出るために、日本は、ここで新しく世界の再認識・再発見をしなければならなくなります。日本は、オランダを含むヨーロッパ世界と全く違うアメリカを発見することになります。こうして新しい視点を持つことにより、日本はこれまで唯一の異質文化のメディアであったオランダの地位を再発見いたしました。

 ここに新しく科学・技術の導入体制が、生まれました。このとき、特にオランダの得意としている河川の近代化のエンジニアが招かれました。これらのエンジニアにより淀川の改修や東北の安積疏水建設が行われます。この明治初期におけるお雇い外国人の技術者たちの数は、ほぼ750人ですが、その中でオランダ国籍を持つ人は、37人、大体5パーセントぐらいです。つまり相対的に日本におけるオランダの地位は下落してしまいました。

 しかし、このオランダの新しいエンジニアたちは、単に河川工事の近代化のみならず、他の方面においても意外な活動をみせるのです。例えば、日本の海運に大きな足跡を残した三菱商会の持船のごときは、船長や一等航海士などは、すべてオランダのお雇い外国人です。三菱商会の基礎は、ある面から見るとオランダのエンジニアたちによって築かれたと見ることもできるでしょう。

 しかし、それ以後、日本とオランダの関係は、次第に希薄になりました。明治以来、多くの日本人が欧米に留学しますが、オランダを対象とする人々は非常に減りました。オランダは農業と牧畜の国というような認識が一般化されるようになるのです。20世紀に入りますと、オランダ領の東インド、つまり、今日のインドネシアが日本にとり大きな存在になります。その大きな転機は、1929年です。それまでイギリスの綿布の多くはオランダ領の東インドに、輸出されていたのですが、1929年から、ほとんどの綿布は日本産によって置き換えられるようになったのです。

 現代につながる日本とオランダとの相互の科学技術面交流の大まかなデッサンは、以上のごとくですが、科学技術以外の面においても、日本がオランダを知り、オランダを通じて西洋を知る、あるいはまた、オランダが日本を知り、オランダを通じて西洋が日本を知るという状況は、17世紀以来ずっと続いています。例えば、日本の漆器はオランダを通じて非常に大量にヨーロッパ全体に輸出されて来ました。また、有田、伊万里を中心とするやきものの多くが、オランダを通じてヨーロッパに広がりました。また、カロンをはじめとする歴代のオランダのカピタンたちは、こぞって日本についての書物を書き、それによって日本のイメージはヨーロッパ世界に広く定着したのです。

 つまり、物や書物を通じ日本が西洋に認識される最初の第一歩は、オランダとのつきあいでした。科学技術の面というのは、異質の文化がコンタクトした場合の一側面にすぎません。それ以外にも多くの面のコンタクトがあります。それは、例えば日常の道具や衣服などについても文化接触の遺産として、今日でもまざまざと見ることができるのです。

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