人間工学とは、エルゴノミクスやヒューマンファクターズとも呼ばれる、ヒトとシステムのインタラクション(相互作用)に関する学術分野のことである(以下、エルゴノミクス)。一般的には、ヒトと実際に存在するモノや環境との関係を工学的にとらえ、安全性や快適性、機能性の向上に寄与するアプローチを指すことが多い。

これに対し、早稲田大学基幹理工学部表現工学科・河合隆史教授は、ヒトと「バーチャルなモノ・環境」の関係を、エルゴノミクスの観点から模索し続けている。河合教授が生み出す研究成果は、立体(3D)映像の認知・情動体験をはじめ、新たな可能性を持ったゲームデザイン、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)を利用した視覚から触感が伝わるシステムなど、非常にユニークなものばかりだ。

「ヒト×バーチャル」の関係性という、エルゴノミクスのアプローチで設計されたメディアは、いったいどんな未来を導き出すのか。

※メイン写真の背景は8K相当の立体視マルチディスプレイに表現された「洛中洛外図屏風 舟木本」(所蔵: 東京国立博物館  画像素材:凸版印刷株式会社)

3D映像の奥行き情報からわかること

——河合先生は早稲田大学人間科学部のご出身です。大学在籍中から3D、バーチャルリアリティー(VR)、ウェアラブルデバイスなどに関する研究をされていますが、「バーチャルなモノ・環境」を対象としたエルゴノミクスに興味を持たれたのには、どのような経緯があったのでしょうか?

VDT(Visual Display Terminals)作業の拡大に伴い、1980年代からエルゴノミクスの分野では「ヒトはコンピュータとどうやって付き合っていくのか」という議論が活発化していました。

当時はVRの世界でも第1世代と呼ばれるブームが起きていて、近未来ではVRや3D映像といった新しいメディアが、もっと身近な存在になると考えられていました。私が在籍していた研究室でも、3D映像の視覚機能への影響やウェアラブルデバイスの評価に携わっていました。その頃から、エルゴノミクスという学問がバーチャルなモノ・環境に対して何ができるのか、自然と模索するようになっていきました。

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——具体的にどのような研究成果があるのか、いくつかご紹介いただけますか?

ひとつは、3D映像に関する研究です。3D映像の特徴は「飛び出している」「引っ込んでいる」というファクト(事実)ですが、それがユーザーにとってのバリュー(価値)と必ずしも一致しているわけではありません。そのため、ユーザーの観点からバリューを解明し、それを向上させるための知見やノウハウを取得することが、私たちの目指すところだと思っています。

例えば、3D映像の奥行き情報の分析というものがあります。これは、実際の映画制作にも活用されているアプローチです。

3D映像は、ある意味、ヒトの目に対して不自然な情報を与えているわけで、過度な奥行き感の演出はユーザーの負担の原因となり得ますが、一方で、どの程度の奥行き感が適切なのかという基準もあいまいな状態でした。そこで、私たちはまず、名作と認められている3D映像がどのように作られているかを分析しました。具体的には、『アバター』や『塔の上のラプンツェル』、『ヒックとドラゴン』などの3D映画です。実際に奥行き感の設計を担当したハリウッドのステレオグラファーの協力を得て、スクリーンの前後に表現されている3D映像空間が、時間的にどのように変化していくかという奥行き情報を分析していきました。

——分析した結果からどんなことがわかるのでしょうか?

奥行き情報の時間的な変化は、「デプスチャート」というフォーマットで可視化できます。デプスチャートは、空間の「深さ」を音の「高さ」に見立てることで、一種の“3D映像の楽譜”のように捉えることができます。この楽譜から、ストーリーの進行に合わせた奥行き情報の変化や、ユーザーの負担に配慮した奥行き情報の設定方法などが定量的にわかってくるわけです。

——3D映像の作り方が可視化されれば、他の作品づくりに向けて、情報が共有できるようになりますね。

160412_kawai_03はい。3D映像特有の奥行き情報を「両眼視差」といいますが、どの程度の両眼視差が含まれているかは、映像を見ただけではわからないものです。メディアがリアリスティックになればなるほど、コンテンツ制作のノウハウは高度になっていきます。それをユーザーの視点からどのように定量化し、またノウハウとして共有していくかが肝心なんです。こうした知見に基づくことで「快適な3D映画」も作りやすくなります。邦画作品でいうと『映画 怪物くん』(2011年公開)などにも、そうしたノウハウが活用されているんですよ。

——ほかにも“ドラ泣き”というキャッチフレーズが印象的な3D映画『STAND BY ME ドラえもん』(2014年公開)にも、先生の研究成果が生かされたそうですね。

こちらの映画には、奥行き情報の分析を発展させた「エモーショナル3D」と呼んでいる研究成果が、奥行き感の設定の一部に反映されています。「エモーショナル3D」では、3D映像による感情体験を増幅するためのノウハウを構築しています。他にも、3D映像による注意や記憶といった認知機能への影響に着目した「コグニティブ3D」という研究も並行して進めています。

エルゴノミクスはゲームデザインにも波及

——過去にはゲーム制作でも先生の研究が応用されていますよね。

初期のゲーム研究では、ユーザーの「映像酔い」の軽減に取り組んでいたのですが、そこからもう一歩踏み込んで、ゲームによるポジティブ体験を「効能」として捉えられないか。例えば「このゲームをプレーすると“眠気が覚める”」といった、日常生活のサプリメントのような効果を検討する「ゲームの処方箋」というプロジェクトに携わりました。

そこから特定の心理効果を意図したゲームデザインに発展させたのが、2008年に発売されたニンテンドーDS用ソフト『99のなみだ』です。特定の心理効果とは、物語に感動して涙を流すことによる「癒し」を目指しました。ユーザーの「泣きのツボ」を統計学的に分析し、プレー前の気分も反映した「ストレスレベル」を算出して、その都度、最適なショートストーリーを提供する「なみだのソムリエシステム」を設計しました。

——3D映画にゲームコンテンツと研究成果は多岐にわたっていますが、他にもウェアラブル系のデバイスについても研究されていますよね。

HMDはエルゴノミクスと関連の深いデバイスです。例えば、片目に装着する単眼HMDでは、ユーザビリティー上の課題として「両眼視野闘争」が挙げられます。これは、両目で異なる視覚情報が入力されることで、片目の情報の知覚的消失が繰り返し生じる現象です。言い換えれば、意識できる情報が左右交互に切り替わる現象で、これにより単眼HMDの視認性は低下します。

エルゴノミクスのアプローチはこうした課題の改善に有効的で、実際の製品開発にも生かされています。両眼HMDにおいても没入感やVR酔いなどの観点から研究を進めています。

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映像を見るだけで、触感が伝わる!?

——近年ではHMDを使った「映像を見るだけで触感が伝わるシステム」が発表されていますよね。これはどういう研究なのですか?

「クロスモダリティー」を応用したシステムです。クロスモダリティーとは、ある感覚から他の感覚の情報を補完して体験・解釈するという、ヒトの認知的な特性のことです。VRやAR(拡張現実)にユーザーの身体イメージを生起するために、このクロスモダリティーを応用できないかと考えました。さまざまな試行錯誤を経た成果の一つが「映像を見るだけで触感が伝わるシステム」です。これは実際に体験していただいたほうが、話が早いかもしれません。

=ここで「映像を見るだけで触感が伝わるシステム」を準備いただく=

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現状、このシステムでは、シースルー型の両眼HMDを使っています。HMDに表示される虚像を手の平に近接するように制御し、そこに視覚運動を加えていきます。すると、何かがそこに存在していたり触れていたりするような、微かな触錯覚が生じるというもので、視覚誘発型の「微触感錯覚」と呼んでいます。

では、このHMDを装着してみてください。HMDを通して見える「球」を両手ですくうようにしてから、球が転がるように頭を動かしてみてください。

——……あっ! なんだかひんやりと冷たい感じがします。

160412_kawai_06では次に、映像を変えてみます。今度は「炎」と「氷」が交互に出てきます。これを手の平に乗せて、映像が切り替わったときの変化を感じ取ってみてください。

——映像が変わるたび、わずかに「暖かさ」「冷たさ」を感じます!

体験した方々へのアンケート調査から、誰もがまったく同じ感覚を得られるとは限りませんが、多くの方が微触感の質的な変化を体験したことがわかりました。炎の映像も、記憶や印象などが影響して、冷たく感じる方もいます。いずれにしても、視覚情報から微かな触感が伝わり、質的な変化も与えられる。この応用例として、手の平に雨や風など天気の変化が伝わるような「触感天気予報」というコンテンツを試作しています。

エルゴノミクスでクリエーティブに貢献したい

——微触感錯覚が、これだけはっきりとしたものだとは驚きでした。今日はたくさんの研究成果を見せていただきましたが、“実学”を目指す河合先生は、こうした研究成果がどのように実用化されていくとお考えですか?

一言でいえば、クリエーティブな分野に貢献したいという思いがあります。もちろん、我々がクリエーティブの神髄に踏み込むというより、クリエーターの方々が無意識のうちに使っているテクニックを、エルゴノミクスのアプローチから分析・可視化し、その有効性を評価し、さらにそれを再利用できるようなノウハウとして提供していく。新しいメディアを用いてコンテンツをつくるたびに試行錯誤を繰り返して到達するより、あらかじめツール化されていることで省力化やコストダウンを図れると同時に、ユーザー体験のクオリティーを担保することも期待されます。

160412_kawai_07一方で、3DやVRに接触する時間や取得する情報が増加するほど、ユーザーに対する影響を考慮することが重要になってきます。つくりたいものを追求していくと、そうした配慮を見失ってしまうこともあり得ますし、結果としてユーザーのネガティブ体験につながることが懸念されます。新しいメディアのファクトとバリューを理解した上でつくるのとそうでないのとではまったく異なりますから、そこにエルゴノミクスが貢献できると思うのです。

——ところで、IBMがスポンサーをしている『ソードアート・オンライン ザ・ビギニング Sponsored by IBM』というイベントが3月18(金)~20日(日)に東京で開催されました。これは、VRMMORPG(Virtual Reality Massively Multiplayer Online Role-Playing Game)を描いた作品の世界さながら、体験者にHMDを装着してもらい、何人かのユーザー同士が同時に仮想空間にダイブするというイベントです。河合先生にも体験していただきましたが、こうした未来型のVRコンテンツが出てくることについて、ご意見を頂戴できますでしょうか。

私も『ソードアート・オンライン』の小説は読んだことがあり、VRでユーザーが体験を共有する、という試みは面白いと思います。

こうした世界観を実現するためには、先ほどのクロスモダリティーも重要なファクターになると思います。すべての感覚情報を提示するためのコストやハードルはまだまだ高いですし、「脳に直接刺激を与えて…」といった作品内でのアプローチは現実的にはまだ時間がかかるでしょう。それに対して、本来提示されていない情報を補完することで、ユーザーの体験を多重化していくのがクロスモダリティーのアプローチです。先ほど体験いただいたような「手触り」だけでなく、過去には「香り」にも応用し、一定の成果を得ることができました。従来のアプローチでは提示できなかった感覚情報を、一種の錯覚などを利用して表現し、感動的な体験を設計していく。そうした人間中心のアプローチは、これからのバーチャルな世界では非常に可能性があることだと思います。

TEXT:安田博勇

河合隆史

かわい・たかし

河合隆史 早稲田大学 基幹理工学部 表現工学科 教授

1993年、早稲田大学人間科学部卒業。1998年、同大学大学院人間科学研究科博士後期課程 修了。同大学助手、専任講師、准教授を経て2008年、同研究科教授を経て現職、現在に至る。2016年度はヘルシンキ大学行動科学研究所 訪問教授としてフィンランドを拠点に研究を進めている。博士(人間科学)。認定人間工学専門家。

3D映像やバーチャルリアリティー、ウェアラブルコンピューターなど、次世代のメディアとヒトのインタラクションに関する研究に従事。生体計測を中心とした評価研究に加え、その知見や手法を活用したコンテンツ制作でも知られる。


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