「世界を知る人に、日本文化を知ってほしい」 ――美術館のあり方を革新しつづける山種美術館

日本初の日本画専門美術館である山種美術館は1966年に開館し、今年50周年を迎える。2009年に東京・広尾に新美術館を新築・移転して以降、入館者数を順調に伸ばしてきた。近隣に大使館が多く外国人の来館者も多い。土地柄もあってか、日本画にあまり縁がなく関心も薄かった若い世代にまでファン層を広げている。国の重要文化財6点を含む約1800点の質の高いコレクションは定評があり、それらを親しみやすく、かつ魅力的な切り口で紹介しつづける企画力にも注目が集まる。
「優れた日本画との一期一会は、人生の幅を広げ深い潤いと趣を添える」「真のグローバル人材とは、自国の文化や芸術に誇りを持ち、それを海外の人にもきちんと説明できる人」そう語るのは、創立者の孫で3代目館長の山﨑妙子氏。山種コレクションの見どころ、日本画の楽しみ方、本物に触れる意義や魅力などについてお話をうかがった。

(山﨑妙子氏隣の作品は、上村松園の《新蛍》1929年(昭和4年)山種美術館)

「楽しい、癒される」そんな美術館でありたい

――山種美術館は今年7月に創立50年を迎えますが、この間常に心がけてこられたことや培ってこられたものは何でしょうか。

山﨑 山種美術館は、山種証券(現・SMBCフレンド証券)の創業者である祖父・山﨑種二が個人で集めたコレクションをもとに、1966年、日本初の日本画専門美術館として東京・日本橋兜町にオープンしました。2009年に東京・広尾の現在地に移ってからも、「美術を通じた社会貢献」という創設当時からの理念を守り、日本の自然や風土の中で磨かれてきた日本画の魅力を未来に引き継いでいくことを目指しています。
当館のコレクションが今あるのは、証券会社の経営者という本業の一方で、美術を愛し、画家たちとも親交の深かった祖父の存在があったからです。「絵は人柄である」という信念のもと、祖母とともに画家たちと家族ぐるみの交流を続けた祖父の思いは、私の父母にも受け継がれ、私も常に心がけているものです。

また、種ニは開館に際して、こんな言葉を残しています。
「自分の楽しみにと、あれこれ蒐集してきましたが、このまま私物化してしまったのでは、諸先生方が精魂こめて画かれた作品もさぞかし不本意でありましょう。美術を愛好される方も、またこれまであまり縁のなかった方にも広く日本画の良さを味わっていただけたらというのが、実は私の願いなのであります」
この「作品を私物化しない」という考え方も、今日まで受け継いでいます。

種二は、「お世話になった下町の方々が着流しに下駄で来られるような美術館にしたい」とも考えていました。私としても、美術に造詣の深い美術愛好家や研究者にご評価いただくだけでなく、より幅広い層の方にも「美術館に来て楽しかった、癒された」という気持ちを抱いていただけるような美術館を目指しています。

「二度と出せない色」《炎舞》、群青が美しい《年暮る》など何度でもご覧いただきたい作品の数々

――1800点を超える山種コレクションの中から、館長ご自身にとって思い入れの深い作品をいくつか解説いただけますか。

山﨑 私が最も好きな作品は速水御舟の《炎舞》です。

速水御舟《炎舞》【重要文化財】1925(大正14)年 絹本・彩色 山種美術館

速水御舟《炎舞》【重要文化財】1925(大正14)年 絹本・彩色 山種美術館

これは「後にも先にも無い」というような作品だと思います。御舟は私が幼い頃に、祖父の膝の上で作品を見た時から心に残っていた画家で、私が博士論文のテーマにも選んだほど魅了された画家でした。学生時代には御舟の奥様にも直接取材をさせていただき、さまざまなエピソードをうかがったことがあります。

《炎舞》は、1925(大正14)年夏、家族とともに約3カ月間、軽井沢に滞在して制作されました。毎晩のように焚火をし、炎とそこに群がる蛾を観察したといいます。採集してきた蛾をいろいろな角度から丹念に写生した素描も残されています。描かれている蛾はすべて正面向きで現実的ではないのに、翅(はね)の後ろをぼかすことによって、あたかも舞っているようなイメージをつくりだしています。炎の表現は平安時代・鎌倉時代の仏画や絵巻の様式を踏襲したものですが、火焔の先端が渦を巻くような描写は、御舟の観察眼が反映されています。
特に注目いただきたいのは、「もう一度描けと言われても、二度と出せない色」と自ら述懐した背景の深い闇。試行錯誤の末に到達した絶妙な色合いですが、写真ではうまく伝わらないので、ぜひご来館の上、実物をじっくりとご鑑賞いただきたいと思います。

東山魁夷の《年暮る》も大好きな作品です。

東山魁夷 《年暮る》1968(昭和43)年 紙本・彩色 山種美術館

東山魁夷 《年暮る》1968(昭和43)年 紙本・彩色 山種美術館

1960年代、作家・川端康成から「京都は今描いておいていただかないとなくなります、京都のあるうちに描いておいてください」と勧められて心を動かされた魁夷が手がけた「京洛四季」連作の1点です。当館が所蔵する4点の「京洛四季」のうち、鷹ヶ峰の深い緑を背に満開の桜を描いた《春静》、魁夷の定宿であった京都ホテル(現・京都ホテルオークラ)の屋上から俯瞰し、大晦日の雪降る京の町屋を描いたこの《年暮る》の2点は、山﨑種二がその当時に入手し、のちに当館に寄贈した作品です。
その後、《緑潤う》と《秋彩》がそれぞれ当館の10周年、20周年記念にあわせて揮毫(きごう)され、約20年の時を経て魁夷の描く京の四季が当館にそろいました。中でも《年暮る》は、「東山ブルー」と称された青(群青)が美しく、静寂の中にしんしんと降り積もる雪の音、おごそかに鳴り響く除夜の鐘の音まで聞こえて来そうな作品です。人物は描かれていませんが、手前の民家の灯りに人の営みと温もりを感じませんか。年末には毎年《年暮る》を観たいというお客様が多くいらっしゃいます。そのときどきの自ら置かれている状況によって捉え方や感じ方も異なってくるため、絵との出会いはいつだって一期一会。ぜひ素敵な出会いの機会を持っていただける美術館でありたいと考えています。

竹内栖鳳の《班猫》は、老若男女を問わずファンがとても多い作品です。

竹内栖鳳 《班猫》 【重要文化財】1924(大正13)年 絹本・彩色 山種美術館

竹内栖鳳 《班猫》 【重要文化財】1924(大正13)年 絹本・彩色 山種美術館

この作品には、旅先の沼津で見かけた猫に栖鳳が一目ぼれし、飼い主の八百屋のおかみさんと交渉の末、譲り受けて京都まで連れ帰って描いたというエピソードが残されています。栖鳳によれば、猫を見た瞬間に中国宋代の皇帝・徽宗が猫いた《猫図》を想起し、表現欲が湧いてきたということです。無背景の画面に猫のみを配し、余白を効果的に活かした構図や、見る者に視線を向ける印象深い瞳に金泥を用いている点に、栖鳳の日本・中国の古画研究の成果が発揮されています。京都画壇の伝統に学びながら、対象の実物観察と徹底した写生に重点を置き、猫が身体を舐める仕草や一瞬見せた表情を的確に切り取って絵にしたところに栖鳳の近代性を見て取ることができるといえるのではないでしょうか。この作品は当館のTwitterアイコンとしても使用しており、また皆様に写真撮影をしてInstagramなどに投稿いただけるように、ロビーにこの作品をあしらった撮影用床面シートを設置しています。

日本画は自然の素材を用いて描かれた芸術
美しい素材の質感を味わってほしい

――日本画は岩絵具など自然の恵みを素材として用いるようですが、その見方、楽しみ方についてアドバイスをお願いします。

山﨑 日本画は、墨、天然の鉱石から作る岩絵具、牡蠣の貝殻から作る胡粉や、和紙・絹など自然の素材を用いる芸術です。その主題や表現においても自然の美しさや季節感などが大切にされ、自然とともに生きる中で培われてきた日本の伝統的な美意識が反映されています。

いくつかポイントをご紹介しましょう。例えば、奥村土牛の《醍醐》は、日本画ならではの「色の魅力」を感じさせる作品です。薄く溶いた岩絵具を幾重にも塗り重ねているにもかかわらず、透明感のある淡くて繊細な桜の色を表現しています。一方、昭和期の作品としては重要文化財第一号として知られる速水御舟《名樹散椿》は、金箔を貼るのではなく、細かく砕いた金箔をぎっしりと敷きつめるために5倍もの金箔を必要とする「撒きつぶし」という技法を用いて、しっとりとした光沢の均質な背景を作り上げています。秋の御舟展(会期: 2016年10月8日~12月4日)では、御舟の金箔地の屏風《翠苔緑芝》とともに出品されますので、その輝きの違いを比べてみてください。

「奥村土牛 《醍醐》 1972(昭和47) 紙本・彩色」 の前で。

「奥村土牛 《醍醐》 1972(昭和47) 紙本・彩色」 の前で。

私の背後に掛かっている上村松園筆の《新蛍》は、簾(すだれ)越しに団扇で涼をとりながら女性が蛍に目をとめている姿を描いた作品です。緩やかなS字曲線を描く女性の立ち姿に、簾がしなやかに沿って動きをもたらし、簾越しに透けた着物の色調が柔らかな印象です。女性の伏し目がちな目元と団扇で口元を隠す仕草からは慎ましさが感じられませんか。松園は喜多川歌麿などの浮世絵を熱心に勉強した画家で、髪の生え際の細い線の表現、着物や顔の輪郭線など、細部まで的確で流麗な「線描」にもぜひご注目ください。
四季折々の風物や草花をモティーフとする「季節感」は、日本画を味わう上で欠かせない要素です。また、日本画の絵具の質感はとても美しいのです。当館ではその質感を味わっていただけるように、照明や展示ケースも工夫していますので、ぜひ実物を心ゆくまでご鑑賞いただければと思います。

藝大大学院で、美術史研究者としての眼と
制作者としての心を養う

――館長ご自身、やはり日本画に囲まれた環境でお育ちになり、自然と日本画の研究に進まれたのでしょうね。今日の和服姿もとても素敵です。

山﨑 ありがとうございます。この着物は主人の祖母の着物を仕立て直したものです。着物も日本の伝統文化の1つとして大切にしたいと思い、機会があれば袖を通すようにしています。着物の色や文様などのデザイン自体、日本画に相通ずるところが多いので、そこから日本画に興味を持つようになる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

藝大大学院で、美術史研究者としての眼と制作者としての心を養う

私は祖父の膝の上で、自宅の床の間にある日本画を見て育ちました。洋間には洋画も掛かっていました。そういう環境にあったためか、絵を描くことが大好きな子どもでした。種二は孫に甘く、「何でも買ってあげるよ」と言うのですが、私はいつも画用紙や絵の具など画材が欲しいとお願いしていました。
大学卒業後、美術にかかわる仕事をしたいと思った時に、父(2代目館長・富治)から、「たとえ身内でも、専門的な勉強をしていない人間を雇うわけにはいかない」と言いわたされました。そのため2 年間、猛勉強して東京藝術大学大学院に入学し、5年間在籍しました。時代はバブル全盛期で大学時代の友人たちは社会人生活を満喫していましたが、私は毎日美術の勉強。命が縮まるのではないかと感じるくらい必死で勉強していました。

大学院では日本画の重鎮であった故・平山郁夫先生に「絵描きの心が分かる館長になってください」と言われました。先生の言葉に導かれた私は、美術史の勉強とあわせて実技も学びました。日本画の制作や法隆寺の壁画の模写を行い、直接平山先生から実技のご指導を受けることができました。美術史の研究者としての眼と、制作者としての心、その両方が持てるようになったのは本当に幸運なことだと感じています。藝大の博士課程修了時に、速水御舟の研究で博士号を取得しました。

美術館のあり方を革新しつづけるプロジェクトの数々

――2007 年、山種美術館3代目館長に就任されて以来、さまざまな施策に取り組んでこられました。

山﨑 館長に就任してからは、それまであまり活発に行ってこなかった美術館の広報活動にカを入れています。美術館の存在や活動を広く知っていただかないとお客様にもお越しいただけません。チラシやポスターの作成、日本語と英語を併記したホームページの充実などを手がけました。Twitter、Facebook、Instagramなどを活用して、より活発な情報を発信し、また、Google Cultural Institute「Art Project」からもいち早くお声がけいただき、2012年から所蔵品のデジタル画像の公開を行っています。
また、日本文化の海外発信活動の1つとして、外国のお客様用に外国語のサービスを高めるため、現在既に実施しているガイドツアーや解説、ホームページをさらに充実させるなどを考えています。

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館長就任後のもう1つの大きな使命が東京・広尾に新美術館を新築、移転するという仕事でした。設計、施工、照明技術などの専門家と打ち合わせを重ね、全国各地の美術館をめぐり参考にしながら、山種コレクションに最もふさわしい美術館のありようについて協議を重ね、2009年に現在の美術館を完成させました。展示室の設計にあたっては、「美術品が主役」と考え、鑑賞に最適な環境となるように最大限に配慮しました。

――若手日本画家の発掘と奨励を目指した「Seed山種美術館 日本画アワード2016」(以下「Seed」展)についてもお聞かせいただけますか。

山﨑 日本画家を目指す方々を継続的に応援したいと考え、創立50年を機に1971年から97年まで行っていた山種美術館賞を復活させ、「Seed 山種美術館 日本画アワード2016」というかたちで実現しました。259点の作品をご応募いただき、その中から40点の入選作品を選び、大賞など4点の受賞作品を選出いたしました。どの方も大変真剣な気持ちで応募してくださり、素晴らしい作品が集まりました。
このSeed展では今回の受賞作品、入選作品を、過去の山種美術館賞の第1回から第4回までの大賞・優秀賞の作品とあわせて展示する予定です (会期: 2016年5月31日~6月26 日)。
およそ40年の時を経て、既に画壇の重鎮として活躍していらっしゃる画家の方々の若き日の受賞作品と、現在の若手画家たちの作品が一堂に会する展覧会となります。

――作品が1800点もあれば、すべてを良好な状態で保存するには大変なご苦労があるのではないでしょうか。

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山﨑 日本画は、絹や和紙に墨や岩絵具で描かれており、きわめて繊細で、傷みやすいという性質があります。美術館を運営する上では、作品の保存と公開という、相反する使命を両立させる難しさに直面することが多々あります。展示室内の最適な環境づくりや傷んだ作品の修復などに、常に前向きに取り組むようにしています。
今後、個別の所蔵作品の調査研究にもより一層力を入れ、学術文化の振興にも貢献していければと思っています。
幼い頃、楽しく愛情あふれる日々を、絵画に囲まれながら祖父と送ることができた私は、本当に恵まれていたと感謝しています。心から日本画を愛した祖父の遺した貴重なコレクションをさらに研究し、発展させることが私にとっての恩返しであり、使命であると思っています。

いつの時代も変わらない驚きや感動こそ
美術館が発信できる強み

――今後、山種美術館はどんな役割を担っていくのでしょう。

山﨑 日本人はもっと自国の文化を知り、誇りを持ってよいと思います。戦後、日本は生活様式も考え方もアメリカナイズされましたが、これからは歌舞伎や能を鑑賞したり、美術館でじっくりと日本画に触れたりすることによって、それを育んだ日本の風土や歴史などをあらためて知り、自国の文化・芸術を誇りに思うことができるようになるでしょう。また、若い人だけでなく、中高年の方々の中にも、そういった日本ならではの素晴らしいものに触れる機会が少なかった方が多いのは非常に残念だと思うのです。
近年よく「グローバル人材」の育成が大事だと言われ、英語教育の必要性が叫ばれていますが、まず、自国の文化を知り、誇りを持って海外の人にも説明できてこそのグローバル人材ではないでしょうか。

フランスを始め、ヨーロッパ圏の方々は自国の文化や芸術、歴史などに非常にプライドを持っており、知識も豊富です。そして皆さん他国のものにも高い関心を持ち、日本画も熱心にご覧になっています。私どもの美術館がある広尾という土地は大使館が多く、各国の大使を始め大使館員の方々やそのご家族なども多数足を運んでくださっています。リピーターとして、何度もご来館くださる方も多く、まさにグローバルな視点から日本画を高く評価し愛してくださっていることを嬉しく思っております。

よく「海外に出て日本のことを訊ねられ、あらためて自分が日本の文化や歴史についてよく知らなかったことに気付いた」と耳にします。そういった意味でも特に、次代を担う若い方や、グローバルに活躍するビジネスパーソンには、日本画との出会いをお薦めしたいと思います。
美術館では、作者が渾身の力を込め描き上げた本物の作品とじかに出会うことができ、人生の幅が広がり、深い潤いと趣を添える一期一会となることでしょう。また、描かれている作品を見て、名もない花や虫や日本の四季を愛でるきっかけになることもあります。
そのような場として、美術館がお役に立てば嬉しく思います。

私どもは毎年、休館日に近隣の小学校から全校児童を招待し特別鑑賞会を実施しています。展示を見て感じたことや考えたことを、全員が手紙にして届けてくれます。子どもたちの豊かで多彩な視点に、私も刺激をもらっています。また、音楽家や華道の家元など多方面の異なる分野の専門家とのコラボレーションや、自治体・文化センターと協力した社会人向け講座なども行っており、日本画専門の美術館として、社会のお役に立てる活動を引き続き実施していきたいと考えています。

今後、一層グローバル化が進み、テクノロジーは進歩していくでしょうが、実際に芸術作品に触れた時の新鮮な驚きや感動は消えないと信じています。科学や技術がどんなに発達しても、それらでは代用できないことを芸術が担っていくはずです。自ら絵を描く。あるいは絵を観ることで癒される。美術館はそういう領域で人々の心を豊かにするお手伝いができると考えています。

TEXT:伊川恵里子

山﨑妙子(やまざき・たえこ)

公益財団法人山種美術財団理事長兼山種美術館館長。慶應義塾大学卒業後、東京藝術大学大学院美術研究科修士課程を経て、後期博士課程修了。学術博士。2007年より財団法人山種美術財団理事長兼山種美術館館長。2012年より公益財団法人に移行。