杉山学長インタビュー「時代が求めたデジタルハリウッド設立の舞台裏」

東京・御茶ノ水にある学校・デジタルハリウッドは、ウェブ制作や3DCG、グラフィックなどデジタル技術を学ぶ専門スクールとして、1994年に設立された。同校は「デジタルメディアリテラシーを習得した人材の育成」という方針を掲げ、現在まで22年間の歩みの中で数多くの卒業生を輩出している。

学長を務める杉山知之氏は、90年代から「CGクリエイターが必要とされる時代が来る」との視点から、業界の先陣を切ってデジタルハリウッド創設に踏み切った。一部の人から「こんなものは学問ではない」と一蹴されたが、それでも諦めることなく、その後も株式会社としては初となる大学院と大学を設立。もくろみ通りに時代は遷移していったが、杉山氏の先見の明と強い意志の裏側には、どんな人生があったのか、話を聞いた。

 産業に貢献するのではなく、産業をひっくり返すクリエイターの育成

――94年のデジタルハリウッド設立から22年が過ぎましたが、どのような手応えを感じていますか?

杉山 僕たちの活動の根底にあるのは、「みんな手に職を持とう」ということなんです。手に職があれば、会社が潰れても困りませんよね。最初はアニメやゲームを制作していたCGクリエイターも、基礎があればアニメやゲーム以外のどんな業界にも転職できます。だって、今はもうウェブデザイナーを自社で雇っている時代です。CGも当然そうなってくると思いますし、発展のスピードは加速しています。もはや我々の感覚を超えたスピードでデジタル技術が発展していて、少し前まで「いつかコンピューターで、こんなことできたらいいな」と想像していたものも、今や簡単に実現されています。そんな時代ですから、デジタルの基礎さえあれば、応用範囲は一気に広がるんです。

そういう意味では、応用範囲の広いクリエイターたちを輩出してきたという自負はあります。世間のイメージでは、デジタルハリウッドってクリエイターの育成によってコンテンツ産業に貢献する学校だと思われているかもしれないけど、僕自身は「産業に貢献するのではなく、産業をひっくり返せるクリエイターを育成する学校」だと考えています。

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――今はデザインやコンテンツなど、世の中にあるさまざまなものが、テクノロジーに合わせて変化していますよね。

杉山 昔ならデザイナーはデザインだけをやっていたけど、今やウェブデザインをやっている人は、人工知能をチューニングできるようになるといわれています。また、CGクリエイターはアニメーション技術を叩き込まれているので、ロボットの動きが簡単に想像できます。一つの職能じゃなく、いろんなことに応用できる。僕らが教えているのは転職のための一つの知識ではなく、なんでもできるようになるための基礎なんですよ。

――杉山さん自身は、学生たちにどんな学び方を伝えていますか?

杉山 デジタルハリウッド大学院への入学検討者には、覚悟を持たせるため、説明会などで“辛い”というキーワードを使っています。これから大変だよ、つらいよって。これは「つらい思いをすることなく、なりたい自分になんてなれない」というメッセージです。

覚悟を決めた人じゃないと、我々も本気で教えられませんから。でも、大学院に来る人は、みんな自分に投資している人たちだから、覚悟を持っています。むしろ、「この僕が来るんだから、学費をタダにしてください」という考えを持った学生までいます。「僕はこれだけのことをやれるし、大きな人脈もある。僕が入れば、あなたたちにも得るものがありますよ」って。日本人でも、こういう感覚で自分をプレゼンできる人が出てくるようになったんだなって思いましたね。

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ヒッピーに憧れた音楽好きの少年と、コンピューターとの出合い

――では、デジタルハリウッドの設立に至るまでの経緯についてお聞きします。昔から、テクノロジーやコンピューターに興味があったのでしょうか?

杉山 僕は、昔も今も音楽が大好きです。子どものころはアメリカやイギリスのロックが好きで、1967年ごろには完全に外国の音楽に洗脳されていました。当時のアメリカというと、ヒッピーですよね。僕自身、大企業に入るのではなくオルタナティブなものを選ぶというヒッピーの考えに傾倒していたので、父親世代がつくった社会ではなく、もっと新しい未来がやってくると考えていました。みんなで楽しく生きる、「ラブ&ピース」な世界を想像していたんです。

――そんな音楽好きの少年が、どのようにしてコンピューターと出合ったのでしょう?

杉山 小学生のころに国立代々木競技場を見て以来、建築に興味を持って日本大学理工学部の建築学科に入りました。しかも音楽好きだったので、大学4年から建築音響を専攻したんです。研究グループの目標は簡単で、ホールで良い音を出すこと。音響のいいホールを設計するためには、ステージからの音が実際にどうやって壁にぶつかるかを見なくてはならない。でも、音は目に見えませんよね。そこで、CGを使うことになり、3DCGのプログラムを書く必要に迫られました。

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それが、コンピューターとの出合いです。当時は3DCGのツールもないので、ゼロからプログラムを書くわけです。また、音楽ホールで録った音をデジタル化する必要も出てきたけれど、コンパクトディスクが出る前だから、音をデジタルにする装置なんてまだありません。アナログのテープレコーダーの音を大型コンピューターに入れてデジタル化するんです。そんな時代に、プログラミングやCG、デジタルサウンドの基礎を学びました。

その後の人生を決定づけた、米国での経験

――その後、大学から大学院に進み、就職せずに日本大学の助手になられました。

杉山 実は大学院を出た後、建築設計事務所に入ることが決まっていたんです。それなのに、卒業前の2月に、教授の命令で助手になりました。理系って、教授の言うことは絶対なんです。大学の助手はポジションが空かない限り就けないので、就職を断るのは申し訳なかったけれど、それはそれでいいかなと思っていましたね。その後、8年間助手として建築音響を研究し、渋谷Bunkamuraのオーチャードホールとシアターコクーンの音響設計を担当しました。お金がかかったプロジェクトでしたが、最後にあのような成果を残せたのは、僕にとっても光栄なことでした。

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――大学の助手を辞したきっかけは?

杉山 当時、米マサチューセッツ工科大学にある「MITメディアラボ」へ日本人3人が行けるという話が持ち上がり、その対象を日大の研究室から募集することになりました。対象者をMITメディアラボの所長が審査するのですが、なかなか合格者が出ない。最後の最後に、僕にも話が来たんです。僕は英語が話せなかったので、35ミリのフィルムでスライドを作って研究内容をプレゼンしました。するとその日に、僕に決まったという知らせが来て。僕もびっくりしたけど、みんなもびっくりしていましたね(笑)。そんな経緯があって助手を辞め、MITメディアラボに行きました。

MITメディアラボには、ほぼ毎日のように世界中の企業からエグゼクティブが視察に来ていました。日本からも週に2~3チームぐらいは来ていましたね。やがて日本の企業が視察に来た時、僕が通訳として呼ばれるようになったんです。そのうち、研究員から「次からは、君ひとりで対応していいよ」と言われ、内容をすべて覚えて、僕がエグゼクティブに説明するようになりました。相手の役職や持っている知識によって、伝える内容を考えることが訓練になったし、「今後はこうなっていきます」と話していると、なんだか未来を語っている気分にもなる。その時に、自分は未来につながる分野を研究しているんだなって感じましたね。

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デジタルコンテンツの夜明け前に、学校を設立したかった

――その後、なぜ教育事業に踏み出したのでしょうか?

杉山 3年後、日本へ帰ってきて日本大学短大の専任講師になりました。でも、アメリカと比べてできることがあまりに違うことにショックを受けて、理工学部の中の空いていた部屋で、仲間と一緒にベンチャー企業を設立しました。それが、ビジュアルサイエンス研究所という株式会社です。

――大学の部屋を使って会社をつくったんですね。

杉山 CGアニメーションを制作する仕事を請け負いつつ、もともと好きだったバーチャルリアリティー(VR)のコンテンツをつくっていました。こちらは半分研究ですね。仕事をどんどんもらえるようになり、人手が足りなくなるんですが、当時はCGアニメーションをつくっている人なんてほぼいない。

そんなある日、僕らのところに東京藝大で油絵を専攻しているという大学院生がやってきました。会社のプロジェクトを何かの記事で知ったらしく、「大学で30枚ほど油絵を描いたけれど、卒業展示では2~3枚しか飾れない。全作品を飾れるバーチャルの美術館をつくりたいんです」って言ってきたんですよ。驚きました。

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――コンピューターの知識が全くない方?

杉山 ずっと油絵を描いている、パソコンなんて触ったこともない藝大生でした。でも、僕らが親身になって教えたら、半年後に彼は、自分のバーチャル美術館を見事に完成させたんです。これは、僕たちにとっても驚きでした。アナログな人にも、コンピューターを教えられると知ったわけですからね。僕らの会社でも人材が欲しかったし、じゃあCGアニメーションのつくり手を増やすために学校をつくろうということになり、95年4月の開校を目指して動き始めました。メーカーの人に会いに行って熱意を伝えたら面白がってくれたりして、日立、IBM、内田洋行の3社が出資してくれました。

――一緒にCGをつくる仲間を増やしたいという思いが根本にあったのですね。しかし、学校をつくるというのは相当に強い意志が必要だと思うのですが、デジタルコンテンツの需要が、これから伸びていくという確信があったのでしょうか?

杉山 毎日、どこかの研究所や大学が「ホームページつくりました」などと言っていた時代で、この波はもっと広まるだろうなという感覚はありましたね。さらに、セガが当時出したゲームセンター用の格闘ゲーム『バーチャファイター』と、ナムコが出した『リッジレーサー』というレーシングゲームがヒットしたことも大きかった。我々からすると、どちらのゲームにもグラフィックのエンジニアが入ってつくられていることがわかりました。

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さらに、ソニーが新しいゲーム機をつくっているらしいという情報も出ていたし、近いうちに家庭でもハイレベルなゲームで遊ぶ時代が来るだろうと。そういった要素を鑑みて、学校の開校も半年早めました。誰よりも早く、夜明け前にやらないといけないということで、95年4月開校予定だったデジタルハリウッドは94年10月に開校したんです。

開校時点から変わらぬキャリアチェンジのための学校

――最初の受講生は何人でしたか?

杉山 月曜日と土曜日の2クラスで、各クラス24人でした。購入できたマッキントッシュの台数が25台だったからです。1台は講師が使いますからね。驚いたのは、生徒の90%が女性だったことです。なおかつ平均年齢は29歳。これは、僕らも予想していませんでした。

――社会人女性が、キャリアアップのためにコンピューターを学ぼうとしていたんですね。

杉山 キャリアアップどころか、会社を辞めてうちの学校に来ていた人も、たくさんいました。男女雇用機会均等法が施行されて、女性がどんどん社会に進出できるようになっていたけれど、例えば同期入社でもまだ男女の扱いに差があり、もっと働きたいと思う女性が増えていたという実情もあったのかもしれません。

なんの実績もない僕らの学校に、パソコンを教えてほしいという女性がたくさん来てくれた。僕らも説明会で熱意を持って話をしたというのはあるけれど、女性の勘かもしれませんね(笑)。開校時点ですでに、社会人がキャリアチェンジのために来る学校になっていた。それは現在まで22年間、ずっと変わっていないスタンスです。

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結局、世の流れは僕らの予想通りに展開し、94年11月にセガサターンが出て、12月にプレイステーションが発売されました。アメリカではパソコン用のブラウザであるNetscape Navigator ver1.0が登場し、年が明けて95年8月にWindows 95が発売されました。当時はウェブ制作会社なんてほとんどなく、研究者がちょっとホームページをつくる程度なのに、いきなりすべてのゲーム会社がCGアーティストを求めたわけです。その後、プレイステーションもセガサターンも売れたので、CGクリエイターが足りないという状況がしばらく続きました。

学生の才能が開花する瞬間が何よりの喜び

――キャリアチェンジのための専門スクールとしてスタートしたデジタルハリウッドですが、2004年には大学より先に大学院を設立されました。この理由は?

杉山 91年に奈良先端科学技術大学院大学という、大学院に特化した大学が文部省(当時)に認可されました。僕らの学校はまだ小さいし、大学は難しいなと思っていたけど、「リーダーをつくりたい」という目的もありましたから、大学院ならつくれるかもしれないなと。2003年、小泉政権時の構造改革特区で僕らも大学院設立に挑戦できるようになりましたが、実際に認可をもらうのは、とても大変でした。審査する大学の先生に、目の前で企画書をポンと投げ返されて、「君たちは、すぐに世の中の役に立とうとしている。浅はかだ」と言われましたから。

学問というのは何十年と研究するものであって、こんなものは学問じゃないと言うんですね。そのあとは「ここがダメだ」と言われたところをすぐに修正して翌朝持っていく、ということを繰り返しました。半年経ってやっと、先生たちや文部科学省の担当者も、僕らの熱意をわかってくれたんです。

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やっと大学院の認可を受けることができたので、そのまま大学もつくることにしましたが、やはり大変でしたよ。なぜ大学をつくりたかったかというと、デジタルハリウッドの学生は忙しい人が多いので、英語を習得しづらいんです。僕たちは世界で活躍するリーダーを育成したいと思っていたけれど、英語に触れる機会がない。一方で、海外からデジタルハリウッドに留学したいという声もたくさんあったけれど、株式会社がやっているスクールなので、学生ビザを出してあげられなかった。留学生が来てくれれば学校の中が国際的になって、日本人の学生も海外の人たちと交流できるようになる。その意義は大きいと思ったので、大学院を作ってすぐに大学もつくったのです。

――今では、ハリウッド映画に携わっている卒業生もいらっしゃるそうですね。

杉山 アメリカをはじめカナダ、イギリス、ドイツなど世界各国の制作会社に卒業生がいて、誰もが知っているメジャー作品の制作に携わっています。『ロード・オブ・ザ・リング』などで有名な映画監督のピーター・ジャクソンがニュージーランドに設立したVFX会社では、専門スクールを卒業した日本人の夫妻が働いています。現地で、素晴らしい豪邸に住んでいますよ(笑)。彼らの活躍が、僕はすごくうれしいんです。だって、その人が持っていた才能が花開いたんですから。その女性は、文系の大学を出て銀行に勤めていた人。それが突然、銀行を辞めてデジタルハリウッドで勉強して、今はモデラーの仕事をしている。

もちろん、銀行で働き続ける人生もいいと思うけど、彼女は今、自分らしく生きている。自分の才能を知らずに才能を殺したまま、あまり好きでもない仕事をやり続ける……そんな時代じゃないと思うんです。やりたくない仕事に文句を言うぐらいなら、一度自分に対してチャレンジしてみる。そういう人たちを僕たちは応援したいし、才能が開花した瞬間が、僕の何よりの喜びなんです。

TEXT:大曲智子

杉山 知之(すぎやま・ともゆき)

工学博士。デジタルハリウッド大学学長。1954年生まれ、東京都出身。日本大学大学院卒業後、1987年よりMITメディア・ラボに客員研究員として3年間派遣される。その後、国際メディア研究財団・主任研究員、日本大学短期大学専任講師を経て、94年10月にデジタルハリウッドを設立。2004年、日本初の株式会社立大学となるデジタルハリウッド大学院を開学。05年、デジタルハリウッド大学を開学。99年度デジタルメディア協会AMDアワード・功労賞受賞。