墨田区の町工場・浜野製作所が「ものづくり」に込める思い

家業を継ぐつもりは、まったくなかった

――まずは、浜野さんが家業を継ぐに至った経緯を教えてください。

浜野 墨田区には今、約2,800軒の町工場があるといわれています。このうち8割は従業員5名以下、半分の1,400社は従業員3名以下の小規模零細企業で、家族で切り盛りするような小さな町工場が集積しています。現在、従業員40名規模の会社になっている浜野製作所も、かつては両親が切り盛りしていた町工場のひとつでした。私はその家に、長男として生まれました。

当時、自宅は工場の上にあり、小さな頃から両親が働く姿を間近に見ていましたが、毎日のように、資金繰りをどうしようかと両親が悩んでいる姿や、経営方針をめぐって喧嘩している姿もたびたび見聞きしていました、お客さんとも電話口で激しくやり取りすることがあったりと、日々大変そうに仕事をしている姿を見て、きっと両親は仕方なくこの仕事をやっているのだと勝手に思っていました。

そのため、小さい頃から家業を継ごうという気持ちはまったくなくて、大学4年生の頃には就職活動を始め、ある企業から内々定をもらっていた。そんな折、父から飲みに行こうと誘われたんです。普段はジーパンで出歩いていた私がスーツで出かけていく姿を見て、きっと不思議に思ったんでしょう(笑)。

浜野さん

――お父様とは、どんな話を?

浜野 2人でお酒を酌み交わすことは、それまでほとんどなかったし、父は職人かたぎで寡黙な人でしたから、かなり気まずかったですね。それでも、父は訥々(とつとつ)と私に仕事のことを語り始めたんです。町工場での仕事がどれだけ誇り高いものなのか、それを初めて真剣に話してくれました。何十年も前のことですから、具体的にどんな話をしたのかはもう忘れてしまいましたが、きらきらと輝いていた父の目だけは今でも覚えています。

両親の仕事に対する思いを知り、仕方なく仕事をしていると考えていた自分が、ものすごく恥ずかしくなって……。そして、それだけ素敵な仕事ならば、誰かがこの仕事を引き継ぐ必要があると考えるようになりました。

――家業を継ぐことを、お父様に相談されたときの反応は?

浜野 「何の経験もないお前みたいな奴が会社に入っても、使い物になるわけがない」「経営者も技術のことを理解しなければ、職人ともお客さんとも会話ができない」「最低10年は修業を積んでこい」――そんなことを言われたと思います。そこで、当時、浜野製作所と取引のあった板橋区の精密板金加工会社に父が頭を下げ、丁稚奉公に行くことになりました。

浜野製作所は創業以来、金属製品を取り扱っていますが、父の時代の浜野製作所は主にプレス金型加工のみに対応していました。その頃は“少品種多量生産”の時代だったんです。しかし、父は近い将来、そうした仕事がすべて海外に移り、精密板金加工の“多品種少量生産”の時代が来ると考えていたようで、私にそのための修業を積ませたかったのだと思います。

浜野さん

経営危機を乗り越え、希望が詰まった“おもちゃ箱”のような新工場に

――その後、1993年にお父様が亡くなられたのを受け、浜野さんは正式に家業を継ぎ、2代目社長に就任されています。

浜野 亡くなった後に継いだので、残念ながら父から何かを教えてもらうような機会もなく、しばらくは母から経営のことを教えてもらいました。しかし、父が他界した2年後に母も亡くなり、しばらくは明日のことを考えるだけで精いっぱい。父が予見していた通り、1990年代の終わり頃から少品種多量生産の仕事は減りつつありましたし、私が唯一できることは、板橋区の精密板金加工会社で教えてもらったことを実践するだけの状態でした。

そこで、生き残りを懸けて、精密板金加工の新工場建設計画を進めることになるのですが、新工場完成が目前に迫った2000年6月30日、両親の残した本社兼工場が、隣の家からの火災のもらい火で全焼してしまったんです。本社工場はプレス・金型の工場ですから、当然、既存の仕事がすべてストップしてしまいます。まさに経営の危機に見舞われましたが、お客様や地域の協力もあって、すぐに仮工場に最低限の機器をそろえ、操業させることができました。

――2002年6月には、新しいプレス・金型工場が完成します。とても町工場とは思えないカラフルな外見ですね。

浜野 そもそも私が家業を継いだのも、あのときの父の目の輝きがあったからです。実際に継いでからも、父の仕事に対する誇りに間違いはないと思いました。しかし、外から見ている人たちは、そうは思っていなかった。自宅と工場が一緒の場所で、中は薄暗く、床は油まみれ――。ひとりで会社を切り盛りしていた頃、社員を雇おうとハローワークに募集をかけたんです。1年2カ月たって、やっとひとり面接に来てもらえたのですが、その方は工場の前まで来て、そのままノックもしてもらえずUターンして帰ってしまった(笑)。きっと、こんな職場には将来性とか希望といったものはないと感じたのだと思います。

その方は68歳の未経験者でしたが、その年齢の方でもそう思うなら、今後、若い人たちが入社してくることはないと思いました。だから、いつか新工場を建てるときは、「このシャッターの奥ではどんなことをしているんだろう?」――そんなふうに、身を乗り出して中をのぞきたくなるような、おもちゃ箱のようなわくわくする工場をつくりたいと思っていたんです。

浜野さん

デジタル・ファブリケーション施設の運営は、危機感と未来への責務から

――2014年4月には、ものづくりの基盤技術集積や異業種交流を目的とした「Garage Sumida」もオープンされています。町工場としてはかなり革新的な取り組みです。

浜野 全国にはFabLab(市民が有料でものづくりを体験できる実験的デジタル工房)のような施設が広がっていますよね。Garage Sumida にも、3Dプリンターやレーザーカッター、3Dスキャナー、CNC加工機といったデジタル工作機器を取りそろえていますが、私たちは決してFabLabを運営したいわけではありません。ここは、町工場と新しいものづくりをつなげる場としているのです。さまざまな人たちや情報が集まるところには、何かしらの新しいビジネスの枠組みや取り組みが生まれる可能性があります。「Garage Sumida」ハブとすることで、私たちでは対応できない技術や加工を、他の町工場にもつなげていき、大手企業やメーカーの系列の中でしかできなかった受注や販路をもっと広げていきたい。そうすればまだまだ町工場の存在意義はあると思っています。

――それをやらなければならない、墨田区の町工場としての危機感とは?

浜野 東京都内のものづくりといえば、大田区が有名ですが、墨田区も引けを取りません。工場の数でいえば、大田区、足立区に次ぐ3番目の多さです。しかし、高度経済成長期に9,800軒ほどあった墨田区の町工場も、今は約2,800軒に減少しています。さらに、1年ほど前に行われたヒアリング調査によれば、5年以内に廃業予定の町工場が500軒ほどあります。数年以内に最盛期の4分の1にまで減少する、というのが墨田区の町工場事情なのです。

私たちの会社も他人事ではありませんが、向こう3軒先の町工場がなくなってしまうことにも危機感を持っています。なぜなら、もともと私たち町工場の仕事というのは、どこかひとつの工場で完結するようなことが少ないからです。例えば、自社で金属加工をした後、近くのメッキ工場でメッキを施すなど、ものづくりには多様な技術が集積しています。

浜野さん

――減り続ける町工場全体を救うのがGarage Sumidaである、と。

浜野 はい。町工場がこのまま減り続けると考えたとき、ものづくりの基盤技術までなくなってしまえば、この先、どんなによいソフトウェアやアプリケーションが出てきても、ハードウェアに絡むものは、すべて海外製になってしまいます。

加えて、これまでは良くも悪くも、社長が得意先に出向いてその関係性の中で次の仕事を受注していましたが、今ではそれが成り立たない。例えば、ネジやボルトは、自動車だけに使われている部品ではありませんので、視野を広げれば、予想外の事業を開拓できる可能性があります。仕事が来るのを待つだけだったものが、こちらから新たな領域へ「私たちならさらにこんなことができます」と逆提案できるようになる。これは大きな進展です。

また、後継者育成の観点からも、こうしたハブがなければ「金属加工をやろう」とか「メッキ加工をやろう」とか、希望する若者がひとりもいなくなってしまう。先人、先代から受け継がれてきた技術を私たちがこの時代に使わせてもらっている以上、次の世代にバトンタッチしていく責務があると思います。

浜野さん

社会の課題を解決する技術的集団へ

――実際にデジタルものづくりを体験した職人さんたちの反応は?

浜野 初めて3Dプリンターを見た職人は、たいてい「こんなものが出てきたら、メシの食いっぱぐれだ」なんて思うわけです。たしかに、中には3Dプリンターでつくったほうがいいものはありますが、すべてがそうとは限りません。例えば、私たちが培ってきた技術と比べれば、3Dプリンターはまだ精度が粗いところがあるし、時間がかかってしまい量産向きではないだとか、得手不得手はやってみないとわからない。自分たちの技術を生かせる部分がある、ということは体験してみて初めてわかるのではないでしょうか。

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――Garage Sumidaでは、スタートアップの開発支援も行っているようですね。

浜野 もともとは、ものづくりの幅を広げることを考えて始めましたが、結果としてインキュベーション施設のような役割も担うようになりました。

例えば、Garage Sumidaに本社を置いている株式会社チャレナジー(2014年10月設立)は、新型風力発電機のメーカーです。代表の清水敦史さんは、東京大学大学院で環境学を専攻していた人物で、東日本大震災をきっかけに日本のエネルギーシフトについて考え始め、勤めていた大手の会社を辞めて一念発起しました。彼が「テックプラン・コンテスト」というビジネスプランのコンテストに出てきたことが縁で、審査員として参加した私と一緒にやっていくことになりました。

――具体的には、どのようなコラボレーションが?

浜野 彼は流体力学を専門としていますが金属加工や溶接といったものづくりのことがわからない。反対に私たちは、流体力学のことはわからないけれど、ものづくりのことなら教えられる。互いに不足している技術・ノウハウを補い合いながら協力していく形で、現在はほかにも5社の起業計画が進んでいます。彼らに共通しているのは、社会の課題を解決したいという思い。そこに浜野製作所の技術や設備を役立てられるならば、私たちもただの金属加工屋ではなく、世の中の問題を解決する技術的集団になれると思うんです。

浜野さん

墨田区で、新しい「ものづくり」にチャレンジし続ける

——「アウトオブキッザニアinすみだ」という、子どもたちへ向けた体験プログラムにも受け入れ企業として参加されています。

浜野 本物の工作機械を使って、1枚のステンレス板からパーツを切り出し、地元・墨田区のシンボルである高さ40センチの東京スカイツリーを作ってもらう、そんなプログラムを提供しています。子どもたちが職人のものづくりの世界に少しでも興味を持ってもらえたらうれしいですね。

——そのほかにも、浜野さんは産官学連携の電気自動車プロジェクト「HOKUSAI」、8,000メートルの深海を目指した深海探査艇「江戸っ子1号」プロジェクトなど、本業の金属加工とは異なるユニークな取り組みに参画されています。

浜野 基本的には、いずれも人材教育の一環です。実際に自分の目で見て、自分で手足を動かし、さまざまな業界・業種の人と一緒にものづくりをすると、金属加工の作業だけでは得られない発見や気づきがあります。それを吸収し応用することで、技術者は成長していきます。セミナーや座学での勉強は、受け身になりがちで、しばらくすると忘れてしまいやすいですから、どうせやるなら、私は一生心に残る人材教育をしたいんです。

浜野さん

浜野 人材教育の面ではもうひとつ、会社の情報は社員にできる限りオープンにするようにしています。よく中小企業の経営者が、「うちの社員は会社のことがよくわかっていない……」とぼやいていたりしますが、特定の仕事だけをしていれば、その仕事や部署のことしかわからないのも当然のことです。

一方で、経営者は会社の情報をすべて持っています。例えば、弊社は会社の経営状況をアルバイトやパートまで含めて、すべてのスタッフに1円単位で情報公開しています。そうすることにより、たとえ月次決算がマイナスであっても、それぞれの立場でなぜそうなったのかを探る力が養えるし、次にどのような行動をすればいいのかを考えるようになる。その環境をつくるのが、経営者のやるべきことだと考えています。

——一般論として、町工場をこれからも永続的に経営していくための課題は何でしょうか。

浜野 やはり、事業承継の問題が大きいのではないでしょうか。私の場合は父から会社を譲り受けましたが、今の時代は、親族間での事業承継が減りつつあります。

自社株の譲渡や、借入金の個人保証のことなどを考えると、社員や役員よりも、親族に事業承継するほうがやりやすいのですが、町工場経営者も人の親。子どもをきちんとした大学に入れ、安定性のある企業に就職してくれたら安心する、というのが本音です。これからは、やる気のある人へスムーズな第三者承継がしやすくなる、新たな枠組みが必要になると思います。

——最後に、浜野さんが墨田区で町工場を続けていくことの理由とは?

浜野 本来東京は、土地代も人件費も高く、その分、税金も課せられますから、日本で一番ものづくりに適していない場所といえるかもしれません。しかし、東京に工場があるからこそのものづくりが出来ると感じています。Garage Sumidaや新たなプロジェクトのように、東京には大学や専門機関、さまざまな分野の人材、そして情報が集積しています。そうした“東京ならでは”の資源やメリットを活用できるか否かを、大事にしたいと考えています。

でも、それ以上に、私たちが墨田区という場所でやり続ける理由は、経営理念につながっています。それは「『おもてなしの心』を常に持ってお客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と希望と誇りを持った活力ある企業を目指そう!」というもの。一度は火災に見舞われて倒産の危機に瀕したときも、お客様やスタッフ、そして地域に支えられた恩がある。そうである以上、いつまでも墨田区という地域で、新しいものづくりにチャレンジし続けたいですね。

TEXT:安田博勇

はまの・けいいち 浜野慶一 株式会社浜野製作所・代表取締役CEO

1962年、東京都墨田区生まれ。1985年、東海大学政治経済学部経営学科卒業。同年、東京都板橋区の精密板金加工メーカーに就職。1993年、株式会社浜野製作所代表取締役に就任、現在に至る。