実業家チャールズ・フリントにより、3社の合併でスタートを切ったC-T-R社。3社それぞれが持っていた事業を継承する形で企業経営が行われました。そんな中、1人の男がC-T-R社のメンバーに加わります。トーマス・ジョン・ワトソン・シニア――後にIBMの初代社長となる、辣腕のビジネスマンが、C-T-R社の事業部長として迎えられたのです。

凄腕セールスマンの誕生

アメリカ・ニューヨーク州イサカ近郊の田舎で、質素な少年時代を過ごしたワトソン。彼は10代でビジネスの世界に飛び込み、徐々に頭角を現しはじめます。最初に行ったのは、ピアノやミシンを馬車に乗せて街々を訪ねる訪問営業。「ものを売る」コツをここで体得したのでしょうか、20代になりナショナル・キャッシュ・レジスター(NCR)社に就職すると、その才能を遺憾なく発揮します。当初はセールスマンとして、そして10数年で重役へとのぼりつめ、営業部長に就任。後にIBMでも採用されたモットー「Think」は、この頃に生み出されたものだといいます。

ワトソンの執務デスク

NCR本社にあった、整理整頓の行き届いたワトソンの執務デスク

「われわれ全員が抱えている問題は、十分に考えようとしないことだ」、「知識は思考の結果であり、思考はビジネスの分野を問わず成功の基礎を成すものだ」。それがワトソンのモットーでもあったのです。企業人として飛躍の時を迎えていたワトソン。そんな彼を強力なリーダーとして迎えたのが、異業種企業の集合体のようであったC-T-R社。招聘されたワトソンは、この会社を変えるべく、ニューヨークへと旅立ちます。1914年、ワトソン40歳の時でした。

C-T-R社へ。そして「IBM」の礎を築く

C-T-R社の経営責任者となったワトソン。家族とともにニューヨークへ移り住んだ彼は、就任直後から多くの重要な決断を行います。転職の同年、1914年には、オーストラリアに事業所を開設。また、時を同じくして初の障がい者雇用も実施するなど、「国内に留まらない世界規模での課題解決」「ダイバーシティーの尊重」といった、現在のIBMにも受け継がれる価値観の原点となるような施策を、多く打ち出しました。翌年社長に選出されたワトソンは、国内の企業体制改革にも着手。 本拠地も異なる3社の合併体であり、統一感の弱かったC-T-R社。1つの目標を目指して社員一丸となる、という雰囲気を醸成するため、企業文化の構築・浸透を試みます。1916 年にはIBM教育プログラムを策定。もちろん同時に、制服や工場といったものへの投資も惜しまず、一流の社員が一流の道具を使い、一流の製品を作り出す、という文化を生み出したのでした。社名が変更されるのにはもう少し時間が必要ですが、この頃すでにグローバル企業としてのIBM誕生に向けた種は、確かに撒かれていたのです。

C-T-R社の垂直式分類機

アメリカ中のあらゆる職場に、C-T-R社の機械が導入されていきました