精神疾患は、なぜ起こるのか?いま、心を生み出す脳の謎を解き明かす

うつ病などの精神疾患や認知症は、今後、現代人が向き合っていかなければいけない病の一つだが、いったいどのようなメカニズムで発現するのか? その解明に取り組んでいるのが、慶應義塾大学医学部生理学教室教授/同大医学部長である岡野栄之先生だ。

世界各国でまさにリアルタイムで進んでいる、「脳の全容解明研究」の最前線に立つ岡野先生に、ヒトの心のありかについてお話を伺った。

神経基盤をひもとけば「心」が解明できるのか

――2010年度からの5年間、岡野先生率いる慶應義塾大学医学部チームは、理化学研究所、実験動物中央研究所(CIEA)との協働で、内閣府の「最先端研究開発支援プログラム」(FIRSTプログラム)として「心を生み出す神経基盤の遺伝学的解析の戦略的展開」に取り組まれました。この「心を生み出す神経基盤」とは、いったいどういう意味なのでしょうか?

岡野 昔から緊張したときに「心臓がドキドキする」と言っていたとおり、私たち人間は「心は心臓」にあると思っていました。これははるか昔、紀元前・ギリシア時代からのことです。一方、日本では「腹を割って話す」「腑に落ちない」など、心が「消化器系」にあるとも考えられていました。いずれにせよ、脳の神経系の機能が作用して、心臓をドキドキさせたり、消化器系の調子を変えたりしていることは、少なくとも20世紀以降、多くのエビデンスから、もはや疑いようもなくなっています。

そもそもヒトの大脳皮質には約1,000億個もの神経細胞があり、それら神経細胞をつなぐようにして神経回路が形成されています。では、これらの回路がどのように作用することで「心」を生み出しているのか? それを探るのが、2010年に始まった「FIRSTプログラム」でした。

具体的には、遺伝子改変技術により、ヒトの精神疾患とよく似た症状を示す生物モデルをつくり、病気の治療法や薬の開発に役立てていこうという研究です。多くの病気は遺伝と環境によって起こりますが、これまでにも行われてきた環境誘導型の生物モデルに加え、特定の精神疾患を引き起こす遺伝子を利用した遺伝子改変型の霊長類の生物モデルを導入することで、精神疾患の発現モデルを解明して行ける可能性が出て参りました。

今の研究の道を定めた3つの出会い

岡野先生

――FIRSTプログラムに行き着くまで、岡野先生ご自身はどういった経緯を経てこられたのでしょうか?

岡野 私は学生時代は、慶應義塾大学医学部で、がん遺伝子の研究をしていました。しかし私が学生の時代——1970年代後半〜80年代前半——は、まだがん遺伝子の実態解明は進んでいませんでした。研究自体とても難しいもので、ちょうど医学部を卒業する頃、アメリカMIT(マサチューセッツ工科大学)のグループに、がん遺伝子に関する先進的な論文を華々しく発表されてしまった……。

私の胸に去来したのは「この研究分野では、もうかなわないな」という気持ちでした。そうして別の研究分野を考えていくなか、分子神経生物学と出合ったんです。脳神経の分子レベルでの研究は、当時とても神秘的なもので、まだ何も解明されていない状況でした。やり始めれば何をやっても新しい発見と研究成果の連続で、やがてこの研究領域にのめり込んでいったわけです。

――大学卒業後しばらくたった1989年には、アメリカに留学されていますね。

岡野 ジョンス・ホプキンス大学医学部生物化学教室に留学しました。この留学中、研究員として主にショウジョウバエの研究に携わり「Musashi遺伝子」という遺伝子を発見しています。このショウジョウバエの神経系の異常に関係する遺伝子のことで、後にMusashi遺伝子はマウスやヒト(成人)の神経幹細胞にもあることが明らかになります。

ここで重要なのは、生物の神経系解明にあたり、ショウジョウバエからヒトに至るまで、一定のメカニズムがありそうだとわかったということ。私は1998年頃から神経幹細胞を使った神経回路の研究を始めようと思い立ち、遺伝学的な手法として遺伝子操作技術に注力することとなったんです。

米国・欧州・日本で進む、世界三大「脳全容解明プロジェクト」

――2014年からは、国家プロジェクト「革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明プロジェクト」、通称「Brain/MINDS」(ブレイン・マインズ)がスタートしました。

岡野先生

岡野 2010年にスタートした「FIRSTプログラム」は2014年3月末までに終了しましたが、ここで一定の成果を生み出せたことで、脳科学研究の分野でもヒトの高次の精神活動と脳機能解明の潮流をつくれたのではないか、と自負しています。

――同プロジェクトホームページには、次のように目的が掲げられています。

“神経細胞がどのように神経回路を形成し、どのように情報処理を行うことによって、全体性の高い脳の機能を実現しているかについて、我が国が強みを持つ技術を生かして、その全容を明らかにし、精神・神経疾患の克服につながるヒトの高次脳機能の解明のための基盤を構築することを目的として実施します。”(Brain/MINDSホームページより引用)

岡野教授はFIRSTプログラム終了後、Brain/MINDS発足段階から携ってこられ、Brain/MINDSのプロジェクトリーダー、そして「霊長類の脳構造・機能マップの作成」の代表機関として参加されています。脳の全容解明が国家プロジェクトとして注目されていることのポイントを、岡野先生はどのように分析されますか?

岡野 日本だけでなく、欧米でも認知症や精神疾患は、なかなか治らない病気だとされています。それは、脳の基本的構造や神経回路が、ずっと解明されてこなかったからです。

アメリカでは2013年オバマ大統領主導のもと、「BRAIN Initiative」(ブレイン・イニシアティブ)がスタートしていますし、欧州でもEU主導で「Human Brain Project」(ヒューマン・ブレイン・プロジェクト)が始まっています。どちらも多額の研究資金をつぎ込んだ大規模なプロジェクトです。これから中国などのアジア圏でも研究が活発になっていくでしょうし、日本も他国に後れを取るわけにはいきません。

そうした背景から、Brain/MINDSは始動しました。私も米国・BRAIN Initiativeのミーティングに招かれることがありますが、Brain/MINDSは他国からかなり高い評価を得ていて、BRAIN Initiative、Human Brain Project、そしてBrain/MINDSの三大プロジェクトは、これから世界レベルで注目を集めていくでしょう。

現代人の脳は、新しいからこそ“脆弱”である

岡野先生

――これまでの研究により「心はどこにあるのか?」という問いに対し、どこまで答えられるようになってきているのでしょうか?

岡野 脳の神経回路から、高次脳機能が生み出され、時として心が乱れ、病を発現する——。それは、霊長類の脳の進化に関係しています。少なくとも霊長類と齧歯類を比較したとき、特に霊長類で発達しているのは脳の「前頭前野」という部分。前頭前野は生物の進化で見れば“とても新しい部分”であり、ここが高次の脳機能をつかさどっています。しかし前頭前野は進化的に新しいがゆえ、まだまだ未完成で脆弱なんです。そこに、精神疾患などの病気の本質があると考えられます。

――ヒトの脳は、新しいからこそ「脆弱」である、と。

岡野 それによって引き起こされる病気は、精神疾患のみならず、さまざまです。最たるものが、高齢になって発現する認知症ですね。

そもそもヒトとチンパンジーの進化が分かれたのは、今から700万年前のこと。チンパンジーの寿命はだいたい20年くらいで、何百年か前まで、私たち人間の平均寿命もそれとたいして変わりがありませんでした。戦後日本人の平均寿命だって、せいぜい50歳くらいでしたが、それが今や85歳くらいまで延びています。

700万年の間、チンパンジーと変わらなかった寿命が、ここ70年間で35歳も延びている——人類の進化には今、そんなちょっと“異様なこと”が起こっています。となれば、私たちは年を取ってから初めて起こるさまざまな病気と、きちんと向き合わなければならなくなってきています。そこに私たちの研究の意義があります。現在はパーキンソン病や自閉症の発症のメカニズムが解明されつつあるほか、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、アルツハイマー、統合失調症、認知症などの発症メカニズムを見つけようとしています。

このような取り組みを通じて、脳の構造や機能、発現モデルを理解することで、認知症やうつ病などの精神疾患の予防や治療に貢献できると考えています。

その領域が“牧歌的”なうちに、まっしぐらにやり遂げる

――岡野先生は、慶應義塾大学が配信する「若者へのメッセージ」の動画の中で、「課題を自分で見つけることが大事」だと発言されていましたね。先生のご経歴や研究内容も、まさに自分で課題を見つけたことによるもの。学生に限らず、これからの時代を生きる多くの社会人にも届いてほしい言葉です。

岡野先生

岡野 あまり人がやっていなさそうなことを見つけ、その領域がまだ牧歌的なうちに、まっしぐらにやり遂げる。それが私のポリシーです。もしそれがその後、流行の領域になったとしても、その頃にはほかの人が追従できないようなところにたどり着いているはずです。

――Brain/MINDSに至る経緯は、まさにその言葉どおりですよね。

岡野 再生医学の専門研究にも従事していますが、常に新しいネタを見つけようと思っています。

慶應の学生も、あんまり勉強しない奴は「わかったつもり」になって試験前になってもたいして勉強しない(笑)。反対に「わかっていない」という自覚があれば、不安で勉強をやり続けるんです。わかったつもりにならないことが、何事においても大切だと思います。

TEXT:安田博勇

岡野栄之

慶應義塾大学医学部卒業。医学博士。 慶應義塾大学医学部助手、大阪大学蛋白質研究所助手、米国ジョンズホプキンス大学医学部研究員、東京大学医科学研究所助手、筑波大学基礎医学系教授、大阪大学医学部教授を経て2001年より慶應義塾大学医学部教授(現職)、2007年より2015年まで慶應義塾大学大学院医学研究科委員長、2015年より慶應義塾大学医学部長(現職)。