新政酒造・佐藤祐輔が描く10年、100年先を見据えた日本酒の未来

今や日本酒は、各地の銘酒を揃えた飲食店が増加し、かつて敬遠していた若者や女性も加わり愛好家も急増中。人気銘柄は常に品切れ状態となり、「吟醸酒」「純米酒」などの総称である「特定名称酒」の出荷量も、ここ数年は増加傾向。日本酒新時代の到来、と言っても過言ではないだろう。

そのムーブメントの先駆者として必ず名前が挙がるのが、秋田県の酒蔵・新政酒造代表取締役の佐藤祐輔氏だ。彼は従来の日本酒とは一線を画す、革新的な品々を世に送り出し続けている。新政酒造の日本酒は愛好家を中心に話題となっており、今や発売と同時に完売、入手困難な状態が続く。

そんな自身を取り巻く日本酒人気をよそに、彼は10年、さらには100年後まで見据えた、未来の日本酒のあるべき形を実現すべく、農業、さらには地域づくりにまで着手し始めていた。

マーケティングはやったことがない

――ここ数年、若者や女性を中心に、日本酒がブームです。なかでも新政は圧倒的な人気を誇りますが、このブームをどう捉えますか?

佐藤 一部メディアが熱心に取り上げてくれているため、そのような印象が強いのかもしれませんが、実際はそれほど飲まれていないと思います。出荷数などから見れば、今人気があると言われている「吟醸酒」「純米酒」と呼ばれる「特定名称酒」の出荷数は増加傾向にありますが、日本酒全体としてはなんとか横ばいを維持している状態です。私が日本酒に関心を持ち始めたのは2005年頃でしたが、当時の日本酒業界は壊滅的な状態でした。一方で、本格焼酎と呼ばれる、鹿児島、宮崎などの芋焼酎がブームと言われていました。実際、焼酎の質は向上し、それまで飲まれていたウイスキーなどの代わりになりうる、洗練されたお酒のひとつとして受け入れられました。佐藤さん

――その焼酎人気と入れ替わる形で、日本酒ブームが盛り上がったように思えます。

佐藤 私は日本酒と焼酎の人気は根本的に違うと思います。焼酎はかつてかなり流行った時には、すべてではないにせよ、高級銘柄を富裕層がステータスで購入している傾向がありました。一方、日本酒の特に地酒はいわゆる“熱心なファン”の人が、お金をコツコツ貯めて高級銘柄を買ったりする。日本酒は「趣味」的なところが強く出る飲み物のような気がします。もしかして地酒のコアなファン層は、プロレスまたは漫画とかアニメなんかのファン層と似ているかもしれません。自分自身も、コレクター癖があるし、夢中になるタイプなので、そういう人間に近いと思っています。似ているから、日本酒の“熱心なファン”と会えば“匂い”ですぐにわかります。そしてそういう人は、とてもよく勉強するので、理解が深く、対象のジャンルを一度好きになれば10年経っても離れません。

今は“熱心なファン”つまり、ややマニアックなファンと呼ばれる人以外にも飲まれていると思いますし、そのような広い層に飲んでもらえるチャンスがあるのはいいことですが、新政としてはまさに“マニアックなファン”にこそ、継続して飲み続けてもらえる状況を作っていきたいです。なぜなら“私自身がやりたいこと”をやりたいからです。今までも趣味丸出しで、日本酒造りをし続けてきましたし、マーケティングなんてやったことがありません。しかし、そういったやり方が20年、50年、もしかして100年という長いスパンで見たときに、業界を支えることになると思っています。

自分が“マニアックな人”だから、“マニアックなファン”に受け入れられる

――佐藤さんが「趣味丸出し」で取り組んできたことは、日本酒造りそのものはもちろん、ラベルのデザインやネーミングにいたるまで、それまでの日本酒業界の常識を覆す、革新的なものが多いです。そうした点も、“マニアック”な人たちに支持されている要因だと思えます。

佐藤 私が入社してから9年間で、焼酎の製造で用いる「白麹」を使ってみたり、仕込みの際に水の代わりに日本酒を使う「貴醸酒」、ほとんど磨いていない低精米の酒などを復活させたりしてきました。また、当蔵が発祥蔵である「6号酵母」にちなんだ「ナンバーシックス」というネーミングや、「6」を強調したラベルなども発表当時は賛否両論でした。もしかして、これまでの酒蔵ではあまり見られなかったものかもしれませんが、私自身が日本酒の“マニアックなファン”として、やりたかったことをしただけです。同じような傾向の人たちに響くことを、自然にやっただけであり、そんなに変わったことをしているという意識はありません。

新政酒造の唯一の定番生酒「No.6」

新政酒造の唯一の定番生酒「No.6」

――地元秋田では、ご自身を含めた日本酒の若手醸造家5名で「NEXT5」というユニットを結成し、毎年発表される銘柄は高い人気を誇っていますが、その目的を教えてください。

佐藤 「NEXT5」は、今やブランドユニットのように思われるかもしれませんが、はじめは潰れかけの蔵の集まりでした。そもそもの目的は、私と同様に酒蔵を継いだ若手蔵元たちと、酒造りの技術向上を図るために交流をしていただけの集団です。のちに、東京の試飲会などに出るためには名前をつけたほうがいいと考え、「NEXT5」という名称をつけたのが始まりです。今でも技術交流をしながら切磋琢磨しています。「NEXT5」から実験的に発表している銘柄は、出荷量が少ないこともあり、特に熱心な日本酒ファンの人たちに受け入れられているんでしょう。

――その一方、酒米を県内産に変更し、すべての酒を、酒米と麹、米だけの「純米酒」に移行。また、江戸時代の製法「生酛づくり」を復活させたり、熟成タンクに古来の杉桶を用いたりと、数々の原点回帰とも言える取り組みも行ってきました。

佐藤 それらも当初から思い描いていた「やりたいこと」でした。自分の中ではむしろ当たり前のことだと思っています。戦後の食糧難の時代から、高度経済成長期にかけて、米と麹、水以外のものを使用した手法が、今の日本酒造りのスタンダードと捉えられており、それ自体は一定の評価はできます。しかし、それはともするとお客様に日本酒造りが「食品加工業」的なイメージを植え付けてしまったかもしれません。私は日本酒造りを「伝統文化」として捉えているため、現在の新政の取り組みは、当然の方向性だと思っています。

佐藤さん

伝統産業でもクリエイティブに仕事ができる

――過去のインタビュー等で、日本酒造りの仕事をする気持ちはなかったとお答えになっていますが、なぜでしょうか?

佐藤 私が代表を務める「新政酒造株式会社」は、嘉永5(1852)年に創業したそこそこ歴史ある酒蔵で、私はその長男として生まれました。しかし、会社を継ぐ気は全くなく、日本酒も30歳を過ぎるまで飲まなかった。元々人からこうしろと言われることが嫌でしたので、後を継ぐことなどをハナから否定していました。今年、「異端教祖株式会社」という実験酒を発表しましたが(ポーランドの作家ギヨーム・アポリネールの作品をオマージュして命名した未発売酒)、このような名前をつけることができる業界だとは、当時は思ってもいませんでした。今振り返ると、日本酒という「伝統文化」を勘違いしていました。昔から続くやり方を守り、クリエイティブなことはまったくできない、そんなステレオタイプな考え方に縛られていました。

――その考え方が、どんなきっかけで変わったのですか?

佐藤 まず、2005年に静岡の「磯自慢」と出会ったことで日本酒に魅了され、全国の日本酒を買い始めました。いわば“マニアックなファン”あるいは”コレクター”になったわけです。その後、愛知の「醸し人九平次」という銘柄との出会いが、私の日本酒へのイメージを決定的に一変させました。「磯自慢」からは日本酒という概念を超えたものを感じ、芸術的な味に感動しました。「醸し人九平次」には、新しいものを作るという明確なパワーを感じた。これらのお酒との出会いから、この業界でも自由にやることは可能なんだなと思えました。ちなみに「磯自慢」を初めて飲んだのは、当時の仕事だった、ジャーナリスト同士の飲み会の場です。ジャーナリストの仕事は本当に面白かった。将来、このまま物書きをしてもいいと思っていました。

――どのようなテーマの取材、執筆をしていたんですか?

佐藤 さまざまな社会問題に対して、批判的な視点で取材し、執筆していましたが、魅力的な日本酒との出会いをきっかけに、いい意味で批判的な目線で日本酒をテーマで執筆をするのも面白いと思い始めました。日本酒の世界には、ワインのジャーナリズムに見られるような辛辣で社会的な視点がそんなに存在しなかったからです。ただそれは理由があるのを後で理解しました。そもそもこの業界は、そうした視点を受け入れられるほどの体力がない、厳しい状況にあったのです。あと、酒蔵の息子であることが、仕事にも生きるんじゃないかという打算もありました。そのためにも、日本酒の勉強をしようと思い、2007年に東京・滝野川にあった醸造試験場(現在は広島の「酒類総合研究所」に統合された、日本酒の研究機関)の研修があるということで応募して、受け入れてもらいました。でも……正直、先走ったと、今でも後悔しています。

佐藤さん

10年前にはプランが完成し、それを実行しているだけ

――先走ったというのは、具体的にどういうことですか?

佐藤 日本酒についての知識と経験、何より意識が全く追いついていませんでした。当時は、ジャーナリストとしてかなりハードに仕事をしていて、しかもかなり「攻め」の姿勢を貫いていましたので、執筆には慎重さ、緻密さを求められ、時間も手間もかかった。その仕事をしつつ醸造試験場に通っていたので、徹夜で原稿は書き上げつつ授業中は寝て、ずる休みをするような完全な落第生でした。本当に恥ずかしいです。

――今の佐藤さんからは、想像できません。

佐藤 ただ、そのような状況の中でも勉強を続けていくと、私の曽祖父が教科書に出てきたり、現在当蔵が全商品で使用している「6号酵母」が、現存最古の協会酵母(酒造りに適した酵母を培養し、全国の酒蔵で使用できるようにしたもの)であったり、それが実家の酒蔵から生まれたという価値が、どれほど価値のあるものなのかわかってきた。そうすると、この蔵を潰してしまったらいけない、という使命感のようなものが出てきました。

――その頃には後を継ぐ意識はかなり強まっていたということでしょうか?

佐藤 1カ月半の研修を終えた後、ジャーナリストの仕事を大幅に減らし、酒造りを本気で学ぼうと思いました。研修直後には、広島の研究所でさらに勉強できるチャンスがあり、応募しました。広島では、東京の頃とは真逆で、死ぬほど勉強をしました。寝袋を持参して図書館にこもり、先生からは「お前やりすぎだから、あまり根を詰めるな」と言われるほどでした。そうして勉強するうちに、戦後確立された日本酒の造り方の全容と、その課題が見えてきました。そして、自分がやるならできるだけピュアな酒造りを目指そう、と思うようになりました。

――それが、今の酒造りの土台となっているわけですね。

佐藤 その頃には、今、新政でやっていることのほとんどのプランを描いていました。私がやっていることはスピードが速いと言われますが、その当時のプランに従って、実現しているだけです。

新政酒造の蔵の内部には、新たに取り入れた熟成のための杉桶が並ぶ

新政酒造の蔵の内部には、新たに取り入れた熟成のための杉桶が並ぶ

新政酒造の酒造りの「原点回帰」の象徴のひとつ、江戸時代から伝わる「生酛づくり」によってつくられた、日本酒の核ともいえる「酒母」の表面

新政酒造の酒造りの「原点回帰」の象徴のひとつ、江戸時代から伝わる「生酛づくり」によってつくられた、日本酒の核ともいえる「酒母」の表面

売れるからこそ、好きなことができる

――その後の2007年、新政酒造に入社したわけですが、実家の酒蔵とはいえ、いきなりご自身のやりたいようにできなかったのでは?

佐藤 私が蔵に入った時には、かなり売り上げが落ちていたので、それを挽回するためにも、新しい取り組みが必要でした。ただ、両親も含め、私がやろうとしていた酒造りは、訳がわからなかったと思います。そのため最初は自分と新たに雇った若い蔵人たちで、ごく一部の新銘柄の酒造りから始めました。今は私の作りたいお酒以外は、新政のラインナップにはありません(笑)。

――どのような取り組みをして、全てを自分のやりたい酒造りに舵を切ることができたのですか?

佐藤 やはり、売れたからこそです。自分が造りたい日本酒をつくれる環境にするためには、その日本酒が売れなければ話になりません。当然ながら、最初から売れたわけではありません。まずは地元秋田の酒販店から回りましたが、数軒をのぞいて、まったく相手にされませんでした。ところが秋田の酒屋のアドバイスで、東京の地酒専門店に持って行ったら、やたら褒めていただいた。そのうち、私が目指す日本酒の価値を深く理解して、目をかけてくれる酒販店や飲食店が出てきました。そうして徐々に販売が増えていき、新政を愛してくれる方が増えていったんだと思います。

一方で、技術が向上したことも影響していると思います。最初は技術が未熟だったので失敗の連続でした。そのなかでも研究を続け、技術を磨くことで、時間とともに成長し、周囲も評価してくれるようになったと思います。ただ、つい2〜3年まで、寝る暇もないほどで、やたら細かく酒造りの指示を出したり、デザインに延々と時間をかけたり、そして営業トップとしてそれを売ることまでやっていました。結果がついてこなければ、経費もかけられませんが、おかげで今は売り上げも安定し、人にも投資できるようになりました。人材も育ってきていますので、人に任せられる状況ができてきました。

もともと私は杜氏ではない。能力的にもプロデューサータイプで、ディレクターではない。完全にアイディア先行型の起業家タイプです。現場の細かな仕事は、若くて有能なNO.2、NO.3がいたおかげで回ってたんですね。今は、さらに有能な人材も増え、私もやっと腰を据えて会社のコンセプトを具現化することに時間をかけられるようになりました。

「酒母」が作られる部屋の中で、「生酛づくり」について語る佐藤さん。細やかな温度管理の重要性を熱心に語る姿から、「生酛づくり」の繊細さが伺える

「酒母」が作られる部屋の中で、「生酛づくり」について語る佐藤さん。細やかな温度管理の重要性を熱心に語る姿から、「生酛づくり」の繊細さが伺える

――ベンチャー企業のスタートアップを見ているようです。

佐藤 個人商店的にやってきたからこそ“マニアックなファン”に愛されるのだと思っています。個人商店的だからこそ、自分好みの商品が作れるわけです。自分自身が好きなものでなければ、寝る時間を削って日本酒を作り、全国各地を飛び回って酒の啓蒙活動をするようなことはできません。もしも、そこであまりにも利益重視の企業的な要素が出てくると、途端にお客様にも醒めて見られるのだろうと思います。私は一人の“マニアックなファン”として、対象の企業にそういう部分が見てとれると醒めます。経営ですから、もちろんビジネス的な要素は必要ですが、あくまでもそれは必要最低限でいい。

――新政のそうした取り組みが形となり、市場に受け入れられたからこそ、今の日本酒ブームが作られていったように思えます。

佐藤 これからは我々のみならず、我々が尊敬する先駆者の蔵々が取り組んでいるような、ピュアな日本酒が求められると考えています。ここ20年以上の地酒人気の本流ともいえる旨味あふれる「吟醸酒」のスタイルは、山形の「十四代」を作る高木酒造さんが作りました。それをさらに特化した形で、「純米大吟醸」だけしか作らないという宣言のもとで「獺祭」の製造元である山口の旭酒造さんがたいへんな人気を博すようになりました。そして今後、日本酒の発展のために求められるのは、より信頼できる、ピュアな原料と作り方ではないかと思います。今、全量が「純米」「生酛」の蔵は、当蔵を含めて全国に3〜4つしかありませんが、今後はそういう蔵がどんどん増えてくるのではないでしょうか。

酒蔵だからこそ、自然を守るべき

――現在、佐藤さんは日本酒造りだけでなく、自社での酒米作りも始められています。どのような取り組みでしょうか?

佐藤 今までは使用する酒米のほとんどを、秋田県内の契約農家に作ってもらってきましたが、本年度から秋田市東方の山間部にある「鵜養(うやしない)」という地域に約二町歩(約2万㎡)の田んぼを借りました。また、昨年、農業生産法人「新政農産株式会社」をつくりました。今年はまだ実験的段階ですが、来年から本格的に無農薬の酒米栽培に取り組み始めたいです。今、役員が1名「鵜養」に半ば移住しするような形で、稲作を行っています。周辺の農家の方々の協力のもと、着実に準備は進んでいます。無農薬栽培の実現には、少々時間がかかると思いますが達成したいと思います。

酒蔵だからこそ、自然を守るべき

酒蔵だからこそ、自然を守るべき

――「鵜養」を実際に案内していただきましたが、まさに絵に描いたような、日本の美しい田園風景が凝縮したような地域です。特に美しく豊富な水が印象的でしたが、酒造りにおける「水」についてお聞かせください。

佐藤 私は米作りで最も大切なのは水だと考えています。夏場に冷たい水が豊富にあることで、米の味は格段に良くなります。その環境が残っている「鵜養」は、米作りには最適な場所です。さらに、この地域の上流に人は暮らしていないため、他の田んぼからの残留農薬の心配もない。まさに無農薬米を作るために適した場所なのです。その米で日本酒を製造する環境も、「鵜養」に設ける予定です。

できればいずれ、ここに小さな新しい酒蔵を建てたいのです。また、山林の管理も重要な仕事になってくるでしょう。我々も林業も行って、景観を守るを仕事したいと考えています。その過程で、日本酒を仕込むための杉桶製造もできるはずです。日本酒をつくるために必要なものを、この「鵜養」に全て詰め込んでみたいと思っています。

佐藤さん

酒造りの原料である酒米の苗が育てられているビニールハウス内にて。新政酒造は昨年から秋田市の「鵜養」地区で自ら酒米づくりを開始し、将来は無農薬栽培を目指す

酒造りの原料である酒米の苗が育てられているビニールハウス内にて。新政酒造は昨年から秋田市の「鵜養」地区で自ら酒米づくりを開始し、将来は無農薬栽培を目指す

――「鵜養」に対する思い入れの強さを感じます。

佐藤 実は2年ほど前、あまりの激務で体調を崩したんですが、その時に療養したのがこの「鵜養」でした。長い年月によって育まれた素晴らしい自然が、心身の疲労を癒やしてくれました。その場所が今、「限界集落」になっていて、耕作放棄地も少なくなく、このままだとこの環境が維持できなくなるかもしれない。それを残すことに貢献できるなら、それが自分の使命だと思いました。正直に言えば、昔は秋田県自体、田舎だからという理由で嫌でたまらなかった。

でも、田舎を嫌いな人間こそ、田舎者なんですね。私はこの年齢になって、自然の素晴らしさがわかるようになり、日本酒造りを通しながら、失われつつある自然を維持できないかと考えるようになりました。逆に、日本酒蔵は、こうした環境に支えられながら成り立っている。日本酒蔵だからこそ、この環境を守る義務があるとも考えています。

味だけで評価する時代は、いずれ終わる。

――すでに日本酒造りを超えて、農業、地域づくりまで見据えた日本酒の形を模索し始めているわけですが、これから作ってみたい日本酒のイメージはありますか?

佐藤 もっとコストをかけて、純粋に自分が目指す酒造りを追い求めたいのですが、それだと価格が上がりすぎて市場に受け入れられないので、バランスを見極めながら、自分の目指す日本酒を作っていく、という段階です。ただ、こういう感覚を相談できる方はだんだん増えてきています。目指すべき感覚を持つ人もいます。

ワイン醸造家の岡本英史さん(山梨県北杜市。何も加えず、何もしない「自然醸造」で作り出すワイナリー「ボーペイサージュ」オーナー)もそうですし、フレンチレストラン「レフェルヴェソンス」(麻布十番)シェフの生江史伸さんにも影響を受けています。共通するのは、まず哲学が最初にあり、トレンドではなく、世の中に対してどう影響を与えているか、そのなかで何を大事にしながら仕事をすべきかを、常に考え、酒や食と向き合っている。そういう人は、どんなジャンルでもいい仕事をすると思います。

――生江シェフは、IBMのAI「Watson」が考案したレシピを実際に調理するコラボレーションなど、新しいことへも積極的に挑戦される方ですね。では、同業種ではどなたかいらっしゃいますか?

佐藤 「五人娘」をつくっている、千葉の寺田本家さんです。環境を考えたピュアな酒造りを徹底していて、本当にすばらしいと思います。ちなみに先に挙げた全量が純米、生酛造りの酒蔵は、寺田本家さんこそが元祖です。また、広島の「竹鶴」の杜氏の石川達也さんも優れた哲学者で、よく意見を交換し合います。

――お酒の味としては、新政酒造と寺田本家は対照的な印象もあり、意外でした。

佐藤 それこそが、日本酒の面白さだと思います。同じ製法、同じ米という原料を用いても、地域によって米という原料が変化することで、完成するものの味に違いが出てくる。それは上下ではなく、違いそのものに価値があると思います。しかし、100年後も残っている酒は、単においしいだけではなく、おいしさを通じて、様々な社会問題のためコミットしてゆけるものではないかと思っています。そういう点があればこそ、より深い感動を与えられたり、社会に必要な仕事と認められてゆくと信じています。

――その酒蔵の目指す未来も含めて理解すると、また味わいの印象も変わってきそうです。

佐藤 いかなる倫理観も問われずに単に味が良ければいい、という時代はいずれ終わると思います。どんなものを使っても、おいしいものが一番、というのはちょっと表面的すぎる気がします。これからの時代ではありえない。特に私たちがやっているのは、日本酒という「伝統文化」であって、単なる「食品加工業」ではない。しかし、新政は、それを伝えるためにこそ、おいしくかつ個性的な味の酒としては、どこにもひけをとらない存在でありたいと思っています。

TEXT:種藤 潤

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佐藤祐輔 さとう・ゆうすけ

1974年、秋田県秋田市の嘉永5(1852)年創業の酒蔵・新政酒造の長男として生まれる。東京大学卒業後、多様な職業を経て、フリーランスのジャーナリストとして執筆活動を行う。2005年、静岡「磯自慢」の味に魅了され、以来、日本酒に傾倒。酒類総合研究所で酒造りを本格的に学び、2008年新政酒造株式会社に入社。味だけでなくラベルデザイン、ネーミングなど、従来の日本酒と一線を画す創造的かつ実験的な日本酒を作り出してきた。2010年には地元秋田の酒蔵の若手醸造家5人で「NEXT5」を結成し、オリジナル商品の製造やイベント企画出店など、精力的に活動。2012年、同社代表取締役に就任。「自分好みの酒」を追求するにとどまらず、自社田運営もはじめ、日本酒による地域づくりにも着手している。
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