「私こそがマイノリティー」という自覚――デフバレーボール女子日本代表・狩野美雪監督インタビュー

提供:日本デフバレーボール協会(トップ画像)

「デフリンピック」――耳慣れない言葉かもしれないが、聴覚に障がいがある人(deaf=デフ)が集まり、4年に1度開かれるスポーツの国際大会だ。障がい者のスポーツ大会といえば、2020年に東京で開催を控えていることもあり、腕や足に欠損がある人や視覚・知的に障がいがある人が参加するパラリンピックが思い浮かぶ。それに比べ、デフリンピックはまだまだ知名度が低い。

だが、パラリンピックの第1回大会が開かれたのが1960年なのに対し、デフリンピックは1924年。デフリンピックのほうが歴史は長い。2017年7月にトルコで開催されたデフリンピックには、97の国・地域から約3000人の選手が参加した。日本は21競技中、11競技にエントリーし、過去最多の27個のメダルを獲得。なかでも、女子バレーボールチームは1セットも落とさずに勝ち抜いた「完全優勝」で7連勝し、金メダルを獲得した。

チームを率いたのは、狩野美雪監督。八王子実践高校、久光製薬スプリングスと強豪チームでプレーし、北京五輪では全日本女子チームに選ばれたトッププレーヤーだ。国内でも海外でも、かつてのトッププレーヤーがデフスポーツの監督になるケースは珍しいという。デフバレーボールと出合ったきっかけや、指導法、今後への思いなどを狩野氏に聞いた。

狩野さん

急逝した後輩の「遺志」を継いで

——トルコのデフリンピックでは見事な完全優勝でした。おめでとうございます。

狩野 ありがとうございます。ホッとしています。優勝直後は信じられない思いでした。大会前、周りの人には「目標は金メダル」と公言していましたが、本音では「ベスト4からの戦いは楽ではない」と思っていました。

トルコで行われたデフリンピック表彰式で金メダルを獲得した全日本女子チーム

トルコで行われたデフリンピック表彰式で金メダルを獲得した全日本女子チーム
提供:日本デフバレーボール協会

——試合中、選手たちにどんな指示を出していたのですか?

狩野 実は、試合中に指示を出すのは難しいのです。指示を出したいと思って選手に声を掛けても、耳が聞こえないわけですから、なかなか気づいてもらえない。気配を感じてくれて、仮に目が合ったとしても、手話では伝えられる情報が少なくて……。

タイムアウトをとって戦略を伝えようとしても、時間切れになってしまうこともあります。リアルタイムに伝えることが難しいので、戦略は基本的に「こういうボールには、全員がこう動く」といったルールを事前に決めておいて、それを守っていくことになります。だから、今回の優勝は正真正銘、選手たち自身が試合の中でつかみ取った結果だと思います。

試合中のタイムアウトでは、監督の指示は手話通訳により選手たちに伝えられる

試合中のタイムアウトでは、監督の指示は手話通訳により選手たちに伝えられる
提供:日本デフバレーボール協会

——狩野さんは、全日本にも選ばれるトッププレーヤーでした。バレーボールのトップリーグ「V・プレミアリーグ」の常連優勝候補である久光製薬スプリングスから、全日本に選出。2008年の北京五輪に出場し、10年にはデンマークのリーグに挑戦、退団後にデフバレーボールの女子代表チーム監督に就任しました。それまで、デフバレーのことは知っていたのですか?

狩野 母校の東京学芸大学バレーボール部で、1年後輩だった男性がデフバレーボールの監督をしていたので、言葉としては知っていました。ですが、初めてゲームを観たのは2011年6月です。デンマークから帰ってきて現役を引退することを決めた時期でもありました。その男性から「コーチをお願いしたいから、一度観に来てほしい」と言われて、東京都内の体育館で初めてデフバレーボールを観ました。

——その初観戦の3カ月後に監督に就任しています。急な話でしたね。

狩野 その男性が7月に、病気で亡くなってしまったのです。亡くなる直前には「手伝ってほしい」と言われていました。でも、私は現役を退き、結婚が決まった直後(夫は、女子バレーボール全日本チームの元コーチ、川北元氏。現在はデンソー女子バレーボール部監督)だったので、「無理です」とお断りました。

でも、その後も周囲から監督になってほしいと頼まれて、結果的に彼の遺志を継ぐべきではないかと思うようになりました。夫が「サポートするよ」と言ってくれたことも、背中を押してくれました。

私こそがマイノリティーと自覚した

——いくらトッププレーヤーだったとはいえ、指導経験がなかったうえに、選手たちは聴覚障がい者です。監督として指導するには苦労も多かったのでは?

狩野 そうですね。私が監督として初めて選手たちの前に立ったのは、2011年10月のこと。静岡県内の体育館であいさつしましたが、何を言ったのかは覚えていません。

——緊張していたのですか?

狩野 それもあるかもしれませんが、それ以上に記憶に残っている出来事があったからだと思います。私は監督として指導するにあたって、事前に練習メニューを厳密に決めていました。でも、実際には計画していたメニューのほとんどがこなせない状況でした。自分の思い描くレベルと、現実のレベルが違うことを知りました。その日から、選手たちにどう受け入れてもらえるかを考えるようになりました。

——受け入れてもらうためにどんなことをしましたか?

狩野 まず、「この中で、私はマイノリティーなのだ」と自覚しました。選手たちが聴覚障がい者なのはもちろん、日本デフバレーボール協会のスタッフもほとんどが聴覚障がい者で、日々の運営をしているわけですから。

——現実だとはいえ、勇気ある考え方ですね。なかなかできないと思います。

狩野 直前まで海外でプレーしていたからか、自然とそう考えられるようになりました。その後、選手や手話通訳のスタッフとよくコミュニケーションをとるようにすると、選手たちは「目で見る」ことには長けていることが分かりました。

ゴム紐、選手の真似…「見える化」した指導

——指導法は変わりましたか?

狩野 はい。まず私自身が手本を見せる。私自身ができないプレーの場合は、北京五輪で同僚の佐野優子(元全日本女子チームのリベロ)さんら知り合いに練習に来てもらって、手本を見せてもらう。あと、私自身、選手たちがミスしたときのマネをし、正しい動きと間違った動きを実際に見せる。「こう動くと、こう失敗する」ということを、見てわかってもらうようにしました。

——その他にも、視覚でわかる練習法で工夫したことがありますか?

狩野 たとえば、相手が打ったアタックがブロックに当たるとボールの軌道がどう変わるか、というのを言葉で説明しようとすると、手話通訳者を介して膨大な時間がかかり、選手たちの理解も遅くなります。そこで、レシーブ練習にゴム紐を使うようにしました。相手のアタックを打った地点からゴム紐を引っ張り、ブロックで軌道が変わるのを「見える化」したら、選手たちはあらかじめどの位置でボールを待てばいいかをわかってくれるようになりました。

ゴム紐を使い、ブロックした後のボールの軌道を視覚化した。写真はデフリンピックでのブラジル戦

ゴム紐を使い、ブロックした後のボールの軌道を視覚化した。写真はデフリンピックでのブラジル戦
提供:日本デフバレーボール協会

選手と横並びにならないワケとは

——選手たちとコミュニケーションをとるにあたって、気をつけていることはありますか?

狩野 選手たちと話すときは横並びにならないように、いつも自分の立ち位置に気をつけています。手話通訳者と横並びになるようにしています。

——具体的には、どういうことでしょうか?

狩野 私が話をする際、選手たちはそれぞれ、私の唇を読んでいます。そのため、選手たちと正対するか、みんなから見える場所で話すようにしています。また、声は大きくなくてもいいので、口の周りを大きく動かして話すように心がけています。いまは、その癖が身に付いて、普段の暮らしで友人や家族から「声が小さくて聞こえない」と言われることもあるくらいです。

——手話だけでは伝わりにくいものですか?

狩野 たとえばバレーボールでは、「アタックはボールを切るように打つ」とか「トスが割れている」などと表現することがあります。それぞれ「アタックはボールにスピンをかけるようにして打つ」「トスしたボールがネットから離れている」という意味ですが、手話通訳では文字通りの翻訳となるので、意味が伝わらないことがあります。いまは、なるべくそうしたバレーボール用語を使わないように気をつけています。

——全日本チームは、どんな頻度で練習をしているのですか?

狩野 月に1回、多いときは2カ月に3回ほど合宿を行います。練習場所は決まっていないので、探すのもひと苦労です。現在、全日本女子チームは12人いますが、沖縄、九州、四国に住んでいる選手もいます。みんな会社員なので、勤務の都合で全員が集まれないこともあります。だから、合宿期間外に選手たちが勤める会社の経営者を訪ねて、デフバレーボールへの理解を深めてもらったり、合宿や大会に選手を派遣してもらえるように協力をお願いしたりするのも、監督として大事な仕事です。

——練習場所の使用料のほか、選手やスタッフの移動・宿泊費がかかりますが、費用はどう負担しているのですか?

狩野 ありがたいことに「強化費」として国から補助をいただいています。ですが、全体経費をまかないきれないので、選手とスタッフが自己負担をしているのが現状です。

——同じ障がい者スポーツのパラリンピック競技は、国からの補助金や企業などの協賛金で選手たちの自己負担額はほぼゼロとも聞きますが、大きな違いがあるのですね。

狩野 残念ながら現実はそうです。先ほども触れましたが、デフバレーボール協会のスタッフはほぼ全員が聴覚障がい者で、みなさん通常業務の仕事をした後に、ボランティアで協会の事務をしてくれていますが、作業量が膨大すぎて追いつきません。スタッフの体制なども含め、今後も課題は山積みです。

狩野さん

——日本代表チームは12人ということでしたが、どのように選んでいるのですか?

狩野 デフバレーボールの試合を観に行って、スカウトする場合もありますが、補聴器を付けて健聴者に交じってプレーする人を誘うこともあります。知り合いが「補聴器を付けている選手がいた」などと教えてくれるので、連絡を受けたら試合を観に行くようにしています。

しかし、勧誘してもデフバレーボールに理解がなく、拒絶されることもあります。これは自分の意思なので、それ以上勧誘することはありません。個人のアイデンティティーの問題ですから。逆に、勧誘して初めてデフバレーボールの存在を知る選手もいて、「是非入りたい」というケースもあります。現在の代表12人中、健聴者チームから来ている選手は数人います。もちろん、試合中は補聴器を外してプレーします。外さないと失格になりますから。

選手に何度も伝える「日の丸の重み」

——健聴者のチームからデフチームに移ってきた選手に、変化はありますか?

狩野 話を聞いていると、これまでは健聴者の中でマイノリティーとしてモヤモヤすることも多かったようですが、デフバレーのチームに移ってからは「みんな同じで、気が楽になった」と話す選手が多いです。

——選手を指導するうえで、特に強調していることはありますか?

狩野 「日本代表チームは、日の丸を背負ってプレーしている」ということは何度も繰り返しています。もし練習中に実力を発揮しきれずにやる気のないプレーをした選手がいれば、「練習に来たくないなら、来なくてもいい」と言います。選手がバレーボールに打ち込めるのも、企業や家族の支えがあってこそのこと。結果を残せなければ、支えてくれる人は減ってくると思います。選手には厳しい言葉だと思いますが、受け入れてくれています。

——確かに、狩野さんは全日本チームに選ばれたトッププレーヤーですから、選手に対しても説得力がある言葉だと思います。狩野さんはいつからバレーボールを始めたのですか?

狩野 小学校のころはサッカーをやっていました。でも中学になると、女子サッカー部がなくて、男子に交じってプレーするというほどの強い思いもない。両親が実業団のバレーボール選手だったこともあって、「バレーでいいか」みたいな感じで始めました。

女性が活躍できる時代をつくるために

――高校は、全国優勝12回を誇る八王子実践に進み、大学卒業後の00年に実業団チームの茂原アルカス(日立ディスプレイズの女子バレーチーム)に入団しました。

狩野 高校時代は厳しく指導を受けましたが、実業団チームには進まず、大学卒業後に入った茂原アルカスも当時はV・プレミアリーグには所属していませんでした。当時、勤務時間は会社の業績が上がると午前中まで、業績が思わしくないと午後5時までなど、変動こそしましたが、会社員をしながらバレーボールをしていました。

その後、06年に茂原アルカスの廃部が決まった際、久光製薬スプリングスの眞鍋政義監督(09年から全日本女子チームの監督。12年のロンドン五輪で銅メダル)に誘われました。久光と試合をしたときに注目していただいたと、後で聞きました。このときも最初は「強豪チームは無理です」と、入部には尻込みしました。でも、眞鍋さんに「一緒にやろう」と言われて勇気を持って入ることにしました。

——久光に入団した翌07年には主将になりましたね。

狩野 眞鍋さんは消去法で選んだのだと思いますが(笑)、「ほかに誰かやれる人がいる?」と言われて……。眞鍋さんからは「プロの仕事として結果を残していく大事さ」を教わりました。プロ契約をしていたわけではありませんが、全日本クラスになると、実際はプロみたいなものですから。

——大会が終わって、デフバレーボール監督として一区切りついたところですが、今後のことは考えていますか?V・プレミアリーグなど強豪チームの監督になりたいとは?

狩野 今後のことは、いまは何も決めていません。ただ、V・プレミアリーグのチーム監督をしている夫と同じフィールドには、立つことはないと思っています。私はバレーボール選手として全日本に選ばれはしましたが、高校卒業後、すぐに強豪チームに入団して全日本に選ばれるという「王道」を歩いてきたわけではありませんから。

最近痛感するのですが、デフバレーボール監督に就任してからの5年間は実に貴重な体験でした。障がい者スポーツに携わるという機会はそう簡単には巡ってくるものではありません。だから、障がい者スポーツの世界が私に与えられたフィールドなのかなと思っています。

狩野さん

——デフバレーボールの監督を続けるということですか?

狩野 監督なのかはわかりませんが、デフスポーツに携わっていけたらいいなあと思っています。デフ競技の指導者は、それだけで生活はできません。これから女性が活躍できる時代をつくるためにも、いまより社会的価値を上げるための制度や体制づくりにも取り組んでみたいという興味はあります。

——そこまでデフスポーツへの思いが熱くなる原動力は何ですか?

狩野 今回のデフリンピックで、女子バレーボールチームは金メダルを取りました。でも、健聴者チームにも引けをとらないほど強いチームになってくれたらと思っています。もし、健聴者チームに勝てるようになれば、選手たちの意識は大きく変わると思います。自信を持って社会人生活を送れるようになると思うのです。今回の金メダルチームの選手は、その可能性を持っている。その行く末を見守りたい。いまは、そんな気持ちを持っています。

TEXT:河野正一郎(POWER NEWS)

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狩野美雪(かのう みゆき)

デフバレーボール女子日本代表監督。1977年、東京都生まれ。中学からバレーボールを始め、八王子実践高校、東京学芸大学を経て、2000年に実業団チームの茂原アルカスに入部。03年シーズンからVリーグ(現在のV・プレミアリーグ)に昇格する原動力となった。06年に久光製薬スプリングスに移籍し、翌07年に主将。08年に全日本女子チームメンバーに選ばれ、北京五輪に出場した。Vリーグでサーブレシーブ賞をとるなど安定感のある守備と、幅広い攻撃ができるユーティリティープレーヤーとして評価された。

10年に久光製薬スプリングスを退団し、デンマークリーグに挑戦。翌11年に帰国後、デフバレーボール女子日本代表の監督に就任した。13年のデフリンピックでは銀メダル。17年大会では金メダルを獲得した。11年に全日本女子チームのコーチで、デンソー・エアリービーズ(女子Vプレミアリーグのチーム)監督の川北元氏と結婚。ロンドン五輪に出場した全日本女子チーム・狩野舞子は妹。