心の中の「日の当たらない場所」を見つめる―― 芥川賞作家・本谷有希子氏が紡ぐ物語

幾つものわらじを履きながら、一貫して物語を紡いできた。
21歳で自分の劇団を旗揚げし、29歳で劇作家として「演劇界の芥川賞」と称される岸田國士戯曲賞を受賞。演劇活動のかたわら、23歳で小説家デビューし、昨年36歳で芥川賞に輝いた。
演劇人であり、文芸人でもある本谷有希子さんは、脚本や小説を通じて、人間が悩みもがくさまを執拗に描いたかと思えば、心の奥底に潜む想いを冷淡に浮き彫りにしていく。
芥川賞受賞作の執筆直後に出産を経験し、母親になった彼女は、今後どう進化していくのだろう。物語の紡ぎ方や着想のヒント、これから歩もうとする道について話を聞いた。

——1年半が経ちましたが、あらためて芥川賞受賞おめでとうございます。過去に3回ノミネートされていましたが、「4度目の正直」で受賞となりました。本谷さんにとって芥川賞はどんな存在でしたか。

本谷 受賞前は正直、「邪魔なもの」「目障りなもの」だと思っていたような気がしますね(笑)。周りも早くとってもらいたいという雰囲気をそれとなく出してくるので、小説を書いているときに、なんとなく意識せざるをえないものでした。賞を欲しくないというわけではないのですが、傾向と対策を考えて書いたりしたくないし、受賞したら、楽になるだろうなぁ、余計なことを考えずに小説を書けるようになるだろうなぁとも思っていました。

——受賞して楽になりましたか。

本谷 そうかもしれません。でも、結局、創作そのものが楽ではないので、あんまり変わらなかったとも言えますね。

——周囲の接し方に変化はありましたか。

本谷 それまで“きちんとした大人の人”に話を聞いてもらえなかったのが、受賞後は私の話すことに、ちゃんと耳を傾けてもらえるようになったという感覚はあります。あと、「先生」と呼ばれることが増えました(笑)。その度に「やめてください」と言っていますが。周りから、いままでと違う眼差しで見られるようになった感じは、やっぱりどこかありますね。

本谷さん

「小説に心を委ねる」ということ

——受賞作の『異類婚姻譚』についてお尋ねします。選考委員の作家・宮本輝さんは、本谷さんを「作家としてひと皮むけた」と評しました。本谷さんの中で、これまでの作品と違いはありましたか。

本谷 いままでと違うのは、「小説に心を開いた」ということですかね。これまでの作品は「こう書くぞ」という我がもっと前面に出ていたのだと思います。これは「小説を信用していなかった」ということにも通じるところがあると思います。自分の欲で話を展開していくのではなくて、小説に心を委ねました。

——『異類婚姻譚』を書く際は、プロットを書かなかったのですか。

本谷 プロットがあると自分が退屈してしまうのです。アイデアがぽんと出たときに、小説に心を委ねていくと、自分の想像を超えた文が湧き出てくることが多いので、1行先も決めずに書いていました。たとえば入浴中に、物語の大きな方向がビジュアルになって見えることはあります。でも、それ以上、深く考えない。ビジュアルがくっきり見えてしまうと書けなくなるので。ぼんやりとしたビジュアルだけ意識しておきます。

異類婚姻譚

第154回芥川賞を受賞した『異類婚姻譚』(提供・本谷有希子氏)

——物語は、「ある日、自分の顔が旦那の顔とそっくりになっていることに気が付いた。」で始まります。実際も、そうなのですか。

本谷 似ていないと思います(笑)。でも、その書き出しは知人から聞いた実話です。パソコンで写真を整理しようと、顔の画像認識で自動的にアルバムに仕分けるソフトを使ったら、自分のアルバムに旦那の写真がたくさん紛れ込んでいた、というのです。面白いなと思ってそのまま忘れていたのが、本を書いているとき、ふっと浮かんだのです。

——書き出しが決まるまでに、相当苦労したらしいですね。

本谷 妊娠中にパソコンを見ていると生まれてくる子どもによくないという話を知人に聞いたので原稿用紙に書いていたのですが、『異類婚姻譚』を書き始める前に、書き出してはボツになった小説が60篇近くありました。自分でも不思議なのですが、小説になりうる書き出しの一文というものには「重み」みたいなものがあって、それが十分であれば、あとは自然にストーリーが転がっていくのです。自力で無理やり書こうとせずに、力を抜いていく感じでしょうか。2年間も書けなかったのに、その書き出しが見つかってからは2週間くらいで書き上げました。

——書き出しが決まるまでの過程は、まるでアスリートのトレーニングのようですね。

本谷 着想やアイデアの波が来たとき、その波をパッとつかむためになるべく身軽でいようと心がけています。ボツになった小説を書いている時間は、執筆というより、執筆に最適な状態をつくるための時間、別の言い方をすれば、自分の中にある雑念を出し切る過程とも言えるかもしれません。「こう書いてやろう」みたいな気持ちが何もなくなったときに何が出てくるか。それまでに60篇の小説を書きながら、無意識の状態を作り出していたような気がします。

原稿用紙

『異類婚姻譚』制作時から使っている原稿用紙(提供・本谷有希子氏)

——執筆中は妊娠中でした。

本谷 第1稿を書き上げたのがたぶん妊娠7カ月目ごろでした。編集者からは「赤ちゃんを産むと一生書かなくなる人もいますよ」と言われていて、私自身、危機感を持っていました。臨月のときまでゲラ直し(校正刷に赤入れする作業)をしていました。

——本谷さんにとって新境地を開いた作品でしたが、芥川賞の発表当日はどう過ごしていたのですか。

本谷 長年付き合いのある編集者から事前に「今回はもらえないから」と言われていたので、なんの準備もしていませんでした。それまで3回ノミネートされていたときは、準備万端だったのですが……。家族も「遊びに行きたい」と言うので、「どうせ取れないから行ってきたら」と出かけてもらっていました。それが急遽、受賞式に出ることになって、慌ててしまって。左右違う靴下を履いたまま、壇上で受賞あいさつをしていました。靴下を履き間違っていたことは、帰宅後に初めて気づきました(笑)。

自意識過剰が服を着て歩いていた

——石川県で生まれ育って、中学のときはテニス部の部長をしていたとか。

本谷 テニスがうまかったわけではありません。私は左利きなので、「左利きのサーブはとりにくい」という理由で部長になっただけです。練習はそこそこに、部活では「観察」ばかりしていましたね。

——観察とは?

本谷 梅雨のころ、体育館で体力づくりのランニングが続いていたんですが、ふと「このままそっと、鬼ごっこ部にしたらどうなるかなあ」と思ったのです。このままテニスの練習をせずに、だんだん鬼ごっこばかりするように部活を変えていく。部員たちがそれにいつ気づくか、という「観察」です。そのころちょうど、カエルを水の入った鍋に入れて徐々に熱していくと、その温度変化に気づかずに茹で上がってしまうという話を知って、慣れとか麻痺というものに興味があったので。

——それはひどい部長ですね(笑)。

本谷 「鬼ごっこ部」にしたときの観察結果は覚えていないのですが、ついこの間、テニス部の同窓会に出席したら、もっとひどい話が出てきました。私はまったく覚えていないんですが、テニスの練習もせずに、ひたすら演劇の練習をさせていたようです。それも、特に発表の場があるわけでもないのに。さすがにこれは、みんなそのおかしさに気づいていたようで、同窓会で「演劇をさせられるのはとても嫌だった」と言われました。他にもいろんなエピソードが出てきて、みんなの話を総合すると、改めて自分は「イタい人間」だったのだなあと痛感しました(笑)。

本谷さん

——そして、高校卒業後に上京されたんですよね。

本谷 演劇をしたいと思って東京に来ました。最初は役者の養成学校に1年通いましたが、「違う」と感じて挫折しました。親との約束で「仕送りは2年」と決まっていたので、あと1年で結果を残せなければ故郷に帰らなければならない。そこで、私の持っている財産とは何だろうと考えて、「若さ」しかないと思いました。正直なところ、大学に行っていない負い目もあったんですが、ならば逆に人よりも早く社会へ出られることを最大限に利用しようと考えたのです。

——具体的には何を始めたのですか。

本谷 私が身一つでできることは、ワープロで脚本を書くことしかありませんでした。とにかく毎日を非生産的には過ごしたくない。ここで何かしないといけないという焦りがありました。レストランのウエイトレスのアルバイト中も、紙ナプキンの裏にメモ書きして、家でワープロに打ち込みました。毎日寝る前に「きょうは500字増えた」「1000字増えた」と確認していたんです。

——毎晩、文字数を数えていたのですか。

本谷 はい。毎日文字数を数えて、「今日も何かしたぞ」「無為には過ごさなかったぞ」ということだけを拠り所にして書き上げたのが、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』でした。女優になりたい姉と、そんな姉を冷静な視点であざ笑っている妹の話ですが、これは当時、自意識過剰すぎる「イタい自分」と、それをどこか冷静に見ている自分の気持ちを姉妹に分けて書いたのかもしれない、と後になって思いました。

——自分を客観的に見つめていたのですね。

本谷 当時の私は「最高にイタい人間」「自意識過剰という化け物」「自意識過剰が服を着て歩いている」というような状態でした。漠然と何者かになりたいという気持ちがある一方で、私はしょせん、挫折して故郷に帰っていく「その他大勢の一人」だとわかっていました。自分は本当に滑稽な生き物だと思っていたんです。その思いをぶつけたのが『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』でした。私の中で持て余しているひりつき、イタさを笑わないと昇華できないので、劇にしてみんなで笑えばいいと考えたのです。

——それが処女作だったんですね。

本谷 書き上げた戯曲は、なんと6時間分もありました。「大物戯曲家か!」と読んでもらった人に言われてしまいましたけれど(笑)、それを2時間に凝縮して、役者の勉強をしている人に読んでもらって、人を集めて……という形で、即席で始めたのが「劇団、本谷有希子」でした。

——上演後の反応はいかがでしたか。

本谷 自分なりに手応えはありました。「夢って素敵だね」と思いながら、その夢にまい進する人のことを笑いたいという気持ちは、誰にでもあるのだと思います。それをうまく表現できたのかなと思っていました。

——即席でできた劇団でしたが、その後も上演を続けましたね。

本谷 実は、旗揚げの『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』のアンケートは酷評の嵐でした。「二度と演劇をするな」とか。打ち上げの夜、高田馬場駅の高架下で、アンケートの束を読んで号泣しました。悔し泣きです。だけど、同時に「そんなこと言うなら、また絶対やってやる」と思いました。昔からあまのじゃくなところがあるので(笑)。

「共感」では物語を書けない

——本谷さんのファンは同世代が多いと思います。同世代から共感されている証拠だと思いますが、小説や脚本を執筆するうえで意識していますか。

本谷 私は読者を想像できないのです。それは自分の弱みでもあると思っています。唯一、はっきり読者を想定したのは、『嵐のピクニック』(2013年、大江健三郎賞受賞作品)で、「中学生の自分に読んでもらいたい」と思って書きました。

——マーケティング的な思考で「こういうことを書けばウケる」ということは考えないのですね。

本谷 「ターゲット」とか「共感」とか「マーケティング」とか聞くと、途端に書けなくなってしまいます。これまでもテレビや映画の話などをいただきましたが、ずいぶんお断りしてしまいました。

——確かに、テレビドラマの脚本を書かれた実績はありませんね。それにしても、本谷さんの小説の登場人物はみなさん独特です。普段からどのような方法で人間観察をしているのですか。

本谷 最近、つくづく自分は他人のことを見ていないのだなと思います。正確に言うと、見ていることと見ていないことの落差が大きいんです。髪形が変わったとか、ヒゲを生やしたとか、ヘタをすれば目の前の2人が双子だということにも気付かない。外見のことは驚くほど見ていない。その代わり、その人の心の位置は気になります。いま心がここにあるなとか、ないなとか。言っていることと考えていることが違うなあとか。

本谷さん

——出産後、創作に対するスタンスは変わりましたか。

本谷 単純に自分のために使う時間が半分以下になりました。「時間」はわかりやすく変わったといえます。ただ、精神的には、創作という意味ではそんなに変わっていません。子どもを産んだ直後は、生活が激変してモチベーションはいったん下がりましたが、その反動でいまは出産前よりモチベーションが上がっています。

——母になったいま、物語の書き手として気をつけていることはありますか。

本谷 自分の中でちょっと気をつけなきゃと勝手に思っていることは、あまり健全になりすぎないということです。私は、「日の当たらない場所」を自分の中に持っておきたいと思っているからです。

——「日の当たらない場所」とは?

本谷 たとえば動物園に行くとしたら、私はお弁当を作って、子どもに「ほら、ライオンさんだよ」とか話しかけながら、園内を歩きます。でも、すぐに自分の中に「巣食うもの」を探りたいと思い始めます。「ここに何があるの?」「本当に楽しい場所なの?」「なんでみんなここに来るの?」という、ちょっとした引っかかりです。邪悪な目で物事を観ようということではありません。はた目には「いい母親」にしか見えない場面で、自分の中にはちょっとした違和感を内包している。その感覚に気づいて、目を逸らさずに大きくしていく作業です。

——それが小説を書く端緒になるのですね。

本谷 私は何を書くにしても、自分の中にあるものしか引っ張り出せません。小さなカケラでも、自分が感じたことは書き方次第で大きくできます。日々の中でふと引っかかった感覚を形にする作業です。想像だけでは、そこまで大きくはできません。

——子どもと出かけると、「健全な場所」に行く機会も増えますね。

本谷 動物園や公園という、どう考えても健全な場所にある「一点の曇り」というか「影」というか、それに気づくと小説になっていくかもしれない。そういうことが逆に面白いかな、とも考えています。

本谷さん

3歳までは育児に全力で向き合う

——子育てはつらくないですか。

本谷 私はとにかく3歳までは子どもと全力で向き合いたいと思っています。でもそれはあくまで理想で、うまく手を抜けるところは抜いているし、周りの人にもずいぶん助けられていますね。

——パートナーは育児に協力してくれますか。

本谷 夫は遅くまで仕事をしているのでいつも疲れてヘロヘロなのですが、その十分に寝てもいない人を叩き起こして、「3歳までは死んでもいいからしっかり子どもと向き合って」「死んでもいいから一緒に遊んで」と言っています。夫は私のことを鬼だと思っているかもしれません。でも、今のところ頑張って協力してくれています。

——育児にもお忙しいと思いますが、「芥川賞受賞後第1作」の執筆は進んでいますか。

本谷 小説の書き方をまた忘れてしまったようです(笑)。いろいろ書いてみて、「あ、この感覚かな」とか、一から模索しています。ちょうど今、編集者に、とにかく力を入れて書いたものと、小説に心を開いて力を抜いて3日間で書いたものの2種類を提出して、どちらのテイストがいいかと尋ねているところです。

——どちらのタイプが実際に出版されるか、楽しみです。もう一方の演劇は今後どうするつもりでいますか。

本谷 演劇はやるつもりです。 劇団活動を休止してから演劇と離れていて、「私は演劇をしないとダメだな」という気持ちになりました。地に足を着けて自分の場所に立っていないといけないかな、という感覚とでも言いましょうか。小説を書いているときは、今も知らない場所に出かけている気がします。あまり自覚していなかったのですが、劇団については、活動が事実上なくなったことで、「帰る場所がなくなった」という気持ちになりました。そろそろ演劇の台本をまた書いてみたいと思っています。

TEXT:河野正一郎(POWER NEWS)

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本谷有希子(もとや ゆきこ)

1979年生まれ。2000年、「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として脚本と演出を手掛ける。2005年、ラジオ番組「オールナイトニッポン」のパーソナリティーを務め、小説『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』が三島由紀夫賞候補となる。戯曲では、2006年に上演した『遭難、』で鶴屋南北戯曲賞を史上最年少で受賞。2008年上演の『幸せ最高ありがとうマジで!』で岸田國士戯曲賞。小説では、2011年に『ぬるい毒』で野間文芸新人賞。2013年に『嵐のピクニック』で大江健三郎賞。2014年に『自分を好きになる方法』で三島由紀夫賞。2016年、『異類婚姻譚』で芥川賞を受賞した。詩人で作詞家の御徒町凧と2013年に結婚。2015年10月に第一子を出産した。