遺伝子解析技術を社会に還元。ジーンクエストが見据えるゲノムビジネスの未来

唾液を郵送すると、遺伝子解析により自分の体質や疾病リスクを知ることができる、そんなサービスが一般的になりつつある。

提供しているのは高橋祥子氏が代表取締役を務める「株式会社ジーンクエスト(以下:ジーンクエスト)」。2013年、高橋氏が東京大学大学院在籍中に起業した会社だ。国際的なプロジェクトによりヒトゲノムの全塩基配列(全ゲノム)の解読が完了したのが2003年。テクノロジーの発展とともに遺伝子解析は急速に進んでいるが、遺伝情報をめぐる法整備や、倫理的・社会的な議論、そしてゲノムに関する人々の理解が追いついていないのが現状だ。

高橋氏が大学の研究にとどまらずに起業した背景には、遺伝子解析をビジネスとすることで一人でも多くの人にゲノムに関する正しい知識を持ってほしいという思いもある。今後、間違いなく社会に浸透してくるであろう遺伝情報をどのように扱うべきか、また遺伝子解析が私たちの未来に何をもたらすのか、話を伺った。

自分の正確な遺伝情報を知る権利

――ジーンクエストが提供している遺伝子解析サービスで、どのようなことがわかるのですか?

高橋 弊社のサービスは、ヒトの全ゲノム32億個の塩基配列のうち約70万箇所の遺伝子多型を解析対象としています。解析キットを購入し唾液を送付していただくと、がんやアトピー性皮膚炎、骨粗鬆症などの疾患リスクや、アルコール耐性や記憶力といった体質に加え、自分の祖先がどこから来たのかについての約300項目の遺伝情報を知ることができます。欧米人のデータに基づく遺伝子関連の科学論文が多い中、主にアジア人を対象とした科学論文を情報の根拠として、日本人やアジア人向けの大規模遺伝子解析を行っているのが特徴です。

遺伝子と聞くと「確定論的に何でもわかる」と思われがちですが、全くそんなことはないんです。遺伝要因と、生活習慣や食生活といった環境要因の両方が寄与して今の自分があります。例えば肺ガンは喫煙という環境要因の影響が大きいと言われていて、遺伝的にリスクが高くても絶対に発症するというわけではありません。自分の遺伝的にリスクが高い項目は何なのかをチェックし、その予防法を実践していただくための情報となればと考えています。

――遺伝的にリスクが高かったとしても生活習慣や食生活を見直すことで予防できるのですね。

高橋 もちろん、特定の遺伝子を持っていると発症することが決まっている病気もあります。そういった遺伝性疾患の情報を提供することも技術的には可能なんですが、その情報を提供することは医療行為になってしまうので、医療機関ではない弊社の個人向けサービスでは扱っていません。

こうした遺伝性疾患に関する情報を医療行為とみなす国もあれば、情報を個人に返さないほうが個人の権利を侵害しているとする、米国のような個人主義に基づく考え方の国もあります。自分の努力で変えられる余地がある情報は前向きになれますが、遺伝子で100%発症してしまう疾患についての遺伝情報をどう扱うべきか、日本を含め世界的にまだまだコンセンサスがない状態です。

高橋祥子氏

――高橋さんとしては、本人が知りたいと望めば遺伝性疾患に関する情報も与えるべきとお考えですか?

高橋 私は、提供するべきだと思っています。ゲノムの解析技術はどんどん発展しているので、これから先、「この情報にアクセスしてはダメ」というデータの封じ込めはできなくなってくると思っています。近い将来、自分で低コストで情報を得ることができるようになると、「その情報は知ってはいけません」といったルールですべてを統制できない状況が訪れるだろうと思っています。

遺伝子解析の未来を俯瞰すると、個人が正しい自分の情報にアクセスできる環境を整えていく方向に舵を切るべきです。例えば、遺伝性疾患や難病についての遺伝情報にも、医療機関を通じてであればアクセスできるとか、その後のカウンセリングやフォローができる体制をつくるといった、技術を前向きに活用するための議論が必要だと考えています。

遺伝子解析の技術を社会に還元するためのビジネス

――高橋さんは、大学院在籍中にジーンクエストを起業していますが、大学院の研究室だけではできないことがあったのでしょうか?

高橋 もちろん研究は可能なのですが、多くの大学で行われているゲノム研究の取り組みは基本的に、被験者を募集して、本人には情報を伝えることなく、学術的に活用します。私はそれよりも、遺伝情報の提供に協力していただく代わりに、疾病予防というメリットのあるかたちで個人の方にお返ししたほうがいいのでは、と考えたんです。さらに、そうやって遺伝子に関する興味を持ってもらう人を増やすことで、「遺伝情報を知ることが良いか悪いか」という議論をできる雰囲気が醸成されていくのではと思っています。

遺伝子解析においては、社会を広く巻き込んでいくことが必要です。それは、物理的に多くの人を巻き込むという話と、資本を巻き込む話と、両方あります。ゲノムには数十万人のデータが集まって初めて解読できる情報も多いので、数として多くの人の助けが必要です。私が起業したのも、自分がやりたいことを達成する手段として「起業」という選択肢が、ロジカルに考えて最適だったからです。

高橋祥子氏

私は、生命の謎を解き明かすことが、社会問題を解決することに繋がると思っています。研究、サイエンスをやりながら、その成果を社会に還元する。それが広がれば広がるほど、サイエンスが社会問題を解決する可能性が高くなる、という相乗効果を期待しています。

社会が追いつけないスピードで進化する遺伝子分野の研究

――遺伝情報は、生命倫理の観点から、ビジネスというフィールドやインターネットのような新技術と同じ俎上に載せて語るのは難しいようにも感じるのですが、実際どうなんでしょうか?

高橋 それは偏見というか、固定観念だと思います。ゲノムに関する教育がすすんでいないために、誤解している方が本当に多いのです。例えば、遺伝子解析結果を見て「私の遺伝子は良いの? 悪いの?」と聞かれることがあるのですが、良いとか悪いとかそういう話ではないんです。弊社が提供するサービスにおいても、全項目の疾患リスクが低い人もいませんし、逆に全てのリスクが高い人もいません。ゲノムを扱っていると、本当に一人ひとりが違っていて、「人間の多様性とはこういうことなのか」と実感します。遺伝子においても、全員が違っているからこそ価値があります。

そもそもヒトゲノムが解読されたのは2003年のことなので、それ以前に義務教育を受けた方の教科書にはゲノムについての記載がありません。だから、その後に学ぶ機会がない限り、知らなくて当然です。時代の変化に教育が追いついていないんだと思います。

高橋祥子氏

――なるほど。ゲノムについての教育を受けていないから、誤解を生んでいるのですね。

高橋 例えば、自分の命を守る行動などは遺伝子にその情報が組み込まれているので、誰に習わなくてもできるものです。逆に、遺伝子に入っていない情報というのは、時代によって変わる最新情報なんです。だから、遺伝子の変化より早く変化する最新情報については、教育で補っていく必要があるはずです。そう考えると、現在のような教育が時代の変化に追いついていない状態はパラドックスというか……。教科書を作る仕組みや体制から考えていかなければならないのかもしれませんね。

遺伝情報の利用に必要な「力」

――保険会社が遺伝情報を利用できるのか、幼児教育に子どもの遺伝子解析を活用すべきか、といったような各分野での遺伝情報の扱いに関する議論もあります。

高橋 遺伝情報は自分の力では変えようがないので、変えられないことについて不利益を被ることは差別の定義に当てはまると私は考えます。現状、日本では、保険会社は遺伝情報や家族の病歴を保険加入時の審査に利用していません。遺伝情報に基づいて自分が発症しやすいとされる疾患の保険にだけ加入したり、逆に高リスク者を保険会社が謝絶するようなことが起きると、現在の保険制度が崩壊する可能性もあります。子どもの教育のために遺伝子を調べるのも、子どもの才能を伸ばすことが目的であれば、私は良いと思います。けれど、その子の才能を閉ざしてしまうような利用のされ方であってはなりません。

遺伝情報は使い方ひとつで、人を豊かにするためにも、差別のためにも使えます。今は、遺伝情報を何らかの形で活用するべきだけど、どう使ったらいいかわからない、といった試行錯誤の状態なんだと思います。

――遺伝情報そのものよりも、その使い方が問題なのですね

高橋 そこには想像力が必要なのだと思います。よく「人の遺伝子には性善説的な性質があるのか、性悪説的な性質があるのか」と聞かれますが、どちらもあるんです。その時の環境や状況によって、性善説、性悪説のどちらかが引き出されます。例えば包丁を、食を豊かにするために使うのか、傷つけるために使ってしまうのかは、その人を取り巻く状況が作っている話であって、遺伝子もそれを良い方向に使える状況や環境を作らなければならないと思っています。

高橋祥子氏

遺伝子解析が照らす未来図

――遺伝子解析が進んでいくことで、今後、特に大きく変化する分野はどこでしょうか?

高橋 やはり医療分野での活用が、最も緊急性が高いと思います。これまでは、肺がんの場合は肺というように、臓器ごとにがんを区別して抗がん剤を使う治療でした。がんは遺伝子の変異なので、今後遺伝子解析がすすめば、どの遺伝子が変異しているのかを調べて、その人の遺伝子に合わせた治療をしていく方法がスタンダードになっていくと考えられます。がんだけではなく他の疾患も、遺伝子に合わせた「オーダーメイド医療」や「ゲノム創薬」といった、最適な治療法を選択できるようになるはずです。医療以外の運動、食事、栄養、ストレス、美容などの様々なヘルスケアの領域においても、その人の遺伝子に合わせたソリューションの提供が可能になるだろうと思います。

――高橋さんは代表取締役を務めていますが、今でもご自身で研究は続けているのですか?

高橋 今は自社で行っている研究チームのマネジメントをしている形です。最近のバイオインフォマティクス(生命情報科学)と呼ばれる領域は、実際に手を動かして実験を行うのではなく、パソコン上のデータを駆使して解析する研究でもあるんです。そもそも生命科学がここまで進歩したのは、物理測定機器やコンピューターが発展したおかげで、ゲノムをデータ化することができたという経緯があります。今後もますます、遺伝子解析は、テクノロジーや物理学、情報学などの他の領域との融合が進んでいくだろうと思います。

ヒトゲノムが解読される前は、全ゲノムが解読されればヒトの体の全てがわかると期待されていました。しかし、2003年にゲノム解読が完了してわかったのは、もっと広い海があって、その中のたった数%が解読できたに過ぎなかったということです。我々は大規模なデータを扱い、遺伝子研究を多角的に進めています。データ分析技術の発展により、これまでにないスピードで今までの予想や仮説を超える発見をしていく可能性があります。生命のすべてを解明したいという私の挑戦もこれからです。

高橋祥子氏

TEXT: 小林純子、PHOTO: 山﨑美津留

高橋祥子(たかはし・しょうこ)
株式会社ジーンクエスト代表取締役 株式会社ユーグレナ執行役員バイオインフォマティクス事業担当

1988年大阪府生まれ。2013年6月東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程在籍中に遺伝子解析の研究を推進し、正しい活用を広めることを目指す株式会社ジーンクエストを起業。2015年3月博士号取得。2018年4月株式会社ユーグレナ執行役員バイオインフォマティクス事業担当に就任。生活習慣病など疾患のリスクや体質の特徴など約300項目以上に及ぶ遺伝子を調べ、病気や体質に関係する遺伝子をチェックできる遺伝子解析サービスを展開。経済産業省「第二回日本ベンチャー大賞」経済産業大臣賞(女性起業家賞)受賞。著書に『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか?』がある。