温暖化や海面上昇など、気候変動に最も脆弱なのは零細な沿岸漁業や農業だと言われる。2019年9月、IPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)は、「温暖化は想定以上の速さで進み、2100年には深刻な事態になる」と警告する特別報告書を発表した。
上智大学大学院環境学研究科のあん・まくどなるど教授は、約30年間のフィールド・ワークを通じて、農漁村の生活や変貌をつぶさに観察してきた。とりわけ注目するのは里山と里海。「人間が管理しながら自然と共生する農漁村の生き方は、持続可能な社会をつくるヒントになる」と言う。
しかし、その里山・里海も気候変動の影響からは免れない。上智大学は「アイランド・サステイナビリティ」をテーマに、同教授の主導のもと、マーシャル諸島共和国はじめ各国政府や大学と連携するプロジェクトをスタートさせた。
農漁村では高齢化や人口減少も進むが、同教授は「農業では新しいタイプのリーダーが登場し、沿岸漁業ではすばらしい漁労文化を維持している」と希望を捨てていない。世界を股に掛け活躍する同教授に、農漁業の活性化や気候変動への対応策について伺った。

異文化の国で交流を求めるなら、よそ者の自分から行動を起こす

――先生は1982年に初来日され、ずっと日本の農漁村でフィールドワークをしてこられました。なぜ農漁村の研究を人生のテーマにされたのでしょうか。

まくどなるど この道を歩むことになったのは、家庭教育のおかげだと思います。父親はカナダの開拓者の長男で、森の中の電気も水道もない小屋で育ちました。奨学金で大学に進学して栄養学の学者になり、私たち子どもには、好奇心を大切にし、未知の世界に挑戦するよう、いつも言っていたのです。
異文化の国で交流を求めるなら、待つのではなく、よそ者の自分から行動を起こす責任があります。私は子どもの頃父親の仕事の関係でスウェーデンに住み、中学1年生になる前にカナダに帰国しました。15歳の時、カナダ初のAFS交換留学生として急遽私が選ばれた時、父は「その国の文化に合わせる努力をしなさい。行き詰まっても、その国のせいにしてはいけない」と言って、送り出してくれました。
交換留学生に選ばれてから出発まで2週間の準備期間しかなかったので、ほとんど何の知識もないまま来日し、大阪・河内長野の私立高校に留学しました。食事も風呂もトイレも違う。日本語が分からず看板も読めないので、最初はとても怖かったことを覚えています。
帰国して大学生となった1988年、今度は熊本大学に留学する機会を得て政治学を学びました。しかし、政治についてはあまりパッションが湧きませんでした。そんな時に、親友の両親の紹介で熊本・小川町のイグサ農家に10日間滞在しました。そこで日本の農家の暮らしや農作業を体験するうちに、農家のおばあちゃんの温かい気配りに感激し、日本の田舎に魅せられてもっと深く知りたいと思うようになったのです。

アン・マクドナルド氏

バブル期に日本社会の激変ぶりを見て、危うさを予感

――1980年代は日本がバブル経済に向かっていた時期です。日本の生活や文化の変貌をどのように感じましたか。

まくどなるど 交換留学で1982年に初来日し、83年の春にカナダに戻りましたが、再び日本に戻った88年までの5年間で、ライフスタイルがすさまじく変化したことに驚きました。82年の食文化は和食が中心だったのに、88年には欧米の食品があふれていました。経済学者は「それいけどんどん」の経済発展を称賛し、外国人留学生は、「日本企業の成功の秘密を知りたい」と経済学が大変な人気でした。
しかし私は逆に、こんなスピードでいいのかと危うさを感じました。社会を支えていた第1次産業が衰退し、日本の伝統を捨てて欧米のものを猛スピードで無差別に導入する。ギャップの大きさに危惧を抱いていた時、柳田國男の本に出会い、鍛冶屋、竹細工師、桶屋などのオーラル・ヒストリー(口述歴史)に惹かれました。
日本は欧米化によって失うものと、得るもののトレードオフを真剣に考えずに突き進みました。現在の途上国も、日本がたどったようにこれから負の部分のある道を歩むに違いありません。何百年、何千年かかって築き上げてきた文化を捨てないようにしないといけない。日本にはプラスとマイナスの両面で学ぶものがあると思います。

里山の風景

漁村には外国人でもすぐ入れるが、農村は慎重な準備が必要

――先生は長年日本の最北端から最南端まで全国でフィールドワークをされてきましたが、農村と漁村の人々の気質や文化の違いを感じることはありますか。

まくどなるど 大きな違いがあります。漁村には比較的外国人は入りやすい。漁師は狩猟民族というか、「板子1枚下は地獄」というのが舟乗り稼業(かぎょう)です。判断が早いので、漁村に入るのは最初の3秒が勝負です。「日本人は農耕民族」と言いますが、その場合、漁民は主流の外に暮らす「よそ者」です。外国人の私も「よそ者」。通じるものがあるのです。

アン・マクドナルド氏

まくどなるど 一方、農村はじっくり時間をかけて、地域の人間関係や慣習をよく勉強してから入らなければいけません。宮城県大崎市松山町で8年間研究したときのことを思い出します。最初の1年間は畑を借りて静かに暮らし、2年目はぼちぼち勉強会にメンバーとして入ってもらい、3年目になってようやく人々が声をかけてくれるようになりました。中には2年目から声をかけてくれた人もいましたが、3年以上かかった人もいました。ひょっとしたら、向こうも私をどこまで地域社会に受け入れたらいいか試していたのではないでしょうか。でも、いったん受け入れてくれたら、とても温かく信頼できる仲間として、人間味あふれる生涯の友達となっていきました。

佐渡で農村と漁村の両方を調べたことがあります。リンゴとナシ農家の言葉はとにかく長く、結論がどこにたどり着くのか分かりにくい。片や漁師の言葉は短くて「おい、魚を分けてやるから、入れ物を持ってこい」で分かりやすい。漁に同行している間、ずっと無言だった漁師もいます。言葉、表現、コミュニケーションの面でも、農村と漁村の人の違いを感じました。

ある国際会議で、日本のお役人の話がやたら婉曲的で回りくどく長いので、他国代表の顔を見ていたら、何を言おうとしているのかあまり通じていないように見受けられました。内容はとても大事なことを主張しているのに、婉曲的に言うと英語ではなかなか通じにくいところがあるのです。そこで私は思わず、「皆さん、国際舞台で戦うなら、漁師の人たちの単純明快な言葉を見習い、もっと短く簡潔に言いましょう」と冗談っぽく言ったことがあります。

農業経営が大規模化すると、農業は強くなるが農村は死ぬ

――地方は人口減少や高齢化が進み、活力維持が課題です。現状をどう見ておられますか。

まくどなるど 地方の衰退は1980年代のバブル経済期に既に始まっていました。90年代の初めには、中山間地のシンポジウムで「子どもがいなくなり、老人ばかりでどうすべきか」という切実な声が上がっていました。
これは私が中山間地域に住んでいたからだと思いますが、当時すでに過疎化、高齢化、農業の担い手不足が重い課題として存在していたのです。バブル崩壊前までの日本経済は絶好調に見えましたが、第一次産業を支えてくれている農村や漁村を訪れても、高度成長を成し遂げた日本の輝きがあまり感じられませんでした。誤解を恐れずに言えば、戦後の隠れたコストは農村や漁村にツケが回されているように感じました。こういった状況がしっかり認識されないまま時代が流れていくと、農村も漁村もそのうち消滅してしまうのではないかと私は危機感さえ感じていました。

米国や私の故郷のカナダでは70年代、家族経営の農場がアグリビジネスに置き換わっていく時代でした。小規模経営の農場はどこも倒産寸前。米国アイオワ州の田舎で獣医を務めた伯父の所で、ひと夏を過ごしたことがあります。そこでは畜産農家は牛や豚が病気になっても獣医を呼ぶお金がないので、まず自分で治そうとする。死にそうになってから、あわてて獣医を呼ぶ。代金は畑で作ったトウモロコシ、という状態でした。
カナダでは、叔父が規模拡大の波に乗れずに牧場を手放してしまったのを今でも覚えています。
このように米国でもカナダでも小規模経営が崩壊し、大規模化が進んでいきました。大規模化で農業という産業は強くなるけれども、農村は死んでしまう。つまり農業と農村は別物になったのです。
90年代の日本では、農水省の中に規模拡大を目指す米国派と、小規模でも持続可能でエコ重視の農業を目指す欧州派があって、両者の間で論争があり今に続いているように感じます。

アン・マクドナルド氏

行政は農業・漁業への外国人の受け入れにもっと支援を

――先生ご自身は、どのような農業政策が望ましいとお考えですか。

まくどなるど 有機農業をやっている私の知人が全国にいますが、彼らは「日本農業の強みは、限られた面積でいかに高品質な作物を作り上げていくかにある」と言います。米国型で規模拡大していくと、日本の強みは失われるように思います。

こうした中、90年代後半から注目すべき動きが出てきました。環境に配慮した無農薬でオーガニックの農業や、農協に出荷しない農業に取り組む人々が登場してきたのです。
最初にオーガニックに取り組んだのは、環境破壊を止めようという信念を持った“哲学者”たちでした。それを持続可能にするためには、ブランド化してお金を得ていくことが大事だという考え方が広がり、一匹狼だった人々は今では新しい運動のリーダーになっています。こうした人たちをもっと農業政策に生かしたらいいと思います。
岩手県遠野市で「多田自然農場」を経営する多田克彦さんは、土壌作りや肥料作りから栽培まで、江戸時代の農書を参考にして取り組んでいます。自然と共生した先人の知恵を大事にしているのです。米国や欧州に行って学び、農作物を海外に輸出し、発信力もある。私はこういう人を農林水産大臣に任命すれば、日本の農業の未来はすごく変わると思います。

最近は外国人も農業に参加しています。静岡では韓国人と日本人の夫婦がお茶を有機栽培して新しい商品開発を行い、フィリピンに進出して農園経営を拡大しています。少子化で地元育ちの人が減ることばかり心配するのは後ろ向きです。農業の価値を知る外国人を受け入れて大事にすれば、国土保全につながります。日本人自身も明治時代以降、南米に出かけてコーヒー栽培などで成功したではありませんか。行政は持続可能な社会を目指すために、農業や漁業への外国人の受け入れをもっと支援するなどのソリューションも、もっと探ってほしいと思います。

アン・マクドナルド氏

里山・里海は自然界を考察し獲得した貴重な知識アセット

――ところで、先生は里山・里海について「自然を守り環境問題を解決する知恵として、世界で注目されている」と述べておられます。

まくどなるど 里山・里海は、自然保全や生物多様性の維持にとても重要です。その強みは動的管理(ダイナミック・マネジメント)にあります。長年、自然界の移り変わりを考察し、それに適応して獲得した貴重な知識アセットなのです。
例えば石川県の炭焼きは、原木のコナラを伐採した後、3~4年間木の手入れをします。切り株からは10~20本の芽が出てくるので、3~4本だけ残す芽かきをして、下草を刈ります。こうして木を育て、20~25年サイクルで林を利用するのです。枯れ枝を重ねておくと小動物のすみかになり、生物多様性の維持に役立ちます。
2010年に名古屋で「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開かれました。私は海洋生物の多様性を重視し、生物多様性条約事務局と一緒にいろいろ考え、せっかく日本で開催されるのだから、日本の優れた海洋文明、漁業文化を取りあげることにしました。そこで、何千年にもわたって北から南まで沿岸海域の資源を大事にしてきた日本の資源管理の仕組みやルール、里海の文化などを事例として、Sustainable Ocean Initiative(SOI)を立ち上げることを提案し、日本の環境省と農林水産省の賛同も得て、立ち上げ会合を開きました。このイニシアチブのおかげで、「省」や「国境」を超えて共に力を合わせ、発展途上国を支援する道が開かれたのです。

私は5~6年前からミクロネシア、カリブ海、ポリネシアの島国に行き、日本の里山・里海の思想を積極的に紹介しています。いずれも気候変動への脆弱性が高く、危機感を深めている国々です。
中でもミクロネシアのマーシャル諸島共和国政府とは共同プロジェクトを進めています。
その目的は、海洋生物多様性や資源管理等とともに、気候変動のフロントラインにいて脆弱性が高いマーシャル諸島の食糧供給や、栄養事情を安定・向上させることです。輸入への依存度を減らし、回復力のある資源管理を生み出していく。それを支える農政も同時に確立しようとしています。日本の伝統農法や現代のイノベーティブな科学技術を、マーシャル諸島の経済や文化・社会・歴史に配慮しつつ、どのような形で導入するか、マーシャル諸島の資源省とともに現場で探り、考えています。

アン・マクドナルド氏

気候変動が里山・里海の環境を急速に変えている

――9月に出たIPCCの特別報告書は「想定を超える温暖化・海面上昇により2100年には沿岸インフラが打撃を受け、10億人が危機を迎える」と予想しています。日本の里山・里海は大丈夫でしょうか。

まくどなるど 気候変動は急速に里山・里海の環境を変えています。例えば海女さんが潜る能登の海は、磯焼けがひどくて砂漠化し、海藻が生えなくなっています。これまではアワビなどの稚貝を放流して育て、いつそれを採取するかという資源管理のルールがあったのですが、今やそういう伝統的な里山・里海の知識だけでは事態をコントロールできなくなっています。海女さんの知識アセットと科学者の知識アセットを合わせて、どう対応するかを考えねばなりません。

マーシャル諸島の場合は、海面上昇によって住む土地が失われようとしています。先祖のお墓が水没するのは民族の精神にかかわる問題であり、移住すればいいという簡単な話ではありません。
1999年に、氷が解けて生活基盤を脅かされている北極圏のイヌイットを現地調査したことがあります。北極圏は無数の島々から成り立っており、温暖化は地球平均の5~6倍の速さで進んでいるので、こちらも海面上昇が深刻です。

日本でも漁港関係者が十数年前から、「いずれ日本海側では満潮時の海面上昇が問題になる。防波堤をどれぐらい高くしたらいいか」と議論しています。これに対し、漁師の妻たちからは「防波堤がかさ上げされると、夫が魚を漁船から陸に上げるのが困難になり、身体が心配だ」と懸念する声が出ています。日本の漁港は全国に3000カ所もあり、財政難で全部を造り直す余裕はないので、取捨選択する時代に移行せざるを得ないでしょう。

漁港の風景

米は品種改良で対応し、果物は栽培地を北上させる

――農業分野では、環境省の報告書が「2100年には温州ミカンの作付け適地がなくなり、コメの品質が劣化する」と述べています。

まくどなるど IPCC最初の報告書の執筆者である陽 捷行(みなみ・かつゆき)さんという、農水省の農業環境技術研究所長を務めた優れた研究者がいます。先見性のあった陽先生は2007年に、全国の農業試験場から気候変動に関するデータを集めて、研究発表会を開きました。その時、既にミカンとコメの話が出たのです。九州では降雨パターンが変わったために、主力製品の「ヒノヒカリ」という品種のコメが作れなくなり、代わりに「にこまる」という新品種を開発しました。

果物は温暖化に伴って栽培地を北上させる方法を取ります。青森県では早くも「孫の時代にはリンゴの代わりにミカンを作っているかもしれず、今とは違う教育をしなければいけない」という声が出ています。
ただ、リンゴからミカンへの移行期には収入が期待できません。補助金が欠かせませんが、税金なので国民全体の理解が必要になります。科学者や農業の現場では既に検討が始まっていますが、官庁の動きはいまひとつです。

アン・マクドナルド氏

島国の若手行政マンを招いて上智大学で教育し、母国に貢献してもらう

――「ローカルな視点からグローバルな問題解決を探る」というのが先生の基本的な姿勢だと思います。今後どのような活動や情報発信に取り組まれるのか、お聞かせください。

まくどなるど ここ5~6年は南の島国を中心に活動しており、脆弱性が高い漁業や農業の在り方を研究しています。日本も島国ですが、その認識が最近薄れているように思います。
日本が21世紀に地球のために貢献できることの1つとして、大陸ばかりに目を向けるのではなく、ぜひもっと南の島国に目を向け、アイランド・サステイナビリティのソリューションに取り組んでほしいと思います。上智大学は、環境研究所にそのためのユニットを発足させ、私がトップを務めています。島国の25~45歳の若手行政マンを招いて日本で勉強してもらい、母国に貢献してほしいと願っています。

アン・マクドナルド氏

TEXT:木代泰之、PHOTO:倉橋 正

あん・まくどなるど(Anne MCDONALD)

上智大学大学院地球環境学研究科 教授
高校、大学時代に日本に留学。日本各地の農漁村のフィールドワークを開始(現在も活動中)。1991年ブリティッシュ・コロンビア大学東洋学部日本語科卒、2年アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(旧スタンフォード大学日本研究所)研究課程終了。97年に県立宮城大学客員教授、2011年より現職。農業・漁業を基にした日本学、環境学、環境歴史学が専門。主な著作に『気候変動列島ウォッチ』(清水弘文堂書房)、『日本の農漁村とわたし』(同)など。