江戸、そのしなやかなネットワーク社会――現代人は、江戸時代を超える良い社会をつくったか?

江戸時代の人々は、どのような社会に生きていたのだろうか。多くの人は「鎖国」「身分制社会」「儒教」という堅苦しい社会を想像するのではないだろうか。
しかし、田中優子・法政大学総長が語る江戸時代の素顔は、もっと自由でしなやかだ。例えばものづくり。「長崎を窓口にヨーロッパ・インド・中国の先進的な製品を輸入し、日本人の生活に合うように改良・国産化し市場を築き上げた」という。近代製造業の原点がそこにある。
画家や作家、俳諧師、科学者たちが身分を超えて集まった「連」(れん=サロン)に、田中総長はとりわけ注目する。「連」のネットワークで個性的な才能が開花し、出版事業が盛んになった。国民の知識水準が高まり、やがて明治維新につながった。
「現代人は江戸時代を超える良い社会を作ったと思っているが、不安や危機感はむしろ深まっている。江戸の人やモノは重層的に関わり、動き、変化し、時空を超えて伝播してきた。人びとは個々の関係に意図的に関わり、したたかに変化する人間を演じていた」と説く田中総長。
江戸研究から見えてきた、現代社会に息苦しさを感じる人々へのヒントを語っていただいた。

世界史にみる「江戸時代」の位置づけ

――先生は「江戸時代は、世界経済やアジアの動きと連動して生まれた」と述べておられます。昔から大陸と交易してきた日本が、突然貿易を制限しました。この江戸時代を世界史の中でどのように位置付ければよいのか、解説していただけますか。

田中 世界の貿易は16世紀後半を境に大きく変わりました。15世紀の大航海時代以降、ヨーロッパはアフリカ南西端の喜望峰を回るルートでアジアに来ていました。しかし、米大陸に進出した後は、そこから太平洋を横断してアジアに渡るルートを開拓し始めました。
そして1570年代、安定した太平洋ルートが確立されて地球は1つにつながり、いわば「グローバリゼーション」が始まったのです。スペインはメキシコで採掘された銀(スペイン銀)を、西海岸のアカプルコからマニラまで大量に運ぶようになりました。
そのマニラには、中国のいろいろなハイテク商品を積んだ貿易船がやってきて、スペインとの交易が始まりました。アジアの経済構造が一変したのです。
その影響を最も強く受けたのが、当時、世界有数の銀産出国だった日本です。それまで誇っていた強い購買力は、スペイン銀に押されて衰退し、日本社会の変質を促しました。

もう1つの変質の要因は、豊臣秀吉がアジアの植民地支配に乗り出したことです。きっかけはキリシタン大名がイエズス会に領地を寄進したこと。長崎までも寄進され、「このままでは全国がイエズス会の植民地になる」と危惧した秀吉は、長崎をイエズス会から取り返すと、今度は自らが植民側になろうとしました。
秀吉は朝鮮半島に軍隊を派遣し、中国、インド、フィリピンまで手に入れる構想を持っていました。スペインの植民地支配台頭による経済的打撃を、植民地で取り返そうという発想です。これが大航海時代に対する日本なりの対抗策でしたが、結果は失敗。世界の拡大主義に日本が巻き込まれた時代でもあったのです。

田中優子法政大学総長

ゼロから再出発するしかなかった江戸時代

――経済的な苦境と朝鮮半島での敗北。このきつい経験が、次に来る江戸時代の性格付けに大きな影響を与えたわけですね。

田中 そうです。朝鮮出兵では大量の鉄砲を生産して火薬を輸入するなど、巨費を費やしました。敗退によって得たものはなく、経済的ダメージは強烈でした。
海外情報の入り口だった朝鮮半島は閉じられ、国中がえん戦気分。「この先、どうなるか分からない」という不安心理に陥っていたのです。そんなゼロの状態から再出発するしかなかったのが江戸時代です。
江戸初期には、東南アジアに日本の商人が延べ10万人往来していました。彼らの多くはキリシタンでしたので、キリシタンネットワークの拡大を恐れ、幕府は1630年代、朱印船貿易を廃止し、渡航禁止令を出しました。本当の江戸時代がここから始まったのです。

最先端の製品を少しだけ輸入し、改良・国産化する

――貿易禁止の後も、オランダ東インド会社や中国から、時計、繊維、陶磁器、レンズなど異国のさまざまな先端的な製品が輸入されました。幕府の意図はどこにあったのでしょうか。

田中 幕府が選んだのは国産化の道でした。国産化のためには素材とモデルが必要なので、最先端のものを少しだけ輸入したのです。売るのが目的ではありません。
それ以前も鉄砲がそうでした。ポルトガルは日本に大量に売りつけるつもりでしたが、高度な刀鍛冶の技術があった日本は、自分で作ってしまったのです。
国産化に当たっては、輸入品を日本人の生活や好みに合わせて改良しました。絶えず海外の新しい産品や技術を取り入れては日本仕様へと工夫し改良していたので、国内マーケットは大いに活性化していきました。
海では千石船が列島を巡り、都市と地方の間で物資が行き交いました。陸路では参勤交代によって街道筋がにぎわいました。お金が一番落ちたのは、100万人超が暮らす江戸です。
オランダから機械や情報が入って来る。中国やインドの織物、焼き物、生薬が入って来る。学問も一緒に入って来る。こうして、外にまなざしを向けて最新製品や情報を取り入れながら、独自のものづくりに励む時代に変貌していったのです。

国産化の典型は和時計。木綿製品も国内市場が大発展

――海外製品は実際にどのように国産化されたのか、具体的な事例で説明していただけますか。

田中 典型的なのは和時計です。西洋から時計が入ってきたのは1500年代で、それを日本の生活に合うように国産化したのが和時計です。本来は一定の速度で動く時計を、四季による日の出日没の変化に合わせて速度を変えられるように改良しました。大名家、大きな商家、街の「時の鐘」を鳴らす合図用などに広がっていきました。
レンズも東インド会社からの輸入品で、眼鏡、望遠鏡、顕微鏡が作られました。遠近法を楽しむ「浮絵」も登場しました。箱の中の絵をレンズ越しにのぞくと、3Dで見える仕掛けです。
インドから輸入した木綿の縞(しま)織物や更紗も、国産化により市場が大きく発展しました。日本で最初に木綿の栽培が始まったのは室町時代、今の大分県辺りですが、江戸時代に爆発的に拡大しました。栽培技術マニュアルも出版し、木綿栽培も織物産業も国産化に成功。絹を扱っていた越後屋(三越の前身)が、木綿部門を新設するほどでした。

これらの商品の輸入窓口は長崎の他にもいろいろありました。朝鮮の釜山には対馬藩の倭館があり、中国朝鮮の先進的な文物が入って来て、倭館交易と呼ばれていました。
琉球からも中国製品が入って来ました。北海道のアイヌ民族経由では蝦夷錦(えぞにしき)などがもたらされました。当然、密輸も行われたのです。

江戸時代中期の和時計 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

江戸時代中期の和時計
出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

輸出用と国内向けを、好みに応じて作り分けた伊万里

――当時の「輸入」→「改良」→「国産化」というやり方は、近代日本のビジネスモデルだという気がします。

田中 江戸時代から第二次世界大戦後間もない頃までは、確かにそうでした。初期の自動車産業は、米国車を研究し改良して、日本人に合う小型車を得意としました。しかし、その後の日本は輸入したものをそのまま売る傾向が顕著になり、本当に国産化の努力をしているのかなという気がします。
江戸時代はお客の生活や好みに合わせることを大事にしました。例えば肥前・伊万里は、中国・景徳鎮から輸入した陶磁器をモデルにして、ヨーロッパに輸出するものと、国内の大名家などに売るものを、好みに応じて作り分けていました。
中国が海禁(貿易規制)策をとったため、伊万里は景徳鎮の代わりに磁器輸出を拡大する機会に恵まれました。この結果、技術が向上し、柿右衛門や鍋島という日本的に洗練された磁器が生まれたのです。ヨーロッパに輸出された柿右衛門は、ドイツ柿右衛門や英国柿右衛門が生まれるほどの人気を得ました。

田中優子法政大学総長

江戸時代は、資源の持続可能性を重視する「SDGs」の社会でもあった

――江戸時代は「資源の持続可能性」を重視する社会だったとも述べておられます。現代のSDGsや循環型社会に通じる発想ですね。

田中 木材の伐採制限や下肥(排せつ物)の利用が典型的ですが、これは価値観というより現実に迫られてそうせざるを得なかったのです。
例えば人口が集中して大都市ができると、たいてい下流域で洪水が起きます。上流の山の木が、建築用やエネルギー源として過剰伐採されるのが原因なので、幕府や各藩は過剰伐採を取り締まりました。でもこれは先を読んで対応したのであって、倫理観で環境問題に取り組んだわけではありません。
江戸時代の人はだいたい1年先を考えていました。魚も山の動物も決して獲りすぎない。つまり来年の今頃もちゃんと収穫があるように、四季の循環を考えていたのです。
人口100万を超える江戸の周辺農村では、日々の野菜の生産に使う大量の肥料の確保が問題でした。そこで都市の下肥を農村に運び、発酵させて肥料にし、それで育てた野菜を都市に還流させるというサプライチェーンが生まれたのです。
家庭の下肥は下肥問屋がお金を払って集めました。今、排泄物は下水道に流しますが、当時は金になる商品だったのです。農村の野菜を都市に運ぶのは青物問屋。つまり下肥問屋と青物問屋がこの循環システムを回していた。実に合理的、論理的なシステムでした。
よく「このシステムを現代でも使えませんか」と聞く人がいますが、それは無理です。現代は野菜栽培に化学肥料を使うので、それを食べる私たちの下肥は化学物質だらけです。そんなものを肥料にしたら、農作物が汚染されてしまうでしょう(笑)。

田中優子法政大学総長

銅活字から製版に発展。印刷文化が知識向上に貢献

――江戸時代の知恵には本当に驚きますが、人々の知識向上に貢献したのは活字文化の発展だったと言っていいのでしょうか。

田中 最初に日本に入ってきた銅活字は、朝鮮王朝で仏典などの印刷に使われていました。秀吉の朝鮮出兵の際に持ち帰ったものを、家康が教科書を印刷するために導入したのです。これをモデルにして家康は「駿河版銅活字」を作りました。
しかし、全国に教科書を普及させるには膨大な量の銅が必要になるので、木製の活字に切り換えました。この活字を使う日本初の出版社が京都に誕生し、その後も続々と出版社が現れて庶民向けに『太平記』などを印刷しました。
読者が増えると、活字では追い付かなくなり、1ページ分をまとめて木に彫る整版が登場しました。整版なら、漢字の左右に別々のルビを付けること(両ルビ)も、絵を入れることも可能でした。絵と言葉が合体した黄表紙が大流行し、浮世絵と狂歌が一体化したカラー本も登場しました。

明治維新は知的な藩士たちによる革命だった

――教育需要の高まりが寺子屋の隆盛を招き、最後は明治維新につながるわけですね。

田中 初めの頃は武士の子弟が藩校で学問をしましたが、庶民も学問の必要性を痛感するようになります。農民は、商人が織物を買い付けに来ると契約書を交わします。一揆の際には要求文を書いて署名をします。何をするにも文字が必要だったのです。
寺子屋はそうした需要のもとで普及し、全国に1万7000ぐらいありました。特に教師の資格というものはないので、僧侶、神主、庄屋、医者、武士など、文字や算術が分かる人がボランティアでやっていたのです。授業料は、余裕のある家庭はお金を払い、なければ野菜などを持っていく。教師も本業を別に持っているので、お金にこだわりませんでした。本当に楽しい教室だったようです。
そんな教育の広がりが明治維新につながります。明治維新は知的な藩士たちによる革命でした。それまで藩士はいくら学問を積んでも、政権を担うことはできないし、まして幕府に物申すことなどできません。知性のある藩士ほど幕藩体制の矛盾に気づき、不満がたまっていました。
庶民も維新の意味を理解していました。島崎藤村の『夜明け前』を読むと分かりますが、幕藩体制が天皇制に変わり、西欧化するだけでよかったという人は少ないです。憲法や国会を設けて、自分たちが国政に関与できる国になるべきだと、そこまで考えていたのです。

男女別の寺子屋風景。『文学ばんだいの宝』一寸子花里 画 出典: 東京都立中央図書館特別文庫室

男女別の寺子屋風景。『文学ばんだいの宝』一寸子花里 画
出典: 東京都立中央図書館特別文庫室

人々は、俳諧や浮世絵などの「連(サロン)」に集い、ネットワークを築いていた

――ところで、ご著書の『江戸はネットワーク』では、俳諧や浮世絵などの「連」がたくさんあり、人々が刺激し合って才能を磨いたと述べておられます。江戸時代のネットワークのありようを解説していただけますか。

田中 連には、人々が身分に関係なく、本名とは別の名前で自由に参加しました。俳諧、狂歌、絵画、蘭学など複数の連に、1人の人がそれぞれ違う名前で参加するのです。1つ1つの名前はその人が持っている別々の才能に付けられており、みなアバター(分身)です。絵を描く連ではこの名前、作家としてはこの名前、俳諧はこの名前と、使い分けていました。
これは匿名ではありません。連の中ではそれが誰なのかは全員が知っています。江戸時代、アバターで生きていくのはごく自然で、特にその傾向が強かったのが武士でした。
武士は家を中心とした身分制度の中で生きており、家とその仕事は切り離せません。禄(給料)も個人ではなく、家に支給されますから、息子は代々、家に縛られ役割を果たさねばなりませんでした。
しかし、その役割だけで生きる人生など、とてもやっていられない。そこで、役割は維持しながら、現実には自分を好きな分野に分岐させ、違う名前で生きる。こうすれば家の役割は自分の一部でしかなくなります。例えば狂歌で有名な蜀山人=大田南畝(なんぽ)は、幕府の官僚でした。
町人も武士と同じことをやるようになります。黄表紙作家の山東京伝は、京橋の煙草入れ屋が本業でした。商人には商家を受け継ぐメリットがあり、本業は守る。けれども自分の精神や才能は別のところにあると思えば、アバターを作るのです。

連はまた、才能を磨き合う場であると同時に情報収集のための小さなサロンでした。それぞれは閉じられた関係ではなく、多くの場合互いにネットワークをつくって関わり合っていました。人々は複数の連やネットワークに意図的に関わり、しなやかにかつしたたかに変化する人間を演じていました。
こうして、江戸の人やモノ、情報は重層的に関わり、動き、変化し、時空を超えて伝播していたのです。

田中優子法政大学総長

現代社会の苦悩を解きほぐすヒントがアバターにある

――人が重層的に関わり合う連は、現代にこそ必要なのではないでしょうか。

田中 まさにそうだと思います。連は明治になった途端に捨てられてしまいました。象徴的なのは、正岡子規が「座で作る俳諧は文学ではない」と言ったことです。「文学とは1人でやるものだ」という近代西欧の思想の反映でした。
「関わりの中で創作活動をする」という形式は急速にすたれ、代わってヨーロッパ型の「1人の人間」「1つの名前」「私」「自我意識」「個人の自立」「自己責任」などの概念が登場します。互いの関わり合いが薄れたことは、現代社会の息苦しさや心の病につながります。本当は関わりがたくさんあった方が楽に生きられるはずなのです。

私は、1人の人間の中に複数の人間が存在することに驚き、研究にのめりこみました。アバター研究者の池上英子さん(米ニュースクール大学:The New School教授)は、米国の自閉症の人たちがアバターの仮想空間を作っていることに気づきました。そこで自分もアバターを作って交流を始めてみると、ものすごく創造性豊かな世界だったのです。米国では今や、自閉症や発達障害は病気ではなく、単に感受性の違いだと受け止められています。
アバターの世界は才能だけで測られる完全平等の世界です。江戸の文化はまさにそこで作られていた。現代社会の息苦しさや苦悩を解きほぐすヒントがあると思います。
今、私は池上さんと『江戸とアバター』(朝日新聞出版)という著作をまとめました。3月中旬の出版です。アバターの重要性がもっと認識されるようになるでしょう。

少子化により、大学は定員を維持するか学生の質を保つか、選択を迫られる

――話はガラリと変わりますが、今、少子化の影響で学生数が減り、大学の経営が難しくなっています。先生は大学のトップとして現状をどのように見ておられますか。

田中 大学の定員は文部科学省によって厳しく決められています。特に東京23区内の大学の定員は、わずかにオーバーしただけで補助金を減らされます。これは人口の東京への一極集中を避け、地方の大学が寂れるのを防ぐための措置で、10年間続きます。
このため入学試験が大変なことになっています。合格後に辞退者が出る歩留まりを考えて少し多めに合格者を出しますが、絶対にオーバーすることは許されません。入試では1次合格者の数を抑え、歩留まりを見ながら3次か4次の合格者まで人数を調整するのです。
今は23区内の大学には全国から受験生が集まりますが、この先、少子化が進むと、受験生は全国的に減ります。本学も例外ではなく、「定員の維持を優先して学生の質低下には目をつぶる」もしくは、「定員を減らしても学生の質を保つ」のどちらかを選択する時が必ず来ます。大学教育の在り方が真に問われるのです。

田中優子法政大学総長

 

女性は遠慮しないで上のポストに挑戦を。「世界の景色が変わります」

――先生は法政大学初の女性総長であり、東京六大学としても史上初の女性総長です。一方、日本の2019年のジェンダーギャップ指数は世界121位で、前年より悪化しました。江戸時代は識字率が世界一だったとも言われる我が国ですが、今の女性の社会進出の遅れについてご意見をお聞かせください。

田中 本学では女子の学部生は増えましたが、研究者をめざす大学院生は留学生以外増えていません。そのため女性の研究者や教員がまだ少なく、学部長選挙で女性が選ばれる可能性が低いのが悩みです。まず学部長にならないと大学全体が分からないので、その先の理事や総長にはなれません。
職員も全体では女性が多いのに、課長・部長職や役員は女性が少ない。ご本人が「私、いいです」と言って「遠慮」してしまうからです。そこには、女性が今置かれている何らかの社会的理由があるのです。遠慮しないように自薦をやめて上司が推薦する方式に変え、やや管理職が増えてきたところです。日本のジェンダー問題は大学も同じです。
上のポストに就くのは名誉の問題ではありません。社会的な役割を果たすことで、人間として成長します。教職員には「世界の景色が変わるから、ぜひやってみて」と勧めています。

TEXT:木代泰之、PHOTO:倉橋 正

田中優子(たなか・ゆうこ)

法政大学総長、江戸文化研究者
1952年、横浜生まれ。法政大学大学院修了後、助教授、教授となり、社会学部長を経て総長に就任。さまざまな改革で2017、2018年度の同大学の志願者数は東日本1位。 著書は『江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴』 (ちくま学芸文庫)、『江戸百夢』(朝日新聞社)、『江戸はネットワーク 』(平凡社ライブラリー)など多数。1986年 芸術選奨文部大臣新人賞受賞、2001年 サントリー学芸賞、2000年 芸術選奨文部科学大臣賞などを受賞。2005年には紫綬褒章受章。 IBM「天城学長会議」メンバー。