高齢化や後継者不足が深刻化する日本の農業において、農作物の成長促進、収穫増、秀品率や生産性の向上は喫緊の課題だ。こうした中、「日本を農業で元気にする」をビジョンに掲げ、ナノバブルウォーター(※)を使ったアクアソリューション事業を展開する株式会社カクイチ(以下、カクイチ)が、日本アイ・ビー・エム(以下、IBM)と共同で、AIを活用した散水システムの構築と農業用アプリの開発に挑んでいる。

農場に取り付けたセンサーから収集したデータをAIが分析し、最適な散水のタイミングなど、農業に有用な情報がアプリを通じて通知される……実現すれば画期的なシステムだ。データの「見える化」と「知の共有」によって日本の農業は変わると語る、同社代表取締役社長の田中離有氏に、デジタル変革がもたらす農業のこれから、さらに社会課題解決の可能性について聞いた。

※ナノバブルウォーターとは、直径が1μm以下の気泡を含んだ水のこと

農家が求めているのは、情報とコミュニティ

田中離有氏

——カクイチは、1886年の創業以来、さまざまな事業に取り組まれてきました。そうした中で、アクアソリューション事業をスタートしたきっかけは何だったのでしょう。

田中 長野県で金物店から始まった当社は、以来、鉄鋼製品の問屋、ガレージ倉庫やビニールホースの製造、ミネラルウォーター販売、ホテル運営と、常に時代を見据えた新しい事業に取り組み、継続してきました。創業132年の古い会社ですが、意思決定が早くトップダウンがきくことが強みだと自負しています。2013年には太陽光事業を手がけ、売電による収益が見込めるビジネスモデルを確立しました。この収入を次の事業に投資したいと考え、参入を決めたのが農業領域です。

金物屋を営んでいた創業当時から、お客さまの約8割が農家。ホースや倉庫も顧客の多くは農家でした。太陽光発電も、倉庫を買ってくれた方々と一緒に、その屋根を借りて始めた事業です。ならば、次の事業では「農家への恩返し」をしよう。そういう思いを込めてのスタートでした。

——そして始められたのが、ナノバブルウォーターの活用だったのですね。

田中 ミネラルウォーターの製造・販売を手がけていた当社では、飲料用に極小の酸素の泡(ナノバブル)を取り込んだ水(ナノバブルウォーター)の開発を進めていたのですが、あるとき、ナノバブルウォーターが農作物の発達を促すという情報を得て、農業用水の研究を始めました。

まず、酸素や窒素のナノバブルを含むナノバブルウォーターの生成装置を開発し、農業・畜産の総合展である農業ワールド(現:農業Week)における「次世代農業EXPO」に出展して、試用してくれる農家を募りました。反響は大きく、100軒以上の方々に協力を申し出ていただき、その結果、「農薬の量が抑えられる」「病気にならない」「作物の糖度が上がった」「収穫量が増えた」などの報告が寄せられたのです。次の段階として、課金制で生成装置の貸し出しを始めています。

このナノバルブウォーター生成装置および、ナノバブルウォーターと現象の相関関係については特許を出願中です。なんだか、ドラマ化もされた小説『下町ロケット』みたいな展開でしょう?(笑)

ナノバブルウォーター

——農作物への直接的な効果以外に、アクアソリューション事業が農家にもたらすものは何でしょうか。

田中 この事業を始めるにあたっては、これから訪れるであろう「ものが売れなくなる時代」を見越し、サブスクリプションによる「知の共有」を想定していました。なぜなら、長年にわたる農家とのお付き合いの中で、彼らが「情報」と「コミュニティ」を求めているとわかっていたからです。農業は縦割り社会で、隣の農家でさえ、いわばライバル。もちろん農家同士のつながりはありますが、深く情報共有までされている例は多くありません。

そうした農家に対し、共有できる情報を提供し、同時に農家同士がさらにつながれる仕組みやコミュニティを作りたいと考えたのです。ただし、この時点で想定していたのは、アナログな方法でしたね。

農家に提供される情報冊子

アクアソリューション事業において、農家に提供される情報冊子

ベテラン農家の勘を数値化して「知の共有」をはかる

——現在は、IBMと共同でナノバブルウォーターとAIを活用したシステムを開発しておられます。

田中 ここに至るにはいくつかの出来事がありました。1つ目のきっかけは視察旅行でケニアを訪れたこと。現地で、人々が利用している携帯電話の充電器に管理用のSIMが取り付けられていることを知り、当社が手がけていた太陽光事業でも、装置にSIMを取り付けて社内でコントロールすることを思いついたのです。ナノバブルウォーター生成装置にSIMを取り付けて状況を把握する仕組みも、その発想の延長線上にあります。

もう1つのきっかけが、イスラエルの酪農家訪問でした。そこでは、飼育している100頭の家畜すべてにセンサーをつけ、反芻や睡眠など1頭1頭のデータを取り、さらにそれぞれの健康状態もくまなくチェックしている。たとえば、乳に血が混じるなどしたらすぐに原因を追究できる環境であり、1頭の事例であってもノウハウとして蓄積する。つまり、集合知を増やすには、n数を増やすだけでなく、1頭をひたすら追うことも有用だということを教えられました。

同時に、水だけにフォーカスしていてもダメだと気づきました。農業は、土壌や温度など作地の環境が場所や時期によってそれぞれ違うため、再現性の低い事業と言われます。再現性を高めるには、温度や湿度といった生育環境のデータを集め、それらのデータから灌水や肥料のタイミングを決めるということをしなくてはいけない。つまり、当社の事業には、データを「見える化」することが必須だったんです。

そのため、まず既存のシステムとアプリを利用し、気温、湿度、地中温、気象などが測れるセンサーを各農家に取り付けました。次々と上がってくるデータをクラウドに貯めればビッグデータになります。データはAIを経て有用なデータとして農家に還元する。これが私たちの目指すビジネスモデルというわけです。

ベテラン農家の勘を数値化して「知の共有」をはかる

出所:カクイチ

——従来想定していたビジネスモデルに、知見が加わって、新しいビジネスモデルに昇華したのですね。

田中 このビジネスモデルは、サブスクリプションであるからこそ、プラスとマイナス両方の事例を共有して、還元する情報の価値を保ち・上げていくことが求められます。機械を販売して終わりのビジネスであれば、売るためにプラスの情報だけ集めればいいかもしれないですよね。また、お付き合いが継続するので、一緒に質を高めていく意識を持つこともできます。

とはいえ、私たちには、集まってきたデータを分析する術がありません。そこで、視察旅行をご一緒したIBMの方に相談して、共同開発を行うことになったのです。AIを使った農業ビッグデータの活用とナノバブル活用の掛け合わせは、日本で手がけているところはありません。「やろう。だれもやらないことを」をスローガンとする当社には、もってこいの事業で、これは面白い! と思いました。現在、データをIBMのAI「IBM Watson」で分析するために蓄積しており、将来的には、「気候・土壌データ、潅水データ、作物の収量・糖度」などの情報をAIで相関分析し、農家に対し潅水予測情報の提供、さらには意思決定支援まで行うことを目指しているところです。

田中離有氏

——システムの最終形としてどのようなものを想定しているのでしょうか。

田中 まずは、現在のセンサーを自前のものに替えること。そして、そこから上がってくるデータを解析し、灌水のタイミングなどを農家が判断できるよう、サジェスチョンまで行える農業用アプリも提供したいと考えています。

データの「見える化」を実現しているシステムはさまざまありますが、そこで見えるのは自分の農場のデータのみ。私たちが目指しているのは「知の共有」です。大勢の農家から上がってきたデータをクラウドに蓄積してAIで解析し、それぞれの農家の意思決定に役立ててもらえるようにアプリに落とし込むのが最終形です。

——それにより、どのような効果やメリットが期待できるのでしょうか。

田中 今、各農家は自分たちの肌感覚で、灌水など、農作物を世話するタイミングを決めていることが多い。温度や湿度を肌で感じるために、冬でもTシャツを着て作物を見に行くという人もいるほどです。こうした「ベテラン農家が持つ長年の勘」というものを数値化・データ化し、農業の再現性を高めていきたいですね。その結果、それぞれの作物の最適値を見つけられるようになるでしょう。

ただ、囲碁や将棋などと違い、農業にはルールがあってないようなもので、無限に“手”があります。さらに、プラスのデータだけでなくマイナスの情報も蓄積していきたいと考えています。もちろん、続けることで取得できる比較データも有用です。データが大きくなればなるほど大きな集合知となり、農家の役に立つものになるでしょう。しかも、作物の種類もさまざま。そう考えると、アプリは永遠に完成せず進化し続けると言ってもいいかもしれないですね(笑)。

「農薬の要らない」「借金をしない」という変革

田中離有氏

——AIによるサポートをはじめとしたデジタル変革は、さまざまな分野で進んでいます。日本の農業については、どのように見ておられますか。

田中 日本の農業は、残念ながら、農薬を多用し、機械を買うために借金をするという悪循環に陥っていると思います。これを、農薬を使わない、借金をしない農業に変えないといけません。他の業界に比べて、ITの導入も遅れていると思います。

これからは、従来以上に農作物に栄養価を求める時代になるのではないかと想像していますが、そのために、美味しく栄養価の高い作物を作り、かつ労働生産性も高めるには、AIの活用は必須だと考えます。気象予報は当然のこと、土壌を分析し追肥を決め、「作物を大きくしたい」「甘くしたい」といった最終目標に合わせてすべきことを決める。昨今の異常気象や気候変動を考えれば、病気の発生を予測することも必要でしょう? そういう農業を目指すべきだと思っています。

そのために、私たちは、再現性の低い現在の農業を“科学”にすることで、再現性を高めたい。そこにはビッグデータの活用が欠かせません。そういう意味では、当社のアクアソリューション事業はIBMなくしては回らなくなっています。IBMとともに、日本初の「農業におけるAI活用×ナノバブル活用」を実現して、農業変革を進めたいです。

——多くの農家の基盤である地域社会にも影響をもたらすのではないでしょうか。

田中 はい。ただこれはアクアソリューション事業の領域である農業に限りません。「知の共有」は、さまざまな場面で応用可能なビジネスモデルで、地域社会の資産を十分活用できると思います。実際、当社では、地域のコミュニティバスをサブスクリプションで提供することで、高齢者の行動データや走行データを得て、農業の繁忙期における人手不足解消や商業圏の活性化に役立てたいと考えています。街に新しい何かを作るのではなく、今ある街を“動かす”という考え方ですね。自分が年寄りになる前に、年寄りが元気に暮らせる環境を作っておきたいと思っています(笑)。

——地域社会が抱えるさまざまな社会課題を見据えているのですね。

田中 結果的に、いわゆるSDGs(持続可能な開発目標)につながっています。とはいえ、最初から社会課題を意識して事業を展開してきたわけではありません。農家をはじめ、私たちの大事な顧客に対し、どのような役立つ価値・製品を提供できるかと考えて取り組んできました。

今、IBMとともに開発に取り組んでいるAIを活用したシステムが完成し、農業変革が進めば、再現性の高い農業が実現するでしょう。再現性の高い農業は、先が見通せる上、収穫量つまり収入の安定や増加をもたらすと考えています。収入問題が解決すれば、農業が抱える課題の1つである後継者問題もおのずと解決に向かうはず。どんどん日本の農業にイノベーションを起こし、日本を農業で元気にしたいですね。

田中離有氏

TEXT:佐藤淳子、PHOTO:山﨑美津留

※本記事は、緊急事態宣言発令前の取材に基づいて制作しています。

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田中離有(たなか・りう)

株式会社カクイチ 代表取締役社長
1962年、長野県生まれ。慶応義塾大学商学部卒。1990年、米国ジョージタウン大学でMBA取得。株式会社カクイチに入社。2001年、同社代表取締役副社長、2014年、同社5代目として代表取締役社長に就任。カクイチ建材工業(株)・(株)カクイチ製作所・(株)岩深水・(株)シリカライム・アンシェントホテル浅間軽井沢・(株)アクアソリューション・稲栄総業(株)の代表取締役も務める。
カクイチは、1886年(明治19年)創業の老舗企業。ハウスガレージ・樹脂ホース・鉄鋼資材卸業・太陽光発電事業・ミネラルウォーター事業・ホテル事業・内装材事業・農業改善事業の8事業で、11のグループ会社を運営する。