一八四〇年代の終わりには、この騒動は大方忘れ去られた。北イングランドのある高僧がアショー校を訪問した時には、学校のお偉方は「生徒たちの示す自発的な、明るい、すすんで行う従順さに完全に満足している…アショー校における内面的な躾、敬虔、そして学問はもっとも申し分のないものであると判明した…」(4)と報告した。しかし、あの反乱は二〇世紀にまで続いた一つの影響を残した。一八三九年に任命された生徒監督は、すでにむち打ちを廃止していた。厳格過ぎた彼の後任者は、生徒への対応が「苛酷で非紳士的」であったと報告されており、この後任者があの騒動を引き起こした要因の一つであったことは疑うべくもない。しかしながら、この騒動が示した規律の欠如は、むちが再び導入されることを意味し、ラフカディオがアショー校に滞在した一八六〇年代にはむち打ちは生活の不断の要素だったようである。

 ラフカディオはアショー校に反乱の起きた二十年後の一八六三年九月九日にアショーに着いた。その年は、生徒監督であり副校長であったロバート・テイト博士が、その両方の役職よりも、彼が以前にもそうであったところのヨークシャーのヤヴァサワー家の狩り好きで、釣り好きな田舎牧師であることの方を選んだ年であった。またこの年はアショー校の急成長のみならず、十九世紀イングランドのカトリック主義の成長そのものが終末を迎えた年だった。すでにその頃までに過度のゴシック様式の復興は、英国国教会とカトリック教会の両方の建築物にその惨澹たる跡を残していた。カトリックの教権制度は一八五〇年に復興されていた。英国国教の中にカトリック教義を復興させようというオクスフォード運動による改宗者は―ある者は容易に、またある者は困難なしとはしなかったが―ローマン・カソリックの生活に吸収されていった。そして何人かの人は第一回ヴァティカン公会議で教皇の不可謬性の定義を認めるにいたる教皇至上主義運動の第一線にいたのである。スコラ哲学の回復、カトリックによる社会教育運動の発達、そして英国国教会の儀式についての論議は、その後数十年間にわたって続くものだった。ロバート・テイトは、であるから、互いに自信が共有されていた時代、いいかえると、北部の司教たちと学校の当局者たちの間の果てしない論争が多かれ少なかれ終わった時代―一八六三年から一八七六年まで―に、アショー校を統轄したわけである。じゃがいもの不作によるアイルランドからのカトリック教徒の流入はカトリック人口を急増させ、それはまた司祭の数の増加が必要なことを意味した。こうしてアショー校は、その需要に応じて大きくなり繁栄した。学校は改築された。全館暖房は、不十分ながらすでに取り付けられていた。だが、さらに博物館が設置され、読書室が装備され、新しい寮が建てられ、校舎の前を散歩道や庭が美しく飾った。新しい農場用の建物も作られ―この学校はある面では自給自足していた―、一八五〇年代半ばには、実験室と洗濯室が新しい診療室とともに付け足された。ハーン少年が現れる四年前の一八五九年に年少の男子収容用に別の建物が建てられた。

 今なお残っているアショー校の成績表には、ダブリンからのこの新しい生徒はいつもパディ・ハーンPaddy Hearnと、記入されている。彼の本名はもちろん、パトリック・ラフカディオ・ハーンであり、ラフカディオよりパディと短く呼ばれるパトリックという名前の方を用いたのが賢明だったことは間違いない。というのは、どんな男の子でもラフカディオといったような異国風の名前を仲間の目にさらしていれば、情け容赦なくいじめられるのを覚悟しなければならなかったからである。だが「“パディ”という名は彼がいい奴で仲間の一人であることを意味した(5)」。どうみても月並みな名前は知らず知らずに人を魅した悪戯ぶりと、勉強では平均以上の成果を修めなかったことと釣り合っている。

非常に目立つ子で(6)、一風変わった手のこんだ悪戯をよくした。彼は全体的に見てここで幸せだったといえると思う。彼にはいくらでも言うことがあったし、とても変わり者たった。監督者の側からすると必ずしも望ましい少年ではなかったが、彼の茶目っけいっぱいの態度や陽気さは、彼の数知れぬ突飛な悪戯を怒る気持ちを和らげてしまうのだった。おそろしく奇妙な少年で、騒々しい考えに夢中になっていたから、異なった環境下でなら何をしでかすかわからないと感じさせた(7)。

 学校の当局者にふざげた態度を取ることで学友たちに慕われるという悪戯っ子のほとんど紋切型のイメージは、彼の勉強の出来がよくなかったことによってますます強められる。数学にはあまり興味を示さず、歴史には気紛れな意気込みを、ラテン語とギリシャ語はまあまあか良かった程度。だが一つだけ例外があった。ラフカディオは、入学当初から一八六七年十月二十八日に十七歳でアショー校を去るその時まで、英作文では常にクラスで一番だったのである。

かわいそうなパディ・ハーン!(8)悪戯の案に喜び輝いている彼の顔が今でも目に浮かびます。それでもって学校に一騒ぎ起こしては、いつもむち打たれるのでした… 彼はいつも「三月の野兎のように無鉄砲」であると思われていて、先生たちの厄介者でした。彼はたくさんのむち打ちの罰を笑いとばしたり、その罰や枝むちなどについて詩を書いたり、また実際、かなり無責任なものでした(9)。

 ニーナ・ケナード(10)に続いて、エリザベス・スティーヴンスンもこの箇所を引用するが、枝むちの“birch”という語を誕生の“birth”にして先行する部分との意味をつながらなくする不可解な説明のつかない変更を行っている。そのため彼女は角括弧で〔処女受胎〕という役に立たない説明を補うことを余儀なくされている。彼女はこれによって、ラフカディオの権力者に対する反抗を、さらにその権力が由来するところの宗教に対する反抗にしようと試みた。この反抗は早晩起きるが、しかし、この場合はアナクロニズムである。ラフカディオがカトリック信仰から離れていく部分的な責任がアショーにあるのは間違いない。そしてこの離脱は次には彼の日本に関しての観察において表れるあの顕著な特徴、カトリック信仰を広めようとする人々―宣教師を嫌い、ひいてはキリスト教全体を嫌うに至るあの特徴となるのである。

 アショーの豊かな礼拝儀式の中には彼の内に生まれかけつつあった審美的なものに訴えるなにかがあったに違いない。彼が人生の後半で客観的に思い返しているように、それは「それ(儀式―訳者)全体の詩情」(11)であるが、これが後には霊的で超自然的であった幼年時代と青年時代への興味に結び付き、西インド諸島と日本で発展されることになる。

いくつかのラテン系の国々においてカトリック信仰は―信仰の内にお化けや悪い霊や良い霊の広大な世界を有していてそれが各人の身近にあり、―その世界の幻影、そこの奇跡、そこの金や銀に塗られて祭られた頭蓋骨に骨、―そこの世界にある残虐性や慰め、―そこには誘惑を作り出し、欲望をいらだたせる禁欲がある、―これら全てをわかるためには、異教徒の生活かオリエントの多神教の実際に触れたことがあるか、あるいは西洋の古代の多神教を深く理解しなければならない(12)。

123456789