友人の一部はこの結婚の後、彼から遠ざかっていった。しかし、もっと重要なのは彼が絶えずしていた新聞の仕事と校正のために目が受けた損傷である。マティと別れてから相当の月日が流れてから、彼はメンフィスから友人のヘンリー・ワトキンに、痛みを感じることなしに読むことが出来ないと書き送った。そして、彼が休暇からアショーに戻って来た時にちょうどしたように夜には涙にくれると告白した(33)。

 彼は視力を完全に失うのを心の底から恐れていた。アショーでの災難はこのように彼に消えることのない跡を残したのである。このことは、逆に、まさに対照的なのであるが、彼が日本人の目の形と様子を描写した仕方に見ることが出来る。

 私は日本人の目は西洋人の目が持っていない美しさを持っていると思います。……私がいままでに見た一番美しい目は―大層私を魅惑して、独身時代にいくつか愚かなことをさせた目は―日本人の目でした。それらは小さくはありませんでしたが、すこぶる人種的な特徴を持つ目でした。睫毛は長く、目も切れ長でした。それらが人に与える印象は、大きく素晴らしい猛禽鳥の目の感じでした。日本にも素晴らしい目が、それを見ることの出来る者にはあります。…

 日本人の瞼の美しさもあります。大層珍しいが非常に不思議な瞼です。それは瞼の縁が二重になっているように見え、そうでなくともきれいな溝がついているのです。それは説明しにくい、柔らかな陰影をつくります。

 しかしながら、日本人の美しい目の美しさは主としてその特徴となっている構造上の固有なつくりによると思います。眼球は外に見えません―はめこまれている部分は全く隠されています。滑らかな褐色の皮膚がまったく突然、奇妙な感じできょろきょろする玉の上で開きます。さて、西洋人のもっとも美しい目では、眼球が頭蓋にはめこまれているのが見てとれます、―球状の形全体、それに眼窩を型どる線が―特別な場合を除いて見えます。目の仕組みがはっきりと見てとれるのです。全く芸術的な観点からすると、私は仕組みの隠されている方が自然の手柄は大きいと思うのです。……その「背後にある機械」―骨と神経からなる機械―をあまり見せない方が、今の私にはより素晴らしい魅力を備えているように思えます(34)。

これが日本の人の目である。三十年近く前に、美しい目の輝きを失うことについての辛酸な知識をくまなく身でもって知った人が情熱的に観察した日本の人の目の構造と美しさである。

 さて、私たちはラフカディオの一生に永遠に影を落とした要素を二つ、アショー校時代から拾うことが出来る。一つは内面的なもので、ダブリンで体験した幼年期の恐怖と結びついた、美の破壊者であると彼には思われたカトリック信仰から次第に離れていったことである。もう一つは外面的なもので、彼の視力を部分的に損なった事故である。

 彼の信仰喪失は自然の結果といえ、そのことはやがて彼の日本史観や十九世紀日本の見方に顕著になる。つまり彼の宣教師や伝道活動に対する嫌悪として表れる。一部分には、この嫌悪は日本におけるいかなる類いの変化も悪化を招くのはほとんど必至であるという不信の念に基づき、日本で試みられたキリスト教の伝道が主要な変化の道具の一つであるということにももちろん基づく。この考えは彼の最後の作品、『日本―一つの解明』の中の「反省」の章でもっとも明瞭に述べられている。

社会学の見地から見ると、宣教師制度というものは、宗派とか教条とかに関わりなく、すべて昔の型の文化をおしなべて攻撃するという、西欧文明の小競合の力を代表したようなものだ。つまり、強大な、高度の進化をもった社会が、弱小な、進化の低い社会に向かって進撃する、第一線の部隊みたいなものである。これらの闘士の自覚しているしごとは、宣教師と教師のしごとであって、無意識のしごとは、工兵や駆逐艦のしごとなのである。弱小民族の征服には、かれら宣教師のはたらきが、想像も及ばない程度まで助力してきたのであって、ほかの手段では、とてもああ急速に、ああ着実に、実があがるものではない。物を破壊するとなると、かれら宣教師は、まるで自然の力さながらに、夢中になって働く。そのくせ、そのわりにキリスト教は、さして目立って広まっていはしない。宣教師たちは決死だ。そして、兵隊の勇気以上のものをもって、じっさいに生命を投げ出す。それは、彼らが望むような、東洋諸国が今ではかならず拒絶するにきまっている教義を広めることに助力するためにではなく、産業上の企業と西洋の拡張とを助けるためにすることなのだ。伝道のほんとうの目的、公約した目的は、社会学の真理に頑迷にそっぽを向いているために敗北してしまって、そのかわりに、殉教と犠牲とが、キリスト教精神に本質的に反した目的のために、キリスト教を信じる国民によって利用されている(35)。

 これはもちろん、反キリスト教の立場の場合の啓蒙を十九世紀の用語で表明したものである。しかしこの社会学的な理由づけの背後にはラフカディオと同時期に日本に滞在した宣教師たちに対する敵意があり、また彼等の生活態度が思い起こさせるヴィクトリア朝のピューリタニズムと何年も昔、ラスマインズに住んでいた時の家庭教師やアショー校のスパルタ的な制限の中に見出した肉体美に対する不信への敵意があるのである。

 美的な要素も十九世紀以前の日本におけるイエズス会士の伝道活動に対するハーンの批評の一部分を構成する。カトリックが一神教として原始的な祖先崇拝よりも進んだ段階にあると認めながらも、それは「古代の家族形態が解体し、孝行の感情が宗教から忘れ去られた」社会にしか適応しないと主張した(36)。中国社会も日本社会もその段階に到達していないのだから、「イエズス会の宗教」が日本の社会状況に適応することは決してありえない。家康がこれに対してとった抑圧的な処置は「最大の危機の国家的認識以外のなにものでも無いことを社会学的に意味する」(37)。これらはカトリックの布教の成功は日本社会全体の崩壊を伴うだろうという認識であった。

 ラフカディオは社会学者だけでなく、芸術家たちも伝道の失敗を喜ぶべきだという。なぜならば、それは日本の芸術や伝統、信仰、風習の領界を残存させることを可能にしたのであるから。「もしカトリック布教が成功していたら、これら全てが日本から一掃されてしまっただろう。伝道にたいして芸術家たちが自然に抱く敵愾心は、宣教師が常にそして必然的に情け容赦の無い破壊者であったという事実にある。… たとえ彼らにあの不思議な美の世界―二度と繰返すことも出来なければ、戻ることも出来ない民族経験のもたらしたもの―を理解し感得出来たとしても、彼らは一瞬たりとて抹消と撲滅を遂行するのをためらいはしないだろう。(38)」

 ラフカディオが宣教師たちに昔から抱いているこの反感の裏には非常に個人的な要素が含まれている。そして、彼は両者がたがいに敵意を抱きあっていることを確信していた。熊本で不幸せな日々を送っていた時期には、宣教師たちが彼に対して何らかの陰謀を企てており、学校の同僚の一人が彼を見張り、彼らに報告していると確信していた(39)。これより以前にもチェンバレンに宛てた手紙の中で松江の宣教師について詳しく語っている。

 松江の外国人はいかがかとお尋ねでした。なにか特殊なことでなければ、あなたが御望みのどんな情報でも提供することが出来ると思います…

…B―氏の前にいたろくでなしどもの名前を度忘れして今思い出せないのですが、だからといってこの話が台無しになるということはありません。彼等はことに士族の娘たちを改宗させるのを目標としました。彼女たちは教育されている上、影響力をいくらかまだ持っていることになっていたからです。それに彼女たちはひどい貧しさに喘いでもいました―希望はなく、飢えており、死を選ぼうかそれとも身を売る不名誉を選ぼうかともがいていました。武家の女性たちは貞節に対して強い意志を持っていましたから。宣教師たちが必要としたのはその土地出の改宗者でした。彼らは一人の女の子を雇用するという約束でもって彼らの説教者にさせました。もちろん改宗者となったことで、彼女は社会の除け者となりました。家族は彼女を見捨て、人々は彼女を蔑みました。彼女はいわばお人よしだったのです。無邪気に弱々しく話し、その様子はいかにも彼女が説教者にならざるを得なかった逼迫した状態を示していました。人々は彼女に耳を傾けませんでした。宣教師たちは彼女が使いものにならないと放棄しました。それからは誰も彼女に仕事も助けも与えてくれませんでした。彼女は売春婦になりました。ですが、売春婦としてさえも改宗活動と関わったことは、彼女の評判を芳しくないものにしました。それで彼女は大阪の売春宿に売られたのでした(40)。

 あたかもこのつじつまの合わない宣教師の女の子の待遇についての残酷物語と調和をとろうとするかのように、ラフカディオは同じ手紙の中で続けて、自分のアショー校の少年時代の体験を考察する。そこに描かれていることは事実を曲げたもので、それは三十年の年月を経た歪んだ視線から見られたものだった(アショー校は全く修道会とは無関係な学校で、イエズス会とのつながりは全然無かった)。

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