ところであなたがカトリックについておっしゃったことは、私の琴線にふれます。もう御存じだと思いますが、私の親戚の人々はかつて私を聖職者にしようとしました。父はエピスコパル派に属していましたが、インドで亡くなってから私は親戚の手に預けられ、イエズス会の学校に入れられました(41)。イエズス会の基準からすると私は悪魔の化身で、それに適った扱いを受けました。どんなに彼等を憎悪したことでしょう。私の無力な恨み心は、皆殺しや残酷な拷問を想像することでようやく治まるのでした。彼らを嫌悪してますし、いまだに彼等のことを夢に見てうなされます。それにもかかわらず、時には僧になりたいと半ば願うのです。これは空想です。私は、ゴシックの丸天井(オジヤイブ)のはりや子牛皮革製の書物のつまった蔵書室がステンドグラスの窓越の光で照らされていたりする争いからは無縁の理想的な修道院を夢見ていたのです。しかし現実はブラウニングの『スペイン僧院での独白』(“Soliloquy of the Spanish Cloister”のようでした。それでも古いカトリックには夢の世界がまだありました(42)。

 ラフカディオがアショー校の仲間に大胆な若気の無神論者というイメージを残していったのはそのとおりである。しかし、彼と同学年の友人のアキリーズ・ドーントが思い起こしているように、彼のその当時の無神論は一部には間違いなく人々に衝撃を与えたいという願望から出たものであった。

彼は極めて思索的な思考の持主で、私はある日彼が聖書に対する不信を表明した時にそれが私たちに与えた衝撃の大きさをまざまざと覚えている。しかしながら、私は彼がその時はただ宗教を信じない人のふりesprit fortをしていたのだと思う。というのは、幾日か経って授業が田舎でなされた週の最中に、彼は先生と論じ合っているうちに再びこの主題に戻ってきた。そして、彼が私に言ったことから、私は彼が聖書が真理であることの様々な証拠に至極満足したのだと思ったからである(43)。

 エリザベス・ビスランドによると、ラフカディオは、教会は、その決して忘れることのない記憶力と何一つ見逃さない目で、彼の背信を忘れたことも許したことも、時折その事実を彼に思い出させることをも一瞬たりとも怠らなかったと確信していた。

この確信は彼の一生涯を通して、薄暗い脅迫的な影をその背景に落とした。このことで与えられたどのような諌言にもただ「あなたは教会について私のようには御存知ないのです」と答えるのみであった。そして、彼の人生の危機において起きたいくつかの奇妙な偶然は、そのことを証明し確かなものにするよう思えたのだった(44)。

 アショーに関する限り、これには一片の真実が含まれている。その上そう確信するに至った原因は「背信」一つだけではなかった。ヴィクトリア朝の神学校の目から見ると、ラフカディオは単に背信の罪を犯しただけでなく、数知れぬ他の罪をも犯しているのである。彼はシンシナティで女性と同棲した(「結婚」したのはそれより後だった)ことがあった、しかも悪いことに相手の女性は白人ではなかった。さらに後に日本で日本女性を妻に娶った時、彼は自分の名前と国籍を捨てたばかりか妻の宗教をも娶ったのだ。ラフカディオの死からわずか数年後に、マクレヴィー氏はアショーの学校精神が大英帝国を想定していたことを回想しながら当時の愛国心を思い起こしているが、その中には職員と生徒がそれを分かち合わなかったことを示すようなことはどこにも書いてない。

英国は議論の余地なく世界一の国であった。富でも、例をみない領土の広がりからも一番であった。このことは考慮すべき現実であった。その現実に囲まれた私は父の膝の上であたかも自分がこの偉業を成し遂げるのに一役買い、多大な恩恵をこうむったかのごとく、このことを小おどりして喜ぶように教えられた。愛国心は実際風土病で、国家的信念の一部であった(45)。

 ラフカディオの、軽罪―取り沙汰されている限りにおいて―は彼の母校では明らかに三つの別個の強い反発を買った。宗教的、道徳的、そして愛国的な反発を買ったのである。最も近年のものでは一九六四年に出版されているアショー校の学校史があるが、このイングランドの北東部のどうでもよい、瞬時に忘れ去られてしまうような聖職者についてのありとあらゆる言及で充満している本が、ラフカディオについてどこにも触れていないのは興味深いことだ。一方で、ラフカディオがアショー校を去った三年後に入学し、彼がロンドンやシンシナティで経験したいかがわしい場所での生活を、彼よりも長い間彼と変わらない汚い生活をした詩人のフランシス・トンプソンには字数がほんの少し割かれている。これは退廃的な九〇年代にトンプソンが教会の範疇に居続けたので、言及するに価したのである(46)。

 ラフカディオの名前が漏れていることをますます不思議にするのは、この学校史の参考文献が、かつてアショー校の生徒で、後に同校の英語の教師となるマーティン・ヴェイジーの『アショー・マガジン』に一九四〇年に掲載された「アショー出身の著述家たち」と題された記事(47)を挙げていることである。

 ヴェイジーは率直にラフカディオをアショー出身の世俗の作家の中で最も秀でた作家とし、三ページにわたって彼のことを説明している。そこに描き出された人物像は感傷的で病的な人柄の持主で、こういった性質ゆえにラフカディオはカトリックを不幸と結び付けたのだとされている。つまり、感情に流される人間で、「その結果(48)、有形の神との物質的な結合の方を求めたのである」とされている(49)。

 ヴェイジーはラフカディオが仏教に「入信した者」であるという説を受け入れることを拒み、ラフカディオが自分で自分を汎神論者とし描いている記述を繰り返している。そのために『異国風物と回顧』の私たちに馴染みのあるエピソードにまで遡って、それをアショーでの出来事だとしている。

 少年の頃、草叢に仰向けになって真上に広がる夏の青空を見つめながら、自分もあの中に溶けこんでその一部分になってしまいたい、と強烈に思ったことを今でも憶えている。こうした空想は、ある信心深い先生の責任なのだが、ご当人にその覚えはあるまい。私が何やら夢みたいなたわいのない質問をした時である。先生は、その時の言葉を借りれば「汎神論が馬鹿らしく邪悪なこと」についてお説教を始めたのである。それを聞いて私は、たちまち汎神論者になった。まだ年端のゆかぬ十五の時である。そしてほどなく私は、空想の中で大空を遊び場にしたい、いや大空そのものになりたいと思うようにさえなった(50)。

 ヴェイジーはラフカディオは「例外中の例外」で、彼の人生は「アショー出身の人々に期待されるその種の人生からははなはだしく逸れているように見受けられる―彼の人生を形成する上で彼の母校が果たした役割を評価するのは甚だ難しい(51)」と結論づけている。この結論に同調する人は多いであろう。なぜなら、影響は多分に否定的であったからである。アショーがラフカディオに教えこもうとしたほとんど全てのことに対し、ラフカディオは断固として反対の道を進んだ。しかしながら、彼がその動揺の激しい思春期を過ごしたアショー校が、彼の人生における多大でしかも永続した変化の「実際に起きた場所」であったことは確かだと言い切ることが出来る。その変化は内面的にはキリスト教に対する敵意を伴う再評価であり、外面的には他の人々との関係の在り方についての彼の考え方を永久に変えてしまうことになった、なんでもない遊びのあの一瞬におこった身体と心の傷による変化である。

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