私の論文はここで終わるべきであるが、この論文の主題に関連するいくつかのことを補足したい。それは宣教師問題と関係している上、松江と特に因縁が深いことなのである。

 これらの補足は松江をはじめ、日本のその他の地域で一八八〇年二月十二日から一九〇九年一月二十一日にかけてつけられた日記の写しがもとになっている。この日記の作者、ジリアン・メアリー・バークレー Gillian Mary Barclay 旧姓。バークベックBirkbeckは、若い宣教師、ジョゼフ・ガーニー・バークレーJoseph Gurney Barclay(日記の中では“G”と記されている)の若い妻で、ノーフォークのビクスレーに一八八二年十月二十五日に生まれた。彼女は一九〇五年に結婚し、その三年後に日本に赴き、一九〇九年五月十五日に没した。彼女は息子を一人残して死んだ。裕福な教養のある家の出で、明るい情熱的な性格の持ち主であったようである。「長女のギリーが一家の中で最も非凡であったと思う」、とコンスタンス・シトウェルは彼女の自叙伝『輝く朝』(Bright Morning)(52)の中で、バークベック一家について述べている。「色白の明るい顔付きと熱烈な性格の彼女は、私たち少女の仲間の中でもっとも活発でもっとも夢見がちな少女だった。年月が経つにつれて彼女は非常に信心深くなった。結婚後、彼女は日本に行き、そこで二十六歳で亡くなった。」

 コンスタンス・シトウェルはバークベック家の愛情と友情、それに「並外れた純情さとはつらつさ」について語る。ジリアンがその哀れな、あまりに短い伝道生活の中で自分の熱烈な宗教心が、つまらない喜びのために不必要きわまるやり方で水をさされたように感じたのは明らかである。夫のガーニー同様、彼女は英国国教会に属することにした裕福なクエーカー教徒の銀行家の子孫であった。悲しいかな、彼女はそう長くは生きながらえなかった。松江で一年過ごした後、一九〇九年二月二十二日に息子ロデリック出産のため神戸に向けて発ってから三ヵ月もしないうちに亡くなった。

 彼女は定期的な間隔で日記をつけ、自分で描いた絵や写真とともに家に送った。彼女の日記をタイプした人は、筆跡が判読しにくかったとみえる日本語の固有名詞を誤って写している(たとえばMiyajimaがMiyajiniaとなっていたりする)。それに絵や写真はこの写しとともに伝わってこなかった。にもかかわらず、この二百ページにわたる記録は明治末の松江生活の魅力的な一面をとらえた記録であり、一プロテスタント宣教師のみならず彼女の周りにいる同僚や改宗者たちの動機や性格をも浮かび上がらせる。

 彼女が育ったイングランドの何不自由ない環境とケンブリッジでの幸福な結婚生活は、彼女が社会に関心を抱くことを妨げなかった。彼女は苦しみに対しても幸せ同様に目を向けることが出来た。同僚の宣教師たちが課した服装や振舞いの基準に従おうとする彼女の気持ちが本物であることは間違いない。だが、苦悩して(時には激昂して)自問する様子の中に常識がちらつくのもまた明瞭である。彼女は日本の視覚的な美にラフカディオ同様気づいている。彼のように彼女も髪型や花、蝶に留意する。彼と違う点は、彼女が蝶を除いた松江の虫の世界を暑い夏の月々のさ中には煉獄のように感じていることだ。

 しかしながら明治時代の松江に関するこの証拠文献を引用する理由は、ラフカディオの宣教師の振舞いについての見解が正しいことを裏付けると同時に、またある面では彼の認識が誤っていたことを示唆する文献を提供することにある。ジリアン・バークレーの観察は、彼らの振舞いがいかほどに善意と献身の精神から発したものであっても外国人の群居地、日記で言う「居留社会」the Community なかでも神戸と軽井沢では、自分たち以外の居留民に対し偽善的な態度をとることがあったことを示している。宣教師たちの服装と振舞いは詭弁的にピューリタン的で、それによって生命に満ちあふれる若い娘の当然の喜びと審美感が否認され、抑えつけられているのが感じられる。

 実に興味深いことだが、ジリアンはラフカディオのことを耳にした気配を一向に見せない。日本について書き、その頃には非常に名の知れていた作家が、自分が変化に満ちた一年を送った町に住んでいたことがある、ということを全く知らなかったようである。日記の一項目の中で、「宣教師でない人々」は何百マイルにもわたっていないと書いている。これはかつてのハーン一家の存在に触れることをうながしたかもしれない言及であるのだが。それに結局のところ、彼女が松江に着いたのは、彼の没後わずか四年しか経っていなかった時なのである。

 残念ながらジリアンの同僚の宣教師たちに対する観察には、全くの階級的な俗物性が顔を見せることもある。

なぜか私は(彼女は一九〇八年三月二十六日に書いている)日本女性との方が宣教師たちとよりも真の姉妹だと感じるのが簡単であるように思います。真の宣教師たちとはあるいは難しくないのでしょう。彼らは大概素晴らしい聖人で、その外見なんかは目につきもしないのですから。ただ、自分がその人々の友人には不相応だと感じるだけですが、「半端な」宣教師たち、L婦人のような人ですと、その狹くて浅薄な知性の果てしないお喋りはじっと聞いているのが耐え難いものなのです。故国の村の商店のおかみさんと同じ位の階層の出で、彼女のえこひいきはひどいものです!話すことといったら服装(彼女のおしゃれの試み、色の褪せた青いベルベットの飾り、ぼろぼろになった白いだちょうの羽飾り、等のことは説明しないでおくことにします)と召使いとのごたごたのことばかりです…

 …けれども、こんなことはあまり日曜日に書くのに相応しい事柄でないので、ここで筆を置くことにします。

しかしながら、服装を軽んじる人はもっと問題なのである。

ウィルクス氏と多分彼の雇っている人の一人だと思うのですが、某ハリソンさんが朝食後、乗り込んで来ました。ハリソンさんの格好を目にした時、私はかぶろうと思っていた花飾りのついた帽子が華々しいのに恥じ入って、慌ててしまおうとしました!服装はややこしい問題ですわ。(一九〇八年三月十九日)

私たちは、宣教師たちの生活様式について、ラフカディオ的な、だがアンビヴァレントな激昂を一九〇八年八月二十四日の項に見出だす。その中での二つの問題がかなりの長さにわたって提起されている。一つはすでに喧しく論じられてきている服装の問題で、もう一つはスポーツに関する問題である。両方とも気のつかない新参者にとっては明らかに落とし穴であった。

 私たちがイギリスを発つ前、あちらには宣教師として行くのか、それともガーニーの奥さんとして行くのか、とたくさんの人々に聞かれて大変楽しんだものでした。そしてその時、私はその両方として行くんです、と返事したものでした。けれども、そのどちらかであればどんなに簡単でしょう!どちらもうまくこなさないのはもっと簡単です。家を持ったことのある人は、すべてをうまく運ぼうと思ったら、その考え同様、どんなにきりのない「時間」がそれに費やされなければならないか知っているでしょう。こちらではそれを自分たちだけでは何も出来ない日本人の召使いをつかってやらなければならないのですから、ましてやそうなのです。

 このように次から次へと押しよせてくる用事を一人の手に全て抱えていると疑問を覚えざるを得ません。一体どのくらいの時間をこれに費やすことが正しいのでしょうか。

 食事と調理は、Gの伝道の効率に関わるので全く別にするとして、家を快適にするための細かな手間、「花を飾る」のなんかはその一番些細なことの一つだと思いますけれど、そういった健康に関する限り「必要」ではないものに費やされる時間は、キリストの教えを広めるために一番有効な用いられ方といえるかしら?

 …Gと私は何人かの宣教師たちと共にお昼によばれました。私たちが日本に来てから会った人々の中で一番素敵な人々だったと思いますわ。世の中でもっとも信心深い、利他的な、誠意のある一心に働く人々でしたわ。私は彼等の部屋、絵は飾られず……敷物もなく、食堂も客間の区別もなく、家具はほとんどがシッピンク用の箱から出来ているように見える部屋を決して忘れないでしょう。二階も見せてもらいましたが、そこはイギリス人の召使いならほとんどがそこで寝たがらないと思われる荒涼とした屋根裏部屋で、シッピンク用の箱からなる家具がさらにあり、いかにも固そうなべッドがありました。ガラテヤ人への手紙、第二章二十節の「生きているのは、もはや、わたしではない」の箇所が、あの家中に見まごうことなく書いてありましたし、その続きの「キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」の箇所は、彼等の輝く顔に書かれていました。そして、私は家の客間に戻った時、これらの人々がふかふかしたクッションのある私たちよりも、ずっと「まくらする所がない」キリストの近くに生きているという考えが頭に浮かびました。

 ですが、ソロモンの高潔な女性は「家政を良くとりしきった」し、その家の中がみっともなかったり、片付いてなかったりしているのを想像するのは難しいですわ。彼女の服装も「紫の上等な麻」から作られていました。こちらで服装が問題になることったら!家では一切がとても簡単でした。買いに行く前にお祈りします、選んでいる最中は服装についてよく考えます、キリスト者に相応しい服を探し、みつけます、そして買ってしまったら面倒臭いことは全部終わり。ここではきれいなものは全てみだらだともっと熱心な人々に思われていて、夜に洋服をかえることは一切(下品なドレスに着替えるという意味ではなくてよ)非キリスト教的だと思われています。こちらで私たちがもっとも親しくつきあっている友人の一人はGに、夜に着用するための服を所持することさえ誤ったことだと思う、と言いました。大半の人々が着ているひどい洋服を選ぶのは、普通の服を選ぶより余程時間がかかるに違いません。着るものについて日本に来てからほど考えたことは、今までないと思います。フリルやレースの端切れ一つ一つに、これは大丈夫かしらと神経を尖らせ、飾りには気がつかれないことを願い、ボタンはもぎとり、帽子は平たくするんですのよ!

「バビロニア的な奢侈な服装」をしはすまいかという彼女の心配は、彼女が切望するキリスト教の復興を妨げるかもしれない。ジリアンは休日やスポーツについての考え方にも負けないくらい当惑している。Gはテニスラケットを日本に持ってきたのだが、運動は必要ではあるが、歩くことの方が運動としてよりためになるであろうと教えられる。

……私たちはこちらに来るまで、テニスや他のスポーツ全般、それどころかありとあらゆる形の娯楽全てに対してそそがれる批判的な感情が、ある特定の人々(明らかに最も優れた、熱心な人々)の集まりの間でどんなに強いかに全く気づきませんでした。私たちは実際に「楽しい夏を心待ちにしている哀れな宣教師たち」のためのお祈りを耳にしました…

衣服や家具、スポーツのみならず、装身具はそれらよりもさらに忌むべきものであった。

(一九〇八年五月二十二日)
 有馬で迎えた二日前の朝のこと、一人の宣教師がちょうど朝食をとりに行こうとしている私を呼び止め、装身具をつけるのは止すべきだと思わないか、と聞いてからこのかた装身具のことで大変落着かないでいます。私はそのことをお祈りしたことがありますと返事し、自分はそのことを悪いことだなんてこれっぽちも思っていません。装身具を身につけるのは飾りたてるためではなく、それらを私にくれた人々を大切にするからです。さらに、エリザベスやジェーンに装身具をつけることが、松江でなにか毒になることがあると思うかと尋ねたら、二人共そんなことはないと言ったこと、ボザンケットさんも、私たちのところにいらした間にご相談したら、そうお答えになったことも言いました。けれども彼女は私の装身具に気がついたのは彼女だけではなくて、他の人々もそのことやいかにもっと質素な衣服に私が身をつつむべきか、等々を話題にしていると続けました。このことは私をとても惨めな気分にしましたわ。灰色と茶色のオランダ布の服ばかり、それにときたま深緑の服をいつまでも着ていたので、自分の服装は本当に質素だと思っていたんですのよ。もっとも神様が万物をこんなにも美しく作られたというのに、色彩がなぜいけないのか私にはわかりかねるのですけれど。神様が気になさるわけがないわ、神戸にいる宣教師の一人の像を私がここに描いてもひねくれてるなんて思わないで下さいね。彼女は、髪を出来るだけきつく黒い頭巾の下にひっつめている、なにしろ「ばばむさい」人なのですが、私にはこんな様子でいることが神の栄光だとは考えられないのですもの!

 ジリアンの弱くはあるが、いかにももの足りなげに身辺の美しさを正当化しようとする神学的な試みには共感を覚えないではいられない。

123456789