私は、家を美しくしたいという本能すらもが、誘惑と化すかもしれないと考え始めています(53)。
 どうか私たちがこれら全てのことに分別が持てるようお祈り下さい。私はどう考えたらいいのか、どれについてもはっきりしないのです。美しい家の方が見苦しい家よりもはるかに憩えます…それに今度は裕福な日本人についても考えなければなりません―彼等はおそらく、美しい家のあることで入信を妨げられはしないでしょうし、それどころか神様は彼等をひきつけるために素敵な家を用いられるかもしれません。あれだけの兵隊が十月に松江に来るにあたって、私たちは将校の奥さんたちや似たような人々のことを考えてさしあげなくてはいけないのではないかしら?

彼女は日本の美しい寺社と宣教師たちの建てた教会との対照にも苦しんでいる。

長崎のあの素晴らしい神社の中に座ってみてからというもの、私は日本人がキリスト教徒になったら、彼等のお寺が教会にできるように祈りました。シチリアの異教徒の寺院でそうしたのですから、こちらでそうしてはいけないわけはないと思いますの。日本人の人々のありとあらゆる美を愛でる心は、私たちが造るぞっとしない小さな教会や伝道用の部屋といった一切が全く非日本的なものをどう思っているかわかりませんわ。彼らには、キリスト教はなるべく東洋的な姿で示されなければいけないように思われますの。私でしたらば教会の一つ一つを人々が座ったり、黙想したり出来るとても美しい庭の中に建てるでしょう。

(一九〇八年四月八日)

 ラフカディオがどんなにこのキリスト教による寺社接収の考えにぞっとしたとしても、その背後にある思いを否定することはまずなかったであろう。それどころか、ジリアンが賛成の意を表して引用する説教に驚くかもしれなかった。

ここの人々を欧化することに私たちは宣教師として失敗している。
(一九〇八年四月十二日)

 彼女はこのことは、ものの美に対して日本人のように生まれながらの感覚を有している民族については、とくにそうであると感じている。

ラスキンがこの地に来たことがなかったのは残念なことだといつも思っています。彼はこの地の人々のことを、彼らの美しいものへの愛情とともに、大変嬉しく思ったでしょう。人々が贅沢を厭うことも、彼らが作った品々にかける手入れや手間暇にも喜んだでしょう。一つ一つの部分は完璧に完成されており、時には、自分が作ったものへの愛着が強くなり過ぎて、売るために手放すよう説得できないほどなのです!人々の着物の裏地が表よりもずっと美しく、高級なものからできていることも彼を嬉しがらせたでしょう。
(一九〇八年四月二日)

 贅沢、いやそこまでいわずとも、快適さは彼女の嘆きの種であった。彼女とガーニーを松江の集会に紹介した日本人の宣教師は、彼らがイギリスに置いてきたものについて大いに強調した。これが彼らの伝道に対する熱意を測る方法で、それは自身の言い分を付け足した集会の新人によって奇妙に仕上げられた。

三番目に立ち上がった人は、松江の人ではない、外から来た労働者でした。彼は非常におかしくて、私たちが日本に人生を捧げるのはそれなりのことであるが、あらゆる地の中からここに来るのはまた別のことである。日本人ですらもし出来るならばここには来ないであろう、彼自身少しも来たくなかった。みな松江が日本で一番不便な土地だということを知っており、ましてや外国人にとってはどんなにかそうであろうか、等々と言いました。ああ、もしこの善良な人が、その松江の辺鄙さがまさにその魅力のもとであることを知っていたならば。鉄道の到来やそれがもたらす「便利さ」を、私は何にもまして憂慮するようになりました。市街電車網が松江に巡らされるかもしれないという恐れすらあるのです。松江に市街電車が走るのを想像してみて下さいな!
(一九〇八年五月二十八日)

 しかし自然の美しさは、ジリアンの目を日本社会の重大な欠点から塞ぐことはしなかった。すでに、彼らを日本に連れて来た船の上で、故郷に死ぬために送り帰される”唐ゆきさん”に出くわしていた。

 私たちとともに船から降りてきた人の中には、シンガポールで奴隷として自ら売ったか売られたかした一人のかわいそうな女の子がいました。彼女の病状が悪く、結核で死につつあったので家に帰らせているのです。

 工場生活もイギリスのヴィクトリア朝初期の頃に劣らずひどいものだった。

あの大都市の大阪にある工場の全てに対して、そのほとんどがイギリス人の経営ですが、私たちには何の責任もないかどうか考えます。状況はブラウニング夫人が「子供たちの叫び」(“Cry of the Children”)を書いた時とほぼ同じですが、ただここでは日曜であろうと夜間であろうと工場の運転が止まらないのです。八歳以上の女の子と成人女性が十二時間毎に交替で昼の番と夜の番に分かれて、一ヵ月毎に入れ替わるのだと思いますが、働いています。この女の子たちの人生は書くには悲しすぎます。死が全ての終わりだと彼女たちは信じているので、毎年何百人と自殺者が出るのは不思議なことではありません……

 彼女たちにとって、それがどんなことであるか想像してみて下さい。そこで寝泊まりし、そこがすべてなのです。千人が、もう千人が起きたばかりの同じ場所で眠るのです。政府が七歳以上の児童は学校に行かなければならないという法律を作ったので、工場の中に学校が建てられ、子供たちは十二時間の労働を終えた後、睡眠時間を削って学校に行かされるのです。
(一九〇八年四月十三日)

 料理人や虫、禁欲的な同僚たち「ひどくまずい」日本茶や食べ物についての一連の問題を述べた終わりに、ジリアンは「これは全く宣教師らしからぬ日記ですわ。読み直してみましたの。そうしたら、食べ物のことばかり書いてあるようでしたけど、前にも言ったように、松江では鍋や釜の間で暮らしていたのですし、人は自分がしていることしか書けないものですわ」と締め括っている。幸いなことに、彼女はそれ以外のことをたくさん書いており、彼女の良心の苦悩や、「居留社会」に住んで賭博をし、煙草を吸い、日曜日は朝から晩までカクテルを飲んでいる女たちで(「彼女たちの子供が同じことをするようになるまでするのです。なにしろ十一、二歳の少女たちが煙草を吸い、時にはだいぶ飲みます」一九〇九年一月十七日)、宣教師の友人たちには「神に背いた人々」とよばれた女たちに対する積極的な同情は、彼女を優しい複雑な人間にする。松江の人が誰か彼女に会ったという記録を残していないかどうか、知りたいものである。

 松江と島根県の郷土史家が彼女の記録に興味を見出だすことを期待して、私は松江の小泉八雲記念館にこの日記全文の写しのコピーを寄贈する。
(平川節子訳)

AREN2
八雲が手帳に描いた日本の女と子供のスケッチ
(第一書房『八雲全集別冊』より)

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