前者は当時も今も、欧米においては神道研究の本流と見なされていますが、三人の神道に対する採点は、一様にきわめて辛く、神道は原始的民族宗教にすぎず、その役割は仏教の渡来をもって消滅したと結論しました。

 この三人が上代の文献まで読みこなせる本格的日本研究者であったのに対して、後の三人は、いずれも芸術家であり、日本とのかかわりにおいても、いわば旅人と称すべき人たちで、専門的な教育はまったく受けていませんでした。

 したがってサトウらの見解を学問的だと褒め、ハーンらの発言を印象批評にすぎないと貶すこともできます。事実、今日の欧米の学会で日本の宗教を論じるのに、ハーンやタウトを引用したりすれば、あからさまに嘲笑されるでしょう。たしかに、彼らの文章には文献学や歴史学から見て問題になる誤謬や臆測の類が少なくありません。しかし、よくよく考えてみれば、文献学や歴史学が、人文科学のすべてではないのです。

 日本学への貢献の大きさを別にすれば、サトウらの学問は、ヨーロッパ中心の価値観と合理主義を柱とする十九世紀的思考の枠組みから一歩も足を踏み出しておらず、当時の水準から見ても、まことに古色蒼然たるものでした。それに対してハーンの民俗学、タウトの建築論、マルローの東西美術比較論は、その時々の最先端をゆく学問であったばかりか今日読み直しても、いささかも色褪せていません。

 ハーンの日本語力が、チェンバレンから見れば子供だましたったように、日本アジア協会の三人の民俗・建築・美術の鑑識眼は、後の三人に比べれば素人の域を出ないものでしょう。したがってチェンバレンらの日本学の素養は、かならずしも彼の神道評価の正しさを保証するものではないのです。

 神道は教理と倫理を欠き、聖書すら存在しない―この三人に限らず、日本アジア協会の人々はこの一事を難じて倦むことがありませんでした。彼らの宗教観からすれば、聖書なき原始信仰がアジア・アフリカの小さな部族社会ならともかく、日本のような高度な国民社会において、大きな役割をはたし得るはずがないのです。西洋の日本研究者が今でも日本文化の基礎を仏教や儒教に求めがちなのも、綿密な観察の結果というよりも、少なくともこの二教には理解できる明晰な論理と倫理が存在するからでしょう。

 明治のイギリス人研究者三人は、まず上代の神道文献の翻訳から神道研究に入ってゆきました。そして、みずから苦心惨憺して訳した古典の内容そのものには、語学的・史学的な価値は別として、実は大変失望していたのです。彼らが期待していたのは、一つの聖書、つまりキリスト教のバイブルのように信徒が心得るべき教義と道徳が体系的に記された書物でした。しかし『古事記』や『日本書紀』に書かれていたのは、互いに矛盾する事実や空想の断片であり、伝説や祈りや歌謡だったのです。

 彼らが神道の「バイブル」を探し求めたのも、それさえあれば日本の神々と対話できると固く信じていたからです。しかしそれは不可能でした。この国の神々は、山や川のほとりに鎮まり給うだけで、仏教や儒教と異なり、文字に書かれた書物の中には、明確な声や姿を持っていないからです。

 言葉によってのみ神に辿り着こうとする彼らの試みが、私には、文献学的方法というよりはキリスト教的方法のように思えてなりません。文献学は、このような厳格で偏狭な態度をかならずしも前提としてはいないからです。キリスト教では、神を理解するのに聖書しか認めないという立場をビビリシズムつまり聖書主義と言いますが、彼らの神道理解をはばんでいたのは、そうした無意識の聖書主義だったのではないでしょうか。

 神道の聖書を探し求める努力は、結果としては彼らの視野を極端に狭めてしまい、その優れた日本史や日本語の知識も、むしろ神道に欠けるものをあげつらうのに役立つばかりでした。倫理と教理を辿って神に至ろうとする道は、初めから閉ざされていたのです。

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