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 しかし、旅人であったロチに対して、ハーンは日本にずっと長く滞在することになり、家庭を持って生活する間に、日本を見る目もより深くなっていった。国内各地に旅行し、やがて一八九二年には京都を訪れている。この際にハーンは、メーソンへの手紙で次のような感想を述べている。

期待したほどには私は京都が気に入りません。まず第一に、ロチの書いたものを私には発見できなくて非常にがっかりしました。ロチは自分自身の感覚を記述したにすぎません―洗練され、不気味で、不思議な感じを。ロチの「聖なる都・京都」は全く存在しません。例えば私は三十三間堂へ行きましたが、ロチの描いたものは一つも見られませんでした。ロチの想像の、驚くべき悪鬼の姿を呼び起こした、そのもとになったものを確かめただけです。(一八九二年七月三十日 W・B・メーソン宛)

 同じメーソン宛の六日前の手紙には京都に住んでみたいと書いているハーンのことでもあり、この一節だけで論じられるほどハーンの京都観は単純ではないが、ここでは京都に対する好悪よりも、「聖なる都・京都」に関するハーンの認識―すなわち、ロチが描いたのは古都の実際の姿でなく、心に映った像であった、とハーンが悟ったという事実こそが重要である。京都に身を置いてみて、かつて心惹かれたのはロチの情趣であったと、この時実感したのである。

 異国的なものへの憧憬からロチの作品を愛読してきたハーンであってみれば、ロチが描いてみせたように対象を見られないと気づいた時、ロチに対する評価は当然変化する。この手紙は、二人の分岐点を私達に示してくれるものと見なすことができよう。

 ハーンのロチに対する批判は、一八九三年から九四年にかけて、書簡の中でたびたび述べられていて枚挙にいとまがないほどである。

 「ロチは物事の外側だけを表面的に見たのです」、「ロチはどこかおかしくなっています」、「私はロチが大嫌いだと言わなくてはなりません」、「最近の作品は病的です」―けれども、変わったのはむしろハーンの方かもしれない。

 ハーンがしきりに褒めるようになったのは、イギリス人のジャーナリストで、後に『ジャングル・ブック』の著者として名を知られることになる、ラディヤード・キップリングである。キップリングは、一八六五年ボンベイの生まれで、一八八九年と一八九二年に日本を訪れている。ハーンは、キップリングの著書は必ず送ってくれるように出版社に頼んであったというが、繰り返し読んだというそれらの本は、今も富山大学ハーン文庫に十六冊の蔵書として数えられている。もっとも、日本に関する文章が本にまとめられたのはだいぶ後なので、日本関係のものは記事になった文章を読んでいたと考えられる。『タイムズ』に送ったジャーナリストの文章だけあって、インドで得た学識に支えられ、選び抜いた語句を用いて冷静な調子で書かれているのが特徴である。

 ハーンと親しく文通していたチェンバレンが、手紙の中で鎌倉を話題にした時、ハーンは「大仏のことを書いたキップリングの文をお読みになられたでしょうか?」と尋ね、「私はもうずっと昔に、大仏について実に平凡な文章を書いてしまいました。今あの埋め合わせができたら!」と書いている。また、チェンバレン宛の別の手紙では、ロチに言及したあとに、

キップリングによる短い鎌倉のスケッチの方が、芸術として本物です。完璧に抑制され、精妙で、読者の得るところ大です。

とも書き送っている。ハーンにとってロチ崇拝の卒業とキップリングへの入門とはほぼ並行して起こっていたように思われる。ハーンの理想も変化していたのである。

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