アインシュタインは『訪日日記』の中で、それを「秘密聴問」という形で受けとったことを記し、「事態電信にては複雑すぎる、追伸す」と返電を打ってから、「その手紙を夜したためる、真実ありのままに」(十二月二日付)と書いている。

 そこでは、ハルデン証言を「まったく正しいわけでもないが、まったく嘘でもない」と述べてから、ドイツにおいて、自分の生命の危険が存在することを認めた上で、こう記している。

私が日本への招待に応じる気になりましたのは、かなりのところ、遥かなる東洋への憧憬からであり、またほかの一部は、私を重苦しい立場にしばしば立たせるわれらの故国の緊迫した状況から、しばらくの間脱け出したい、という欲求であります。

 ここでも第一に挙げた動機が、「遥かなる東洋への憧憬」であったことが注目される。そしてそれを下地として、同年六月に生じたユダヤ系のラテナウ外相殺し以降、急に高まっていたユダヤ人排斥の動きから一時でも脱け出す機会が、改造社の招待によって与えられたことを非常に嬉しく思ったのだ、と自分の気持ちを赤裸々に綴っているのである。

 ここでハーンとアインシュタインの、共鳴し合う人生上の類似項について一言しておこう。

 ハーンは最後に日本に帰化し人生最後の十四年間を東洋の涯で送るまで、ギリシャ→アイルランド→イングランド→アメリカ→日本と漂泊した。アインシュタインもみずから「ジプシー」というように、ドイツ→イタリア→スイス→チェコ→スイス→ドイツ→アメリカと流れていった。二人ともいわゆるマージナル・マン(境界人間)であって、国家意識を超脱していたが、脱西欧型のインテリであった。ハーンは英国ダラム市郊外の聖カスパート校を大叔母ブレナンの破産のため中退、アインシュタインもミュンヘンのギムナジウムを父の破産で中退した。ハーンは周囲の反対を押して黒人女性と結婚、二年で離婚し、のち小泉セツと再婚、三人の男子を得た。アインシュタインもチューリッヒ工科大時代の同級生、セルビア人のミレーヴァと両親の反対を押し切って結婚、二人の男子(と一人の女児が婚前にいたことが近年明らかとなった)を得たが離婚、従姉のエルザと再婚、二人の義娘を得た。またハーンが訪日したのは、以前から出版などで繋りのあったアメリカの出版社、ハーパー・アンド・ブラザーズ社との契約にもとづくもの(一八九〇年に日本に到着後、同年五月上旬までに解約)であったが、アインシュタインも日本の新興出版社『改造』との契約によるものであった。

 ここで、アインシュタインが、ハーンのどんな本を読んでいたかについて分っている限りのことを書きつけておこう。

 いまアインシュタインの蔵書のすべては、エルサレムのヘブライ大学図書館に移管されており、筆者がその総合調査にあたっているが、この中にハーンの本が四冊あることがわかった。いずれも英語の原本からのドイツ語訳のものである。タイトルその他をあげておく。

▶『仏陀―日本からの新しい物語と研究』(Buddha―neue Ges-chichten und Studien aus Japan, 1922)全二六八頁。挿絵入り。
▶「出雲―知られざる日本の面影」(Izumo―Blicke in das unbe-kannte Japan, 1922)。
 全三一四頁、挿絵入り。
▶『日本の本―ラフカディオ・ハーン著作選』(Das Japan Buch―eine Auswahl aus den Werken von Lafcadio Hearn, 1921)。
 全三一〇頁、挿絵入り。
▶『怪談―日本からの奇怪な物語と研究』(Kwaidan―seltsame Geschichten und Studien aus Japan, 1922)。全一九八頁、挿絵入り。

 この四冊とも、翻訳者はベルダ・フランツォス(Berta Franzos)という女性で、フランクフルト・アム・マインにある文学出版社リュッテン&レーニンク社(Leterarische Anstalt Rütten & Löning)刊。第三の選集を除く三冊とも、エミール・オルリーク(Emil Orlik)が装幀にあたっている。

 筆者の過去四回にわたるアインシュタイン蔵書調査では、アインシュタインによる書き込み本、多方面からの献呈本等を重点的に取上げてきたため、これらのハーンの本を詳しく点検していないが、書き込みその他はまったくなかった。しかし、刊行年から見て、アインシュタインが訪日する前に、これらの本の少なくとも一部を読んだものと考えて差しつかえないであろう。

 なお、アインシュタインは、一九三三年にナチス・ドイツから懸賞金まで懸けられてアメリカに逃れたのだが、義娘の一人、イルゼと結婚したルドルフ・カイザーや秘書ヘレン・デュカスらの働きで、アメリカの外交ルートその他を利用してその蔵書や論文別刷、書簡の多くがアメリカに持ち出されていたことがわかっている。

 このように、アインシュタインは、ハーンの日本紹介の洗礼の下に日本を実見していくのだが、その日本文化を見る眼も、日本文化を本質的な精神構造から内的に捉えようとしている点で、明らかにハーンの系譜をひくと見てよい。アインシュタインの前年に招かれたバートランド・ラッセルは日本の社会の政治経済的矛盾を外的に鋭く分析しているが、その系譜とは一線を画している。前者は、日本の古美術の価値を教え岡倉天心などを育てたフェノロサ、ポルトガルの駐日領事で帰化し徳島で死んだ隠者モラエス、桂離宮の世界的文化性を見抜いたドイツ建築家のブルーノ・タウト、白樺派と交わり民窯の伝統を発掘したイギリスの工芸家バーナード・リーチらの系譜につながる。後者は、ドイツの経済学者で明治初期政府の科学的立案を行ってたパウル・マイエット、ドイツの化学者で日本工芸の近代化に献身して日本で没したゴットフリート・ワーグナー、東北大学で一時期哲学を講じていたカール・レーヴィットの系譜となっている。

 アインシュタインが日本に滞在したのは、先述したように四十三日間である。しかし、往路はマルセーユから神戸まで「北野丸」、復路は門司からポートサイドに上陸するまでは「榛名丸」と、およそ各四十日間は日本郵船欧州定期航路の日本的小社会で過しているから、滞在と往復あわせて約四ヵ月の日本(および東洋)体験の日々を送ったということもできるだろう。滞在中、アインシュタインが訪れた場所は、東京、日光、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、宮島、福岡、門司であり、大学でなんらかの関係をもったのは、全国の国公私あわせて当時あった十六校中九校(東大、東北大、京大、九大、東商大、慶大、早大、大阪医大、愛知医大)に及び、その他、東京音学学校、東京女子師範、東京工業学校にも顔を見せた。

 このような体験の半ばに、「日本における私の印象」と題して『改造』大正十二年一月号のための記事を東京から名古屋に行く車中で仕上げているのだが、その詳細については、拙著『アインシュタイン・ショック』(全二巻、河出書房新社、とくに一巻の第八章「アインシュタインの日本文化観」)に譲ることにして、最初のほうのキーワードをなす個所だけを引用しておきたい。日本文化を語る上で、まだ十分に知っていないことに触れてから、こう記すのである。

けれども人間についての直接的な体験に欠けているものを、芸術の印象が補完してくれる。日本ではそれをほかのどの国よりも豊富に多様にもたらしてくれる。私がここで「芸術」というのは、美的な意図あるいは副次的意図をもって、人間の手で永続するものを目指して製作しているものを指している。

 この点で私は瞠目と驚嘆の念から逃れることができない。自然と人間とは一体様式以外の何物をも生まないほどに一つに結ばれている。実際にこの国に由来するすべてのものは、愛らしく晴れやかであり、抽象的でも形而上学的でもなく、常に自然によって与えられるものとかなり緊密に結びついている。

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