講演1 日本とオランダ 司馬遼太郎(作家)

世界最初の市民社会の形成

 少し話を戻します。やってきたリーフデ号のことです。
 船長のウィリアム・アダムスはイギリス人でしたが、オランダに雇われていました。航海士はオランダ人のヤン・ヨーステン。この二人はともに家康に仕えて幕臣になり、家康の外交顧問という役どころをひきうけます。ウィリアム・アダムスが三浦按針と名乗ったことは御存じの通りです。また、ヤン・ヨーステンの屋敷が今の東京駅八重洲口のあたりにあったこともよく知られています。ヤン・ヨーステンがヤヨスと訛り、やがてヤエスになったと言われています。

 三浦按針が日本で活躍していた頃、イギリスの船も日本にやって来はじめました。いわゆる大航海時代が幕をとじ、スペインとポルトガルの時代は終わりつつあったのです。カトリックの時代が終わったと言いかえてもいいでしょう。その頃のカトリックは実に堕落していまして、神を教会が独占販売し、ふつうの人々はただひたすらに教会に隷属することを強いられていましたが、商業の発達などによって人の智恵はひらけてきたのです。カトリックヘの批判として生まれたのがプロテスタントでした。プロテスタントは、一般の人々が教会に依存することなく自分で神を知り、自分で神と約束して倫理を定め、個人個人としてきちっと生きて行こうとする宗旨です。オランダはそういうプロテスタントのいわば先端的な国でした。当然ながらヨーロッパ第一等の自由もありました。ついでながら、イギリスもオランダとはいきさつが違ったとはいえ、やはりカトリック批判のキリスト教を作り出した国です。

 プロテスタントというのは自律的な習慣を持っているのでビジネスが出来る……。商人が持つ積極的・能動的なものを受け継いだと言ってもいいかも知れません。商人というのは、ものごとを数量化する能力を持っています。しかも決断力を必要とします。さらに約束を重んじなければいけない…。プロテスタントの人は義務ということをきわめて大切に考えますね。これは、それまでのカトリック的ヨーロッパにはあまりなかった倫理でした。この義務を大事にするということは、大きなビジネス的組識に入って仕事をする場合にたいへん必要なことです。

 日本という遠く見知らぬ国に来て、商売をすることが、会社という組織に属する自分というものの義務であると考える。オランダ人もイギリス人もこのように考え、それぞれ国立の東インド会社という組織を作って商売を始めたのです。しかしその初期、1600年ころには、商売ではオランダ人の方がイギリス人より断然優秀だったようですね。

 ちょっと余談になりますが、関が原合戦前後に、リチャード・コックスというイギリス人が平戸に商館を開きました。これは今もその跡が残っております。さらに彼は大阪にも江戸にも商館を作ったそうです。しかし結局彼は日本における商売に失敗して、インドに撤退する途中で病死してしまうのです。失敗の原因はラシャを売り損なったことでした。ラシャというのは当時の日本の風土にはなかなか合いにくい織物です。陣羽織などには使われましたが、一般的に喜ばれる織物ではありません。それをなにを思ったかコックスは、日本人に是非着せようと、大量に持って来ました。それもまるでカナリアのように黄色いラシャでした(笑い)。三浦按針は、本来はイギリス人でしたから、コックスの商売をなんとか助けたいと思ったようです。コックスに、
 「もっと市場調査をして、日本人に向いたものをお売りなさい」
と、アドバイスしたようでもあります。が、コックスは聞き入れなかったのです。このため商館の倉庫にカナリア色のラシャを一杯積み上げて、売りさばきにかかりました。しかし、当時の日本人の色彩感覚というものは、今の日本人よりはずっといいのです(笑い)。売れるわけがない…。とうとうリチャード・コックス以下平戸商館のイギリス人たちが宣伝のために、そのカナリア色のラシャでマントを作って着て、ひらひらさせながら歩きまわった(笑い)と言うのですが、想像するさえおかしい風景です。市場調査を十分にするオランダ人はそんな馬鹿なことはいたしません(笑い)。

 当時のオランダの人口はせいぜい百万か二百万でしたろう。すくないですね。しかしその国がヨーロッパを代表する力を持っていたのです。造船、航海、科学・技術の先端的な能力を発揮していました。哲学においても優れていた、というのは、オランダがさきにのべたように世界最初の自由な市民社会というものを形成していたからです。

 当時の船の船首船尾には飾りの彫像がついていますね。たいがい女神かなにかですが、リーフデ号の船尾のそれはちょっと変わっておりまして、カトリック教会を罵倒し抜いたオランダ人哲学者、エラスムスでした。この人は、ただカトリック教会のただれた部分を勇敢にえぐりだしただけではありません。その表現が哲学的にも文学的にも優れていました。彼の『痴愚神礼賛』は、現在でも人類文化の大きな遺産の一つです。オランダ人はこのエラスムスをたいへん尊敬しました。この人こそカトリック教会のくびきから我々市民を解き放ってくれる人だと信じました。だからこそ外洋航海の守り神と考えたのでしょう。

 このエラスムス像は、今も日本に残っています。神父さんのような帽子をかぶり、ローブを身にまとったこの像は、長いあいだ“鈩狄(かてき)尊者”と呼ばれて、武蔵あたりの寺に祭られていました。なにか西洋風のお地蔵さんのように思われていたのかも知れません。いまは確か東京国立博物館にあるはずです。
 まあ、我々の祖先は、このエラスムスの哲学こそ知らなかったのですが、この像がそんなかたちで今も伝えられているということは、日本に対する近世西欧の刺激の歴史的遺産のような気がいたします。

貨幣・商品経済始まる

 刺激。これは、歴史を見る上で重要な要素の1つです。オランダ人がもし鎌倉時代に来たとしたら、日本人はそんなに刺激を受けなかったでしょう。また、もしもっと時代が下がっていたとしたら、イギリス人の力の方が強くなっており、プロテスタント世界と日本の接触は別の形になっていたと思われます。オランダがプロテスタントの代表選手だったのは、まさに17世紀初頭のことだったからです。

 家康という人はあくまで三河の山奥出の人であって、百姓の親玉みたいな人でした。秀吉から受け継いだ日本に、彼が付け加えたものは、ほとんど何もなかったのではないでしょうか。困ったことに家康は、この近世という時代にあってなお、米でもって日本を統一しようとしました。つまり、百姓が作る水田の上に武士・大名が乗っかり、その上に将軍が乗っかるという支配の形です。武士の人口比率は、7パーセントくらいでしたでしょう。その7パーセントがお百姓に米を作らせては取り上げ、養われることで、世の中はうまく行くと考えたのです。ところが江戸時代に入ると、家康などが思いもよらなかったことが、つぎつぎと起こって来るのです。ひとつにはそれは秀吉ののこした貨幣という制度のおかげです。

 ヨーロッパの場合、貨幣はギリシャ・ローマなどキリスト以前からあります。しかしその時代、ヨーロッパの片すみ、例えばドイツの片いなかまで貨幣が通用したかというと、そうは参りません。そこはやはり物々交換の世界でした。全域的に貨幣が通用する社会になるには、ヨーロッパでもずいぶん時間がかかりました。日本の場合、そういう状況になるのは、江戸幕府が開かれてから以後のことです。秀吉は金貨も銀貨もつくりましたが、補助貨幣はあまり重視しませんでした。江戸幕府はさまざまな種類の補助貨幣を作り、これが、貨幣経済を活発化させるきっかけになったと思われます。家康は貨幣経済など重視していませんでしたから、これは大きな思惑違いだったと思います。

 もちろん貨幣単独では、貨幣経済になりません。裏付けになる商品経済の発展が必要です。例えば蠟というものがあります。これは蠟燭の原料でもありますが、女の人や武士たちが髪を光らせて、美容や威儀を整える整髪料としても必要なものでした。江戸期、蠟は、きわめて需要の大きい、活発に動く商品となりました。蠟そのものは四国とか中国・九州地方で作られますが、これが東北にも松前にも運ばれることになります。こうなると海運の発達を促すわけです。

 また、江戸初期、木綿という大きな商品が生まれます。木綿というのはそれまで日本にはなかったものでした。秀吉の時代に初めて登場したものであり、初めは絹より高価な贅沢品だったのです。大名達が自慢して着ていたといいます。では庶民は木綿以前何を着ていたかというと、麻とか葛布とか、およそ保温には向かないものばかりでした。ですから、ずいぶん風邪を引き、肺炎を起こして死んだと思います。江戸中期ごろ、木綿が普及して、庶民はやっと暖かく暮らせるようになるのです(笑い)。

 綿はもともとエジプトのナイル・デルタあたりで栽培されていたものです。ですから暑い土地のものですし、肥沃な土地でないと出来ません。日本で木綿を作るとなると、この作物を日本の気候風土に合わせなくてはなりません。また、大量の肥料を必要としました。にもかかわらず、江戸時代は木綿の時代と言っていいほど、ひたすらに木綿を作っていたのです。

 初めは大阪湾周辺の土地で作ったようです。河内木綿と言われるものです。大阪湾で取れる小さなジャコを干して肥料とし、土に入れました。船場の隣、いま靱公園という公園になっているあたりに肥料問屋が集まっており、そういう金肥を買っては木綿畑に入れたのです。しかしもっと優秀な肥料が着目されます。北海道のニシンでした。たちまち北海道に行く船が増えてまいります。ニシンを大量に運んで来ては木綿をまた大量に運ぶ。こうして日本中を大きな船がぐるぐると廻るという経済構造になります。いろいろな地方のいろいろな特産品が、日本中に商品として出回るという、江戸中期の大規模商品流通の時代が来たわけです。そして、その流通を支えているのが貨幣だったわけです。

 商品の流通が盛んになったことの結果として、いちばん大きいことは、文化が1つになるということです。例えば四国の人の服装と、東北の人の服装が同じ物になって行く。もうひとつの特徴は前資本主義とでも言うべきものが始まるということです。人々の考えかたが合理的になる。つまり数量でものを計り、また商品の質で判断するようになります。良い商品はどこで作られるかを見きわめるようになった…。女の人が使う紅の原料は、山形あたりのものがいちばんいい。しかし商品としての紅作りがいちばん上手なのは京都です。そして運ぶのは船乗りですね。ですから山形と京都の双方に大きな問屋が出来、また回漕業者の問屋も出来るのです。まあこれがプレ資本主義です。

 かつては宗教的なドグマが人間を支配し、社会を支配していました。しかし商品経済が活発になりますと、人は自分の乾いた目で合理的に物事を見ます。その合理性によって、学問や思想の面では自然科学、人文科学が盛んになるわけです。これは商品経済発展の当然の帰結ですが、しかし日本の場合、オランダ人という刺激がなかったとすれば、なかなかそこに達し得なかったかもしれません。

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