講演1 日本とオランダ 司馬遼太郎(作家)

合理主義思想を裏書するもの

 江戸時代の初期を過ぎた頃、日本には思想的に面白い人がたくさん出てまいります。荻生徂徠もその一人でしょう。荻生徂徠は中国の儒教を勉強した人です。つまり最初は朱子学の徒だったのですが、彼はそこから離れてしまいます。朱子学とは何かということは、なかなか一口では言えませんが、思い切って簡単に言えば「これはこのようにあるべきだ」という“イデオロギーの学問”であります。荻生徂徠は既に商品経済の中の人でしたから、朱子学の原理性を抜け出て、合理主義で儒学を組みなおしたのです。幕府は朱子学をもって正式の学問としていたわけですから、徂徠としては勇気のいることでしたろう。しかし、この場合、幕府はこうした別の考えかたも咎めはしませんでした。むしろ彼を幕府に近付けております。10年ほど前に吉川幸次郎さんとラジオで話しあった時、話題がたまたま徂徠に及びました。

「彼は一人であの学問を創ったのでしょうか」と私が言いましたら、吉川さんは勇敢にも、
「オランダの影響でしょう」
とおっしゃった…。しかし、荻生徂徠の履歴の中にはオランダ人との接触は出て参りません。ですからもし影響があったとすれば、間接的なものということになります。オランダでは物事をきわめて合理的に考えるということが確立しているということを、彼は長崎を通じて知ったということかも知れません。徂徠は長崎には一度行っております。これは中国語を学ぶために行っているのです。しかし長崎に行けばオランダ的なものの考えかたに触れるということもあり得たでしょう。

 例えば、長崎には化学の実験の大好きなお寺の坊さんなどもいたといったぐあいで、いわゆる蘭癖の町でもありました。日本には昔から物好きがいて、一種の文化を形成しています。物好きは奇人扱いされますが、日本人は本来、奇人というものを尊敬するのです。荻生徂徠はそういう奇人たちを通じてオランダの匂い―オランダの科学や技術、オランダの合理主義や人文科学の片鱗を感じ取ったのかも知れません。

 江戸も中期からちょっと後期にさしかかる頃、エラスムスほどではないにしても、ややエラスムスに似た感じの思想の持ち主が現れました。大坂船場の醤油問屋の息子で、富永仲基という人です。この人は日本の仏教の基礎となっている大乗仏教の経典は全部偽経であるということを、学問的に論証いたします。つまりそれら大乗仏典は釈迦自身の言葉ではなく、仏教が伝来して行く途中、4、5世紀あたりにシルクロードのあちこちで作られたものだと言うのです。つまりそれは釈迦が亡くなられてから何百年か経ってからのものだというわけです。仏教の僧侶の側にはこの論証を覆せる人がひとりもいません。富永仲基の論証は、学問として何百年もの歳月になお耐えております。この人は30歳で亡くなりましたが、よほど天才的な人だったように思います。時代が生んだ思想でもあります。

 また山片蟠桃という学者がおりました。この人も商人でした。仙台藩に金を貸している銀行のような店の番頭さんをしていました。ですから学者としての名前もバントウなのです(笑い)。この人は実に明快な無神論を展開しております。神も仏もない。霊魂もなければもちろん幽霊もない、という。

 この二人は別にアウトサイダーだったわけではありません。むしろ社会の内部できちんと仕事をし、暮らしていた人です。山片蟠桃などは武士にも見られないほどの忠誠心を自分が勤めている商家に捧げていました。いうなれば、ヨーロッパにおけるプロテスタント的な自律精神の持ちぬしでした。それにしても今まで人々が堅く信じていたこと、それも高踏的な問題についてではなく、神仏への信仰というような庶民の生活の隅々まで染み込んでいることをひっくりかえすというのは、たいへんなことです。エラスムスから200年ほど後、日本にもそういう存在が生まれたのです。

 この二人はオランダ語こそ出来ませんでしたが、オランダの学問にはたいへん興味を持っていました。山片はオランダの天文学の本をよく読んでいる人から詳しい話を聞いており、その他にもオランダのことをよく知っていたと思われます。そして、自分達の思想が、その頃の日本の常識には合わないにしても、オランダという国であれば、十分通用するものだと思っていたのではないでしょうか。つまり自分達の考えを裏書してくれる存在としてオランダ文化というものを考えていたと思います。

 このように商品経済の発展に伴って合理主義思想が生まれるのですが、もうひとつ生まれて来るべきものは、自由と個人ということでした。ただ、自由ということは、日本ではあまり育ちませんでした。ヨーロッパにおいては、自由は確かに商品経済が生んだ長男であります。次男は、個人の確立ということです。個人がなぜそこから生まれるかと言うと、商品経済というものは端的に言うと「私が金を貸したのはあなたなのだから、あなたが私に金を返しなさい」ということだからです。これが例えば200年くらい前の中国ですと、ある人に金を貸しても、戻って来るのはその人の兄弟からだったりする。人間がひとかたまりのファミリーとしてカズノコのようにくっついていた時代から、一粒一粒の個人の時代になるのは、商品経済、あるいは資本主義が始まってからのことです。

 ところで山片蟠桃や富永仲基が、自由や個人の尊厳というようなことを唱えたかというと、それはしていません。彼等はただ合理主義だけを言いました。しかしそれを表明するだけでも大きな勇気のいることだったのです。もっともこの場合も彼等が幕府から咎められることは幸いにもありませんでした。当時保守的な政治家だった松平定信も、山片の著作を読んで面白がっていたそうです。

 これも山片蟠桃と同じ頃の人に海保青陵という人がおります。相場論を立てた人です。この世でいちばん不思議なものは相場だという…。だれが操作するでもなく動き、大政治家や大学者でもコントロール出来ません。これはひょっとすると神のような力を持っているのではないかというので、相場論というものを綿密に論じております。この人は武士の出ですが、君臣の間もいわば商取引のようなものだと、そこまで合理主義的に人間関係を考えました。この人もオランダのものの考えかたの影響を受けているようです。

 こうした合理思想を生んだのは、日本国内で異常なほどの速さで発展して行った商品経済には違いないのですが、思想誕生にあたって、オランダ―ヨーロッパ文明を代表する存在そのものが、化学で言う触媒のような刺激を与える役割を果たしたことは間違いありません。そして、もしその刺激がなかったならば、江戸時代の文化―学問や思想のある面は成立しなかったのではないかと思います。

近化市民社会と個人

江戸時代の末期、幕府はペリー・ショックによって自分の時代がやがて終わることを漠然と意識したようです。しかしなおその時期、幕府は自己改造することにより自らのヨーロッパ化を試みます。こうしてオランダ人が幕府の要請により、今度は正式に医学や科学・技術を教えてくれるということが起こりました。

 長年の友誼に応えて、オランダは海軍軍人による教師団を二度にわたって長崎に派遣してくれます。メンバーはいずれも錚々たる人でしたが、とりわけカッテンディーケという海軍少佐は、後にオランダの海軍大臣や外務大臣を務めるような優秀な人でした。

 この教師団は、海軍の技術を教えるために来たのですが、それと別に医学講座も持とうというので、普通我々がポンペ先生と呼んでいる人が参ります。実はポンペというのはファースト・ネームです。ファミリー・ネームはとても長い…。私は何度かポンペ先生のことを書いておりますが、どうも覚えられないほどです。だから当時の日本人も先生を姓では呼ばずに名前の方で呼んでいます。

 そのポンペ先生が、組織的な医学を長崎において初めて講義するのです。また、正式なヨーロッパの科学・技術についての考えかたも、日本人はこの時初めて受け取ります。まだ科学そのものの本質を理解することは出来なかったでしょうが、技術の勉強にはすぐにも参加出来たでしょう。

 カッテンディーケは回想録を書いております。ヨーロッパ人は、地球上の他の場所で自分だけが体験出来たことを、文章にして世の中に還元し、共通の知識とすることを義務と考えていたようです。カッテンディーケさんは観察の細かい、文章のうまい人でして、この回想録は『長崎海軍伝習所の日々』という
タイトルで訳され、平凡社の「東洋文庫」に入っています。実に面白い本で私は何度か読みましたが、その中でいつも気になっているのは勝海舟についてのくだりです。

 勝海舟はご存じのように非常に身分の低い幕臣の生まれでした。ペリー・ショックの後は、オランダ語を勉強すると出世の早道だということになりました。オランダ語は当時でも幕府のいわば公用外国語でした。アメリカ人が来てもイギリス人が来ても、日本人はオランダ語一本槍で話すのです。幕府は既に東京大学の前身である教育機関を作っており、そこでオランダの学問をオランダ語を通じて習得させていました。勝はそこで一生懸命勉強してオランダ語をマスターし、長崎の海軍伝習所に派遣されて、そこでは生徒の代表者という資格で、海軍技術を学んだのです。生徒代表ですから、カッテンディーケさんと生徒たちの間に立ち、しょっちゅうカッテンディーケさんに接触するわけです。練習航海の時には勝は艦長代理を務めました。

 カッテンディーケさんは、勝という人が賢くて親切で、たいへん便利な存在だというので、まず好意を抱くのですが、深く付き合って行くうち、勝という人がたいへんな憂国の士であり、また、世の中をひっくりかえすような革新の士でもあると思うようになるのです。この“革新の士”だというカッテンディーケの評価は、その回想録の中で非常に重要な部分だと私は思っています。勝海舟という人はたしかに優秀な人で、またいい人ですが、ちょっと困ったことに恨みっぽい人です(笑い)。自分は頭が良くて技術を持っている、しかし身分が低いので抑圧されているという意識が抜けません。またそのことについて諦めようとはしませんから、いい階級にある仲間を罵るところがあるのです。それからさらに、ひいては幕府などは破壊しなくてはいけないと思うようになるのでしょう。将軍は残したとしても、政府はオランダのようにしなくてはいけないと考えたようです。それがカッテンディーケさんの言う“革新の士”という評価でしょう。

 カッテンディーケさんが長崎でいちばんびっくりしたのは、一人の商人と話をしていて「この町は小銃を持った水兵が4、50人もいれば占領出来る。そんなことになったらあなたはどうするのか」
 とカッテンディーケさんが尋ねると、その商人が、
「そんなことは幕府が対処なさるべきことで、私たちには関係ありません」
と答えたことでした。これはオランダ人の感覚からすると、考えられないような答えだったのです。つまり封建日本には7パーセントの武士がいて、彼等だけはちょっぴり天下国家を思っているようだけれど、後の人々は国がどうなってもまったくかまわないと思っているらしいということです。

 1868年(明治元年)。戊辰戦争が起こり、新政府軍が会津を攻めます。しかしこの戦いに、会津の百姓たちはまるで関係していません。むしろ新政府軍にたのまれて道案内をしたりしています。こんな戦争は、武士だけがやっていることだと思っていた……。この考えかたを広げて行けば、長崎が外国軍に占領されたとしても、商人は平気で占領軍の御用を務めるということにもなりかねません。

 私はここでレンブラントの「夜警」という絵を思い出すのです。レンブラントは17世紀の人です。優れた画家というのはどこの国にも、いつの時代にもいますが、世界一の天才を挙げよと言われたら、私はレンブラントを挙げます。近世においての最大の天才はと言えばゴッホでしょう。二人ともオランダ人です。「夜警」という絵は、長年画集で見て来たのですが、本物を見て本当にびっくりしました。

 画題としても実に面白いですね。要するに町の人たち…八百屋のおじさんとか大工さんとかが、町の警備の当番として、武装してパトロールしているという絵です。レンブラントの頃のオランダは平和でしたから、これは形式化していたかも知れません。しかし、ともかく自分の町は自分で守る、自分の国は市民である皆が守るということがテーマなのです。つまりそこには既に市民国家が出来上がっていたということです。これは世界でもっとも古く成立した市民社会であり、市民国家でしょう。国民国家といってもよろしい。

 国民国家というのはナポレオンが発明したことになっています。これはオランダよりだいぶ後です。確かに世界にこれをはやらせたのはナポレオンかもしれません。しかし国民国家の元祖は実はオランダなのです。国民国家というのは、国民一人一人がその国を代表しているということです。家にいても外国に行っても、自分が今その国を代表していると思い込んでいる人たちで構成される国家をいうのです。

 カッテンディーケが長崎にいた頃、日本はもちろん国民国家などではなく、封建国家でした。だからこれを一階級の国にしなければだめだというようなことが、勝海舟とカッテンディーケとの間の話には出たろうと思います。勝は、カッテンディーケにオランダという国の本質は何かということを尋ねたに違いない。

 まもなく勝は徳川幕府の“葬儀委員長”になり、江戸を無血開城させます。そして将軍が持っていた権限や権利、権威の総てを捨てさせます。重要なことは、勝はそのことについて、生涯何も後ろめたさを感じていなかったということです。封建的なモラルからすると、自分が仕えていた主家を売ったことになるわけですが、勝はそんなことは意に介していません。むしろ国民国家を自分が創ったのだという意識を持ち続けました。もっとも、勝という人は、よくものを書いた人ですが、このことについては書いていません。カッテンディーケさんとそんなことを話したというようなことも、書いてはいません。これは総て私の想像です。しかし勝をずっと見ていますと、また、カッテンディーケさんの国を見ていますと、そういうことだったのだろうと思われて来るのです。

 17世紀から18世紀にかけては、オランダがヨーロッパでいちばん国民所得の多い国でした。オランダはイギリスやフランスなどにずいぶんいじめられながら、一生懸命生き、自らの独立を保った国です。そしておそらく次の世紀では、ECの中でたいへん重要な役割を果たす国だと思います。あれやこれやを考えてみて、オランダを見る上で重要なことは、つねに主人顔をしないということです。例えばイギリス人は19世紀、まるで世界の主人のような顔をしていました。アメリカ人は今、そんな顔をしています。オランダ人はそんなことは全くしませんでした。我々は江戸時代に多くのことをオランダ人から教えられたのですが、オランダから学ぶべきことは、これからの時代の方が多いような気がいたします。


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