慶賀の見たオランダの日々 四番 商品計量図

ジャポニスム事始め

 18世紀後半にはナポレオン戦争の影響もあって日本のことを書いた本はあまり出版されませんでした。しかし、Thunbergの植物に関する著作はこの時代のものですし、やはりオランダ商館長であったTitsinghの膨大なコレクションのうちのほんの僅かのものが出版されました。現在、オランダのレイデン大学で、Titsinghのコレクションを再編して出版しようというプロジェクトが進んでいます。Titsinghは、フランスやイギリスの東洋学者達との交流を通じて、ヨーロッパの日本研究のスタートに大きな影響を残した人物なのです。1832年には、Von Sieboldの大作『日本(Nippon)』が出版されました。それからまもなく、商館長をつとめた人や日本を訪れた人たちが、日本についての記事や本を出版しました。

 こうして次々と本は出たのですが、依然として日本人はヨーロッパの一般の人にとっては全然知られていない異邦人のままでした。Von Sieboldの『日本』は、確かにその正確さと詳しさで、イエズス会の報告書を遙かに凌いでいたかもしれません。しかし、それはまず学術書でした。そして、イエズス会の報告書のように、日本人への共感や、親近感や、理解を引き出すものではなかったのです。このように3世紀にわたり、ヨーロッパ人と日本人とはお互いについての知識を持っていたにもかかわらず、全くの見知らぬ人同士でした。

 19世紀後半まで、ヨーロッパの人が日本人の来訪者を見るより、日本人がヨーロッパから来た人を見る機会のほうが多かったでしょう。彼らは日本人から「異人」と呼ばれました。「異人」というと、野蛮で手に負えないというイメージを伴います。大槻玄沢は、オランダ人についての一般の誤った考えを正すために『蘭説辨惑』(1788)という本を出しています。では、そのころどんな誤解が一般に行われていたのでしょうか。例えば、オランダ人は性的に節制がなく、大酒を飲むので長生きしないと言われました。さらに、かかとがないとか、けだもののような目をしていて、小用を足すときには、犬のように片足をあげる、等々です。もちろん、オランダ人は出島に隔離されていました。また、江戸参府の際すら、日本人とは接触できないように保護されていました。ですからそのような誤った概念を正そうにもできなかったのです。さらに重要なのは、長崎の版画が、世間の持つオランダ人のイメージを裏付けてしまったことです。

 異なった民族がお互いにそんな見方をしていて、どうして文化交流などありうるでしょうか。ここでは物の交換ということについては、あまり触れません。主要品目ではありませんが、最も関心を集めたのはお互いの贅沢品でした。品物の中には、ファッションの流行を生み出すものもありました。例えば、オランダで流行した着物がそれです。18世紀の終りころ、学生の間で着物は大流行となり、あまりにはやったので、レイデンの学生は教会へ着物で行ってはいけないと決められたほどです。しかし、今日の私の話の中心は物質的でないものの交流についてです。つまり、何らかの文化的な交換が、あったかどうかということをお話したいのです。

 オランダやヨーロッパが日本に示した興味は、特殊なものではありません。ヨーロッパ人は、アジアの遠い国々に、ずっと非常な興味を持っており、日本は、その中のひとつに過ぎなかったということができます。ただ、16世紀の日本への関心は特別でした。もっとも、その関心は主としてイエズス会の伝道活動の成果についてです。鎖国後も、日本への興味は持続しました。日本に関する文学作品は、中国や、東南アジア、インド、中東に比べれば少なかったのですが、非常に少ないというわけではありません。しかし、日本がヨーロッパへ及ぼした影響があるかと言えば、それはほとんど無に等しかったのです。 

 もちろん、心底日本に魅せられた人も僅かながらいました。例えば、東インド会社総督だったCamphuÿsです。Camphuÿsは、17世紀末、ジャカルタ湾の島に日本の家をそっくりそのまま作り、来客に日本食を出したほどでした。また、日本が孤立しているからこそ、それに魅せられた学者もいました。研究されていない分野を切り開くことで有名になろうとしている人達です。KaempferやVon Sieboldにもその野心があったことは、否めないでしょう。しかし日本とその文化がヨーロッパの知識人たちの思考を刺激したかと言えばそんなことはありませんでした。

 元禄時代から、日本人はオランダや、ヨーロッパの思想や科学に興味を示し始めます。中国や、東南アジアでも、ヨーロッパ文化への関心はありましたが、日本における関心の密度はずっと大きいのです。蘭学という名称は1770年から見られますが、徳川時代の知識層の中では、これはひとつの文化的な流れを形成しました。あたかもMontesquieuの 「ペルシャ人の手紙」におけるペルシャ人のようなかたちで、日本の文学作品にもオランダ人が登場します。

西欧からの挑戦と日本の対応

 19世紀は、西洋の政治力や、経済力、軍事力、技術力が、日本に挑戦状を叩きつけた時期です。日本は、それに対して何らかの対応をしなければならなくなりました。けれども、それよりずっと前に日本の有力な知識人たちが、西洋文化に対して自発的に反応していました。なぜ、西洋文化と科学に対してこのような自発的な反応が日本に現れたのでしょう。これは単に知的好奇心のせいだったのでしょうか。それとも何かほかの要素もあったのでしょうか? これについて考えてみることは大切でしょう。そうすれば、蘭学の性質や、オランダと日本の科学の交流だけでなく、外界に対する日本の反応パターンがわかるからです。

 西洋人は、蘭学の展開を、ヨーロッパでの啓蒙運動と、つい比較したくなります。どちらの運動も似たかたちを持っており、蘭学者の中には、啓蒙思想者とよく似た人格の人もいるからです。しかしこれは、全然ちがうものです。蘭学は、出島のオランダ商館に配属されていた通詞たちのうちからまずおこりました。この通詞たちは、オランダ人の医者が診療をするときに興味を持ってメモを取ったり、観察したり、わからないことを尋ねたりして、西洋の医術のなにがしかを身につけました。そして、彼らの得た知識は日本の医者の関心を呼び、こうして西洋医学への関心がゆっくりと高まったのでした。江戸時代には、医者を開業するのに免許はいらなかったのです。だから、誰でも医者になれ、これは社会的地位を得るための数少ない近道でした。だから彼らは新しい技術としてのオランダ流の考え方や治療法を身につけようと、熱心に努力したのでした。

 また、このころのほとんどの医者は正式な儒教教育を受けていません。ですから、オランダの医学概念を学んでもイデオロギーの点ではあまり抵抗がなかったはずです。しかし、ひとたび通詞たちや一部の医者が西洋の思想に関心を持ち始めると、幕府が警戒しはじめました。西洋思想への興味は、それがどんなものであれ、幕府にとって、疑わしかったからです。幕府は儒教の教えを背景として政治をおこなっていました。だから、この外国の思想に対して、儒教の立場からの評価をはっきり示さなければならなかったのです。しかし、幸いなことに、儒教は必ずしも一枚岩ではありませんでした。例えば、儒教に古学派という一派があります。この一派は、実用的学問に重きを置き、古典の原典に返ることを説きました。この古学派の出現によって、西洋医学の研究を深めたい人たちの立場が間接的にせよ強められました。そして、18世紀の初めに、大きな進歩がありました。幕府おかかえの儒学者である新井白石が、西洋の研究を合法なものとしていくらか認めたということです。ただ、「西洋の芸術、東洋の道徳」というように受容すべきものは科学に限りました。この原則によって、蘭学はその進むべき道をおおかた決められたのです。キリスト教を扱わない洋書についての禁止が解かれたのです。

 しかし、もう一方でこれは、幕府が西洋の研究をどの程度まで進めさせるつもりか、はっきりと示したことでした。「西洋の芸術、東洋の道徳」の原則は、西洋研究のどの分野の研究をしてよいかだけではなく、その研究の成果をどの程度日本の信条へ当てはめてよいかも限定していたからです。
 初めのうち、この制限はあまり関係ありませんでした。将軍吉宗の支持もあって、西洋への関心はたいへん高まりました。吉宗の農地改革と関連して、西洋の天文学、特に暦づくりが研究の一分野として加えられました。また、植物学も医学と同じように、農業について有効だとされたので受け入れられました。以上の4分野、つまり医学、植物学、天文学と暦の作成、それから、ずっと後になって軍事技術の分野が蘭学の主流となったのです。

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