慶賀の見たオランダの日々 四番 商品計量図

困難を超えた大きな業績

 蘭学者の直面した困難を思えば、その業績の大きさには感服せざるを得ません。前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢ほか、多くの蘭学者の話は非常によく知られているので、ここでのべることはやめます。ここでは天文学の分野を見てみましょう。一般に受け入れられている儒教の世界観と最も対立しそうだったのが、天文学の研究でした。天文学での進歩の具合で、蘭学者がどれほど知的自由を享受し、蘭学に向けられた偏見を乗り越えてきたかがわかるでしょう。残念なことに、この分野の進歩はごくわずかでした。西洋天文学の中心である太陽中心説は、蘭学者たちよりもむしろ、神道を踏まえた国学者が興味を持ちました。太陽が宇宙の中心にあるということは、平田篤胤の主張する「神道の正当性」に合っていたのです。しかし、篤胤はそれを逆に自分の論点を立証するために利用したに過ぎません。平田篤胤の支持は科学の研究には、あまり役に立たなかったのです。

 西洋の地動説を実際に紹介したのは、18世紀末、本木良永の訳によってです。「地球が丸い」ということは、もっと早い時期から天文学者に受け入れられていました。ところで、蘭学者がほとんど気づいていなかった大きな問題が西洋の天文学にはあったのです。もしかすると、天文暦学者の西川如見はこのことに気づいていたかもしれません。それは、西洋の天文学が、儒教の唯一絶対の教義、つまり、「天の秩序は、同時に、道徳の秩序であり、これが、社会の秩序に反映される」ということを否定しているということでした。これについて、蘭学者たちはおそらく、「西洋の宇宙論のほうが不十分で、この宇宙論に、儒教の道徳秩序を補えば完全なものとなる」と、考えていたのだと思います。既して、蘭学者は、「西洋の芸術、東洋の道徳」の範囲内で、おとなしくしていたのです。その柵を越えようとすれば、幕府が、彼らの柵の中に追い返しました。

 もちろん、何人か異端児もいます。特に趣味として蘭学に近づいた人々がそうでした。しかし蘭学者の大半は一方で、正統派の儒学者でありつづけようとしたのです。だから、彼らは西洋科学を本当に知ることはできなかったのです。蘭学者が勉強したのは、医学、植物学、天文学と、天文暦の作成の実用的な面だけ、それも、自分が持っているイデオロギーと対立しない程度までだったというわけです。この点において、蘭学は、ヨーロッパにおける啓蒙運動とまったく異なります。「理性」の名のもと、啓蒙思想者たちは、教会や国家も含めて、あらゆる社会的、政治的機関を非難しました。その結果、科学の研究は、キリスト教の鎖から解き放たれたのでした。一方日本では、科学の研究は儒教の世界観というかせを解かれて、自由になることはなかったし、そんなことは許されもしなかったのです。幕府は、事実上、ヨーロッパで長い間教会がしてきた役割を、果たしたのだと思います。

慶賀の見たオランダの日々 四番 商品計量図

慶賀の見たオランダの日々
四番 商品計量図

  オランダ貿易の輸入品としては、主なものとしての生糸や毛織物・絹織物・木綿などのほか、鮫皮・砂糖・鉛・薬種・蘇木・ガラス・洋書などがあった。
 江戸時代の初めごろの輸入品のトップはなんと言っても生糸であった。しかし生糸は18世紀の初めごろから国内の生産が増大し、輸入額は減少していった。代わって、トップの地位についたのが砂糖であった。この時期バタビヤでの砂糖の生産は増大し、これが大量に日本に輸入された。以来砂糖は幕府の保護策もあって、幕末まで輸入品の主力であった。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

“管理”は常に創造性の芽を摘む

 日本の外界に対する反応において、政府や行政機関の役割があまりにも大きいのは、驚くべきことです。日本では、奈良時代に中国の制度と、仏教を受け入れました。徳川時代には、キリスト教を拒絶して儒教を取り入れました。明治維新前後の近代化努力もすべて、政府のイニシアチブと統制によってほとんどが決定されました。日本では文化交流やその所産は、まず、政治的選択の問題となるのです。蘭学も例外ではありませんでした。それが通詞たちだけのものでなくなったその瞬間から、幕府の詮索と統制の対象となったのです。19世紀の前半、蘭学はたしかにたいへん広まりました。最も注目すべきことは、蘭学が藩の学校や、大阪の適塾のような個人の塾へと広まったことです。この個人の塾には、日本中から学生が集まりました。幕末期、政治的緊張は増していきましたが、西洋科学の精神も育ちつつあったのがわかります。しかし、いくつか事件が起きてから、幕府は民間の活動を厳しく弾圧しました。そして、「蛮書和解御用」を設立し、これら機関の指導的な蘭学者たちを、そこへ吸収しました。ここでも日本の歴史によくあるとおり、政府が自由な研究の限界と方向を決めてしまったのです。

 蘭学は、こうした限界があったにもかかわらず、驚くべき成果をあげたと思います。私たちは、蘭学者にそれ以上の期待をするのは無理でしょう。蘭学者たちは、西洋科学の体系だった教育を受けたことはなかったのです。手に入れた西洋の本は、書かれた年代が、まちまちでした。だから、どれが古くさいもので、どれが最も新しい理論なのかもわかりませんでした。また、蘭学者たちは幕府の干渉にも注意しなければなりませんでした。それに、忘れてならないのは、蘭学者たちは、自然の秩序が社会と道徳の秩序と一致すると考えられていた世界に住んでいたことです。蘭学者たちも、その考えを信じていたのです。だから、「学術と道徳は、ふたつの全く異なったものだ」などと、真剣に考えたこともありませんでした。荻生徂徠や、西川如見のような、このことに気づきそうになった思想家たちも、道徳的秩序の優先に納得してしまいました。新井白石の「西洋の芸術、東洋の道徳」は、この問題を解決しているように見えます。けれども、「東洋の道徳」の真理が、自然界に何らかの解釈を加えたものに頼っているかぎり、科学、すなわち芸術における根本的な進歩はなされないのです。

 蘭学は、確かに西洋科学に対する日本人の自発的反応でした。そして、多くの点において明治維新とともに始まる近代化に一役買いました。だが、日本は開国するまで西洋科学の大きな脅威にはさらされず、開国した時には、日本は、すでに西洋を受け入れる心構えができていたのです。いや、むしろ、受け入れる準備が出来すぎていたかもしれない。なぜならば、蘭学というケースを経験して、「西洋の芸術、東洋の道徳」の原則ができあがっていたからです。この原則を利用して、明治政府は、さっそく「管理の教育」を作り上げました。そして、これが今日まで、多くの点で科学的創造性の芽を摘んでいるのです。

 私は、ここで蘭学の欠点ばかり強調することになったかもしれません。でも、私は、むしろそんな限られた状況においてさえ、蘭学者が知識の探求を断念しなかったということを紹介したかったのです。

 何よりも、蘭学は、今日ではもう忘れ去られた貿易の利益よりも、ずっと大切なもの、380年前に日本とオランダの間で始まった交流の、最も大切な所産なのです。


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