慶賀の見たオランダの日々 五番 倉前図

科学の認識・方法・制度

 しかし、蘭学という観点からいいますと、やはりオランダの書物を通して接触するということがいちばん確実な道でした。人と会ったり、物を手に入れたりというのは、自分たちが書物から苦心して得た知識や情報の確認として、ぜひ必要でしたが、やはりそのまえに書物を渉猟することが大切だったのです。また、翻訳をきちんとするということにも熱情がそそがれました。特に有名なのが杉田玄白たちによる『解体新書』の翻訳です。 
「考へ案じても解すべからざる」には「くつわ十文字」つまり⊕印をつけ、⊕印だらけの中で3年間も熱中した作業でした。これは1774年に刊行されました。

 このようにして蘭学は、日本にまさに科学というものを根づかせた基になったのですが、しかし、それは、けっして太い根ではありませんでした。つまりまるで鉢うえのようにひよわな科学の受容であったと、残念ながら言わざるを得ません。と言いますのは、科学は一般にヨーロッパという非常に限られた地域において、17世紀に成立するわけですが、そのことは3つの問題にかかわっていたと思います。ひとつは態度。つまり何に学問の根拠を求めるか、何を真理とするかという態度の問題です。儒学と比較して考えますと、儒学では先哲、先生の教えを学ぶ学問でして、それをひたすら信奉するということで、面授口訳に重きをおいていました。信ずることに根拠があるわけです。しかし、科学は疑い、調べ、認識するという態度を持っています。また先哲のものを見るのではなく、自然そのもの、人間と切り離して、対象化されている物としての自然、それに聞くのです。例えば、ガリレオは「自然は数学という記号で書かれた書物である」という有名な言葉を残しております。そういう認識がまず必要でした。また、人文学の領域では、そのよってきたる経緯を認識するということが大事でした。そういう自然と歴史、つまり存在Seinと時間Zeitにしっかり根拠を据えるという態度を持つことが、科学的学問の成立のために必須な条件でしょう。

 第2は、科学の方法の問題です。ただ単に経験を寄せ集めただけでは科学になりません。これを理論的に整理し、理論と経験というものが結合することによって科学が成立するわけです。もう1つ、科学の方法の特色に計量化・実験化・記号化ということがあります。しかし、江戸の儒学――朱子学では、専ら先哲の知識を習得するということに方法の重点が置かれていますから、実証性に欠け客観化できなかったわけです。

 第3番目に制度の問題があります。これは日本で江戸期に近代科学がついに成立し得なかった根本的な理由だと私は考えているくらいのものです。科学が成立するには、知を公開するという根本的な態度が必要で、そしてそれを支える制度がなくてはならない。例えば、学会であるとか、協会であるとか、知の公開を勇気づけ、評価し、それと引きかえに名誉を還元する、そういう組織が成立しなければいけない。

 福沢諭吉が『文明論之概略』という書物の中で、人間の知識と徳義に関して、「これからは私智から公智にいかなければいけないし、私徳から公徳ということに対して、目を向けなくてはいけない」ということを述べております。まさにそういう公開的な公的知識を支えるような組識が成立していなければならないのです。

 杉田玄白は『形影夜話』(1802年)の中で非常に面白いことを指摘しています。これは荻生徂徠のことを論じている……。徂徠はいうまでもなく、江戸期の体制的な学問であった朱子学を批判した古学派の人物です。その徂徠の兵書の中の軍理という言葉に玄白は非常に刺激されて、ほぼこういう意味のことを書いています。「これからの本当の医学というものは、医術だけでは駄目である。医理ということが必要である。しかし、医理ばかりやっていたら、これは書物好きになってしまうだけだ。一方医術ばかりやっていたら、これは療治好きにすぎない。医学好きになるには、この2つが両々相俟つことが大事で、そのようにして初めて真の学問としての医学というものが成立するのだ……」

 これは先ほどの方法、つまり理論と経験が結合しなければいけないということを、まさに言い当てている文章だと思います。さらに彼は、具体的に論じます。「夫(それ)医術の本源は、人身平素の形態〔解剖学を指す〕、内外の機会〔生理学あるいは病理学を指す〕を精細に知り究るを以って、此(この)道の大要となす」
 なかなか的確だと思います。

優れた個性たち

 さきに述べた科学の態度についても、ただ単に先師、先学が言ったことをうのみに信じ込んでいくという態度ではなく、やはり自然とか歴史に問い返してみるという実証的な精神が大切だと見ている学者も、日本にいなかったわけではありません。例えば、朱子学をやはり批判した日本陽明学の祖である中江藤樹は「致知格物」ということを言っております。つまり、知識に致るは物を格(ただ)すにある、ということです。知識を獲得するためには物に聞かなければいけない、その物というのは人間の五官、あるいは人間の思惟(デンケン)の対象になる形ある事物だ、というのです。

 荻生徂徠は歴史性ということをたいへん強調し、知と規矩(きく)、つまり思惟と法則との関係を考えたことでも知られています。こういう圏内から、例えば吉益東洞という医者が出ております。その著に『万病一毒論』というものがあります。「すべての病気は毒から発症する。薬も毒だ。人体に対して、ある働きかけをするというのは本質的に毒である」――というのですが、これは卓見ですね。吉益東洞はまた、「親試実験」、つまり親しく試みて、実のあることを験すということを強調した人物です。平賀源内も自分で寒暖計やエレキテルなどを作ったのですから、そういう実験的な精神を当然持っていたわけでしょう。
山野を常に渉猟した貝原益軒や阿部将翁、そういった人たちもそうだったろうと思います。そういう名前を挙げていくと、きりがないほどです。例えば、三浦梅園はまさに自然と歴史というものを天(てん)と神(しん)という形で、見事に捉えた人物だろうと思いますし、大阪の有名な商人学者の山片蟠桃も、地動説をいち早く取り入れ、さらに驚くべきことに宇宙の中に生命がほかにも存在するだろうというような推論を見せています。わが国にニュートン力学を導入した志筑忠雄も、実験を重んじた人でした。

 このように検討していきますと、日本で蘭学が科学になり得なかった理由は、やはり制度に問題があったと思わざるをえないのです。ヨーロッパでは、17世紀の後半にロンドン王立協会とパリ科学アカデミーという2つの組織ができ、それぞれ科学雑誌を発刊しております。つまり知がいち早く共同財産になる制度が競い合っていました。日本の場合、優秀な先学はいっぱいいたにせよ、その知が公的なものになるための組織ができるには、かなり時間がかかりました。江戸末の本草学の愛好者たちのグループには集団討議も生れていました。富山の薬の基礎となった富山藩主、前田利保を中心とする赭鞭(しゃべん)会、尾張本草学の嘗百(しょうひゃく)社などです。実証的共同研究もそこでは見られました。しかし学会の性格を意図した組織のはじめは多分明六社でしょう。明治6年、つまり1873年に、当時の新知識であるアメリカ帰りの森有礼と旧幕臣系洋学者たち、福沢諭吉、西周、津田真道、加藤弘之といった錚々たる人たちが社中として集まった知的結社です。月に2回集会を開き、『明六雑誌』という定期刊行物を出しています。こういう体制が明治に入ってやっとできたのです。そしてこれを追うように東京医学会社であるとか、東京数学会社、東京化学会、そういう学会組織が明治8年から11年にかけて成立するのです。

 つまり、私が特に強調したいのは、蘭学というのは、たしかにオランダ渡りの科学技術に触発されて、非常に優秀なエリートの関心をひいた……。その意欲も能力もたいへんなものだったけれども、問題は、社会的な土壌が江戸時代はまだ荒地だったということです。科学というものがヨーロッパで成立した条件に照して、いろいろと、比較の目で考えていきますと、200年余の遅れがあった、そういうふうに結論せざるを得ません。

科学の種、そして土壌

 しかし、にもかかわらず、オランダが日本に種を蒔いてくれたということは大きかったと思います。その種が育つか、育たないかは日本の責任でした。日本の土壌の責任でした。つまり、植物的な文明史観に立ちますと、立派な花をつけるか、つけないかは、まず種が優れていないといけない。しかし、同時に気候、あるいは土壌が豊かでなくてはいけません。それでやっと見事な花が咲くわけです。

 いま私は改めて考えるのですが、その環境作りは、明治以降にまさに任されたわけです。明治以降の近代化の中でもお雇い外国人たちは、オランダ人を含めて非常に大きな役割を果してくれました。われわれはいま、思いを新たにして、こういう過去、営々と日本が近代化に進んで行くのをいわば手引きしてくれた外国人たちと、その難路に挑戦していったわれわれの先輩たちの勇気に対して、改めて感謝するとともに、今後の科学の発展と、わが国と地球文化圏の未来のために、より豊かな土壌づくりを続けなければならないと考えます。


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