慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

価値観転換のきっかけとして

石附 その問題に入る前に、1つ言いたいのですが……。レメリンクさんが日本人の西洋理解は理解よりむしろ誤解の側面があったと言われたのですが、私か名前を出した佐藤信淵の場合とか、本多利明、あるいは三浦梅園といった人々は、状況思考であるということがあります。あるいはもうちょっと社会学的な用語で申しますと、自由に浮動する知識人と申しましょうか、そういうところがあります。つまりあまり定着せずに日本国中あっちに行ったりこっちに来たりしています。危機的な状況では、古来の、あるいは既成の理論だとか思想にとらわれないで、自由な発想をする人が出て来ます。例えば、キリスト教は良法である、よき宗教であるという認識すら出てきているわけです。

 こういうことで、これは情報における西洋との出会いで、価値観あるいは世界観が大きく転換したわけです。同じことは、そののち幕末になって1860年、ご存じの万延元年に、初めて正式の使節団がアメリカに行きましたが、そのときに連中が驚いたのは、日本のタテの序列と異なり、目のあたりにアメリカにおけるヨコの関係というか、ヨコの秩序を見、そのモラルというものがしっかりしているということに感じています。これは蘭学というよりも、蘭学の1つの広がりの洋学ということと考えていいと思いますが、そういう認識が出る。そういうことの認識の出発点が、蘭学を中心とした情報の集積から出てきた、ということを申し上げたいのです。

 また、外国文化の1つである儒学を受け入れる際の、教育における1つの土台というか、受け手となる条件のことです。これはさっき吉田光邦先生とちょっと雑談をしていたのですが、例えばこういうことがあります。蘭学の勉強ということで、適塾などもそうですが、あれは皆さんはもうお読みになったと思いますが、福沢の『福翁自伝』とか、先ほど伴先生が名前を出された長与専斎の『松香私志』という、この2つが蘭学塾としての適塾の教育を非常に生き生きと描いているので、是非お読みいただきたいのですが、そういう学習の中で、洪庵先生というのはあまり教えないわけです。みんな同輩教育でやるのです。学生同士で勉強をする。その場合の勉強のやり方というのは、結局大変な実力主義だし、年齢などは関係ない。実力によってお互いに先生格になり、生徒の役割になる。それで、しょっちゅう試験があって上下する。そして、その基本になる勉強の仕方のスタイルというか、学習方法は伝統的な儒学教育がそのままベースになっているわけです。中身を分からないで専ら読むだけという素読から、意味を理解する講釈、つまり今で言う講義、さらにお互いにみんなで勉強し合って総合研究をする段階の輪講、それからもっと進みますと、いまで言う独自の個人研究である独看と、いくつかあるわけです。そういうものがそっくりそのまま踏襲されているという点です。明治に入りますと、英語教育なら英語教育の場合でも、やっぱり英語の文章がありますと、返り点を打ってやるということがあります。

 ただ、江戸時代にオランダ学をあまりにもやりすぎたせいでしょうか、いま日本人は英語下手、外国語がなかなか上達しませんが、それはややオランダ学、オランダ語の勉強のやりすぎの後遺症の1つだと私は思います。例えば「カム・ヒヤー」というのを「コメ・ヘレ」と発音していた。そういうことで、いまもって日本人の発音はうまくないのですが、これはやりすぎの後遺症です。ということで、ことほどさように、やっぱり受け手の土台というのはあったということです。それをちょっと補足しておきたいと思います。

金子 建前としての教育制度の近代化が一方であった、しかし、その中身というか、内実のところは、伝統的な儒学を学んでいく形式が、案外継続しているのではないか、というご指摘だったのではないかと思いますが、レメリンクさん、大体ここに出ている日本人のパネリストの方々の多くは、やはりもう少し蘭学受容の中に積極的な意味があったのではなかろうか、ということを言いたいようなのですが、いままでのご意見に対して印象で結構ですからお願いします。それからまた、ご意見を述べていただけたらと思います。いかがでしょうか。

慶賀の見たオランダの日々 九番 玉突き場図

慶賀の見たオランダの日々
九番 玉突き場図

  出島内の遊女部屋は、花畑内にあった。ここには娯楽の道具が用意してあった。出島に出入を許された日本人の女性は、「阿蘭陀行」と呼ばれた遊女のみであった。当初阿蘭陀行の遊女は、日本行や唐館行に比べて格が低いとされていたが、天明2年(1782)、商館長イザアク・チチングが初めて太夫格の遊女浮音を出島に招いてより以後、太夫格も出島に出入するようになった。
 商館長ヘンドリック・ドーフと京屋の遊女瓜生野、シーボルトと引田屋の遊女其扇(おタキ)などの話は有名である。道富丈吉はドーフと瓜生野の子として文化5年(1808)に生まれたが、わすか17歳で若死している。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

 

レメリンク いまは、私は本当にここの話合いを楽しんでいるので、この主題について、あまりコメントしたくないのです。

吉田(忠) レメリンクさんの旗色が少し悪いので加担したいと思います。いまお話があったように、翻訳の問題については、新しい概念が入ってくれば当然誤解が出ます。翻訳とは誤訳のことであると私は言いたいくらいです。外国語を漢字に置き換えると、漢字そのものが1つひとつある意味を持っていますからそれが独り歩きしてしまいます。ところで蘭学者と呼ぶとき2種類の学者がいます。実際にオランダ語で読む人と、翻訳を通じて西洋事情を学ぶ人との2種類です。実際に自分が格闘して翻訳をした人は、自分がきちんと訳せなかったところはよく分かっているのですが、訳されたものだけを読む人にはその辺のところは分かりません。訳された言葉が独り歩きするのです。佐藤信淵とか本多利明などは、オランダ語が読めませんでした。

 さらに言えば、翻訳するときにどんな言葉を使うかの問題があります。当然いままで自分が持っていた知識の用語を使わなければなりません。伝統的な考え方、言葉にどうしてもひきずられるでしょう。ですから、そこにずれが生ずるのは当然だと思います。伊東先生の言い方を使えば、屈折するほうが面白い。しかし時代が経っていくと、誰かが翻訳したものがそのまま使われ出します。元の意味を問うことがありません。例えば私どもは物理学の用語である遠心力などという言葉を日常的に結構使っていますが、「遠心力の本当の意味を説明してごらんなさい」と質問されれば、われわれは答えるのに結構苦労するでしょうね。

 私たちがそういう言葉を無意識に使える背後には、出来上った“制度”というものがあると私は思うのです。そういう新しい言葉あるいは文法というべきものができてしまえば、その作った言葉で話していけばいい。これはいま翻訳ということで話しましたが、教育の場合、もっとはっきり制度の効用ということが言えるでしょうね。残念ながらそういう制度が江戸時代にはなかなかできなかったということを私は指摘したいのです。

 科学の面で言えば、さっきから言われているように、安政年間、医学伝習所とか海軍伝習所ができたのが制度の始まりで、あれで日本の新しい知識のレベルが上がりました。江戸時代のほとんどにわたって、残念ながらヨーロッパの知識に関しては断片的にしか入らなかった。だから、蘭学の歴史をたどって行くと、当然偉いことを言っている人が断続的には出てくるわけです。しかし、それが普遍化しません。早い話が、翻訳された専門用語でも訳者個人個人によって違ったりします。まあいちばんよかったのは『解体新書』以来杉田玄白の流れが非常に大きな人脈を作って行ったことでしょう。これは学校制度ではないけれど、そういう人脈によりお互いの理解がきちんとできて行きます。また適塾などは明らかに学校で、一種の制度でした。ここからは豊かな成果が上がったことはご存じのとおりです。そうした制度ができるまでの時代の実態を眺めれば、レメリンクさんの言われたように、内容的にはあまり程度の高いレベルまで達していません。

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