慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

本当に自由に考えさせたのか

石附 その辺の移行期について、ひとこと。幕末の1862年、文久2年に日本人がオランダへ留学したということを先ほど申しましたが、実はその辺から蘭学は凋落するといっていいでしょう。ちょうどその1862年、薩摩藩士松木弘庵、のちの寺島宗則がペテルスブルグから日本に手紙を出しています。その中の感想で注目されるのは「もう時代はオランダではない。オランダに来てみたら、ちゃんとした本はほとんどドイツやイギリスのものの翻訳である。オランダは既に西欧の傍流にすぎない。これからは独仏英から学ぶべし。留学生もそちらの方に派遣すべきだ」ということです。また、日本人の伝統的な対外観に大きく修正を迫ったのがロシアでした。なるほどロシアの首都ペテルスブルグでは、確かに絢爛たる西洋文化が花開いていても、ちょっと外れたらこれは大きな未開が広がっていました。のちの文部大臣森有礼も留学生としてちょうどそのころロシアに行っていますが、ロシアが「西洋の田舎」であることを発見し、日本人は江戸時代ずっと対露恐怖症ですごしてきたが、これは修正しなければならないと考えています。

 幕府が倒れる段階に至ってオランダ学というのは灯が消えたようになります。公の留学生も明治維新直前まではオランダに数多く行きますが、あとはイギリス、フランス、ロシア、特にイギリスが増えます。幕府側も、幕府を倒そうとする薩長側も、ともにイギリスに行くのです。明治に入りますと、アメリカ、ドイツへの留学が増えてまいります。明治元年から7年ぐらいまでを、私は「海外渡航流行時代」と言っていますが、百数十人のうちオランダへ行くものはほとんどいませんでした。

 しかし、例えば教育の面で申しますと、縁が切れたどころではなくて、即物的にも、あるいは教育を支える理論の面でもずっとオランダの影響が生き続けていることは、否定できません。例えば福井県の港町三国町へ行きますと、丘の上に忽然と白亜3階建ての上にさらに2階建ての望楼がついた実に見事な建物が残っています(現在はコンクリートで復元)、今日では三国町郷土史料館・竜翔館となっていますが、元々は竜翔学校といいました。1876年(明治9年)、大阪の淀川改修に来ていたオランダ人技師エッシャーが、やはり河川改修のために、九頭竜川で仕事をしました。そして、当時は豊かだった港町の市民の要望に応え、学校の設計図をつくったのです。建造費は当時の金で25,000円といいます。いまでいうと3億近い金額でしょうか。

 また、日本における明治以後の教育を支えた近代教育思想の中には、子供に物事を具体的・即物的に教えようという考え方が濃厚でした。そんな理論を紹介し、翻訳したり、実際上の役割を果たしたのが、先ほど名前を挙げた内田正雄であり、また、オランダ人のフルベッキ、ファン・カステールです。この2人のオランダ人は明治初年に日本にやって来たお雇い教師です。2人とも英独仏語が全部やれました。それを教えたわけです。また基礎学を教え、近代教育の中身をじっくり教えたということで、これは現代教育にも通じるオランダ文化、教育の貴重な遺産の1つです。

レメリンク 私たちは科学的方法のうち最も基本的な要素の1つを見るべきだと思います。それは自由に研究ができたかどうかということです。西洋が、世界の科学に対して何らかの貢献をしたとすれば、それは絶対に自由に研究するという伝統をたてたことでしょう。19世紀初頭に日本にあった私立の学校……塾の発展は「自由に思考する人々」のあつまりだったことに大きな意義があります。

 こういった背景の中で、徳川時代末期と明治時代初期のオランダ人教師たちの役割についてみることが大切です。長崎のPompe van Meerdervoort, Bauduin, Gratamaとそれ以前のTitsinghなどの仕事を比べると、PompeやBauduinの仕事ははるかにすばらしいのです。

 しかし、その方法を見てみると必ずしもよくないと私は見ます。Pompeは、医学が西欧の大学で教えられているような方法では日本人に教えないと、はっきり言っています。
「私は理論や哲学的問題には全く触れない。軍医養成機関のような実地主義で行く」というのです。つまりこれは無理矢理押しこむということにほかならず、決して自由に学ぶことではなかったのです。

 多くの点で、確かにそれは非常に能率的でした。またおそらく当時はそのことが双方に必要だったでしょう。しかしそれは多くの点で、自由に考える人の創造性を殺したと思います。石附先生が先ほどちょっと触れられたと思いますが、日本で問題になるいわゆるつめこみ教育のルーツは、そんなところにもあると私は思うのです。まあこれはオランダ人のせいばかりではありません。明治政府につかえた多くのお雇い外国人教師は、多少ともそういうつめこみ教育に終始しました。

吉田(忠) 実践的な教育のみ行われ、医学の思想などは軽視されたというのは、よく言われることで、いわばわれわれには耳にタコなのです。しかし、これは日本人の要求でもありました。いまのは医学の伝習所の話ですが、海軍の伝習所でも、先生が理論を教えているのに生徒は早く船を走らせる勉強をしたいと言い続けました。天文学など、どうでもいい、数学もどうでもいいと思っていたらしいのです。それはある程度状況によります。非常に差し迫った状況がそこにはあったのです。つまり近代国家を急いで作っていかなければいけなかったのです。明治になっても、ベルツが医学について同じようなことを言っています。日本人はどうも実践的なほうにばかり向いていて、医学を成り立たしめている背景についてあまり考慮してないと……。

金子 お雇い外国人によるさまざまな技術知識の伝達にあたり、その方法、教育の内容に問題があったというのがレメリンクさんのご指摘です。これについて吉田光邦先生、何かご意見はありませんか。

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