慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

発言1
日蘭の交易を支えたもの
角山 榮

オランダは独立したばかり…

 私は日本とオランダの交易の歴史について少しお話したいと思います。17世紀はよく“オランダの世紀”というふうに言われます。そのころオランダはいわば世界の覇権国として繁栄していました。19世紀がイギリスの世紀、20世紀はアメリカの世紀と呼ばれるのと同じような立場で、17世紀はオランダが世界を支配した時代でした。どうしてオランダが世界一の通商国家として繁栄したのか、どうしてオランダが日本までやって来たのか。それを考えるにはオランダという国がどういう国であるかを見なくてはなりません。

 実はオランダは、リーフデ号が日本へやって来た1600年の、ほんの20年ほど前に独立したばかりの国なのです。ネーデルラントというあの低地域は、スペインのハプスブルグ王家の支配下にありました。スペインはカトリックですが、それに対してオランダは新教という形で、宗主国に背いて自由独立の旗を上げたのが1568年、ちょうど織田信長が京都に入ったころなのです。独立宣言をいたしますのが1581年です。その国がどうしてアジアへ来たいと思ったのか……。

 当時、スペインとポルトガルは王室が一体になって海上権を支配し、西ヨーロッパはもちろんのこと、アジア航路を全く支配していました。つまり、1498年、バスコ・ダ・ガマによってインド航路が開かれて以来の勢力がそこにはあったわけです。そのインド航路を、独立したばかりの国が船を連ねて行くということは、大変危険なことです。ですから1598年、リーフデ号など5隻のオランダ船隊は、アフリカ南端を廻るふつうのインド航路をとらず、大西洋を南下してマゼラン海峡を通り、南アメリカの西沿岸に沿ってずっとチリ沖まで上って行って、そこから太平洋を越え、はるばるとアジアへやって来たのでした。出発した時は5隻でしたが、一部はスペイン及びポルトガルに拿捕され、暴風に遭って難破したもの、また途中でオランダへ引返したものもあって、リーフデ号1隻だけが辛うじて九州の豊後沖に漂着したのです。

香料を買う銀が欲しかった

 この大航海の主目的は香料の獲得にありました。当時、東南アジア産の香料、スパイスはヨーロッパ人の食卓にとってどうしても必要な商品でした。なぜ香料がヨーロッパ人にとってそんなに必要であったか、いぶかしく思われるかもしれません。そもそも中世においては、今日のように食糧の貯蔵技術が発達しておりませんでした。ヨーロッパの農牧民族は、冬になると家畜を全部養えるだけの飼料がないために、家畜の半分ぐらいを殺して塩蔵し、それを少しずつ出して食べていたのですが、こんな塩漬けの肉は臭くて食べられたものではありません。料理の方法としては、その塩辛さと臭みを抜くのがポイントだったので、香辛料は極めて大事だったのです。しかしそれがヨーロッパに産出しないために、はるかアジアの南から、インドやアラビヤ商人の手を経てヨーロッパへ入っていました。原産地においては極めて安い香料が、ヨーロッパにもたらされると非常に高い値で取引されたのです。この莫大な利益は商人にとっては極めて魅力あるものだったのです。だからこそ誰もが危険を冒して、アジアへやって来ようとしたわけです。

 香料取引のためには、ヨーロッパから何か交換するものを持って行かなければなりません。何を持って行くか。ヨーロッパには毛織物などの製品がありますが、相手が暑い東南アジアの国では毛織物は要りません。結局、銀がいちばん喜ばれたのです。ところがヨーロッパには銀は産しません。したがって、ヨーロッパ人は銀を求めて、大西洋を越えてメキシコや南アメリカに行ったわけです。これは、コロンブスが初めて開拓したルートですが、その目ざすところはアジアの黄金の国ジパング―日本でした。日本は金銀をたくさん産出する国とされていたのです。

オランダの繁栄と日本

 コロンブスが着いた西インド諸島、そこから探検を進めたメキシコは、銀がたくさん出るところでした。その銀がヨーロッパにとって通商取引の元手になったのです。これを押さえたのはスペインでした。スペインは、そのときメキシコで造った銀貨、メキシコ・ドルをもって世界貿易の手段にしたわけです。

 オランダは、独立したばかりですから銀はありません。持って行く物がない。そこでアジアには日本という銀産出国があるので、そこで銀を手に入れようと考えたのです。今日では皆さん想像もされないと思いますが、当時の日本は、実際に世界一、二を争う金銀の産出国でした。慶長の大判、小判、あんな馬鹿でかい、しかもほとんど純金に近い金貨を造ったのも、金が豊富にとれたためですし、生野の銀山、石見の銀山なども大変な産額があったのです。マルコ・ポーロが伝えた黄金の国ジパングというのは決してうそではなかったのです。

 オランダが考えたのは、こういうことです。すなわち中国の生糸や絹織物を日本は買っておりましたから、オランダはそれを中国で買って日本に売り、日本から銀を手に入れる。その銀で香料を買って帰るということでした。リーフデ号に続き、オランダ東インド会社の船団は、その後続々とこの貿易に参入し、たちまちのうちに世界一の通商国家になったのです。つまりオランダの繁栄は、ヨーロッパのバルト海貿易における利益が大きかったことはいうまでもありませんが、もう1つの基礎は日本と銀の取引をしたことによるのです。その結果、オランダが世界一の商業国家として繁栄する。ところが、日本の銀資源がやがて涸渇します。1668年には幕府はついに、銀の輸出を禁止せざるをえなくなる……。それに伴ってオランダの国力も衰えるのです。もう1つ、同じころ西ヨーロッパでは3回にわたる英蘭戦争によってオランダは大きく後退する。こうして日本へ来るオランダの船も少なくなりました。17世紀の初めには、1年に10隻前後も来ていたのが、18世紀になると年にせいぜい1隻か2隻ということになります。

 銀が出なくなった後は、オランダは日本から軍需品として重要な銅を買っております。その当時、日本は銅もまた世界一の産出国でした。いまの住友の基礎はこの時代の銅の生産によって築かれたのですが、その大量の銅をオランダへ輸出していました。その銅の輸出も制限されるのは、18世紀の初めからです。以来、日蘭交易は細々としたものになりながらも幕末まで続きます。

慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

慶賀の見たオランダの日々
六番 動物園図

  出島の内部には花畑や動物園があった。図にみえる石造の日時計には、明和3年(1766)から翌4年まで商館長であったヘルマン・クリスチャン・カステンスのイニシャルH・C・Kが刻まれているので、この日時計は1766年に設置されたものであることがわかる。現在この日時計は、長崎市が整備している出島庭園内に保存されている。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

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