慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

発言4
教育の近代化と蘭学
石附 実

ランドセルの象徴するもの

 私の専門は教育学、主として教育史、あるいは比較教育です。そこで、現代日本における学校制度も含めた教育文化、あるいは教育風俗の中で、果たしてオランダがいかなる影を止めているかを考えてみますと、まず気がつくのはランドセルです。これは蘭学から生まれた言葉です。1850年、嘉永3年ですから、もうじきペリーがやってくるという、慌ただしい内憂外患のときですが、高野長英が『三兵答古知幾(たくちいき)』という題名の軍事戦術論を翻訳いたしました。三兵というのは歩兵と騎兵と砲兵のことです。なかなか明細な軍事技術書です。その最後の部分に軍の野営のことが書いてある。例えば、休憩するときに背負っていた背嚢をしっかりと自分の身体のそばに置いて休むこと、そこいらに投げ出しておいてはいけないというような軍事行動の教訓が入っています。この背嚢を、彼は草筐(そうきょう)と訳しておりますが、そこに片仮名でランセルとあります。つまりランドセルとは元々軍事用語でした。ただ、そのランセルという言葉がどうしてランドセルになったかが分かりません。この本は元々ドイツ語の本ですが、ドイツ語ですとランゼルです。いわゆるランドセルというものが使われ出しましたのは、明治末年、東京のハイクラスの子弟が通っている学習院の子供たちが使ったのが初めです。それが大正の末から昭和の初めに、都市を中心にして一般化し、今日に至っているわけです。

 もう1つ、もっと本質的なところで、現代日本における教育ということとオランダとの関係を考えますと、やはり学校制度ということがあるでしょう。

 もちろん光と影の両面があること果たしかですが、ともかくも、日本の近代化にとって学校教育というのははかりしれない力を発揮いたしました。常に国家の重要政策として、学校制度・学校教育は位置づけられています。そういうことの淵源も、実は江戸時代の蘭学を基礎にした西洋情報を土台にして、学校制度を考えたところから来ていると思います。

慶賀の見たオランダの日々 七番 調理室図

慶賀の見たオランダの日々
七番 調理室図

 肉食を常とするオランダ人にとって出島での食肉の確保は重要なことであった。そのために、出島内には飼育小屋などがあり、バタビヤから送られてくる牝牛や牡牛・豚・山羊・羊・鹿などが飼育されていた。
 調理室には、オランダ商館より雇われた三人の日本人の料理人がいた。この日本人の料理人達は、オランダ風の料理をつくるのが、たいへん上手であったとオランダ商館の日記に記してある。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

 

佐藤信淵が考えた学校制度

 国家において学校がいかに大事であるか、学校制度の整備が何よりも大切だという思想が初めて出、1つのアイディアとなったのは天保年間、1830年代の初めであります。経世家として名高い佐藤信淵が言っているのです。この人は、日本ではやや系譜の少ないユートピア思想の流れを汲む一人だと思いますが、当時の国内的な経済危機を憂い、また、鎖国体制で日本が世界に遅れているということを嘆いていました。それは、蘭学を窓口にした広い意味における西洋情報のルートを経て得た世界観です。彼が言うには、要するに、国家を救うのは学校制度を備えることにある。しかし現実に当時の学校制度は、ご存じのとおり、サムライ教育と庶民教育が厳然と分かれていました。しかも、サムライ教育も、幕府の正規の学校である昌平黌という学校と、各藩の藩校がある。庶民向きには寺子屋がありますが、サムライと庶民の接点ともいうべき私塾もあります。この私塾は江戸時代には珍しい近代性を持ちます。また郷学というものもありました。まあ基本的には封建制度ですから、身分ごとに教育制度も内容も違うということです。それだけ特徴というか、学校ごとのユニークさも出やすいと言えるかもしれませんが、全体としては、やはり国家的な統一性に欠けているわけです。

 佐藤信淵は、要するに、国家の経済的、政治的危機を乗り切るためには、打って一丸、日本国全体を通しての学校制度を作り、身分性だとか、地域性などは全部とっ払って、誰でも行けるようにせよ、というのです。武士であろうが、庶民であろうが、とにかく能力によって初等教育から高等教育まで行けるような学校をつくろうと言った

 まず幼児レベル、5歳から7歳ぐらいまでは、社会福祉的な政策も含めて考え、貧しい子供もほうっておかないで、集めてちゃんと教育する、そうすれば能力がある者が出てくる、それを伸ばさなければいけないと考えます。教育所とか、慈育館とか、いろいろな名前を当てていますが、そういう施設をつくる。8歳から15歳ぐらいまでは小学校という名を既に選んでいます。その中から、さらに優秀な者を選んで、都にたった1つだけ大学校というものをつくって入れる。これは完全なエリート校です。そういう所でしっかりといろいろな学問を教えて、それらの者が政治を行なえばいい。佐藤のモデルはこういう形になっていたのです。ただし、これは実現はしておりません。

 この考え方には、いろいろな特徴がありますが、1つは、能力中心主義です。しかも学問は西洋学の知識を前提にしていますから、客観の学問、理数をカリキュラムの中心にしています。基本的には、実践の学、実学と言えましょう。もう1つは、全国的なナショナルなスケールということです。国家的な次元でものを考えております。このものの考え方は、実は西洋に対する日本人のイメージ、つまり西洋観というものが、それまでの過去100年ぐらいの間に非常に大きく変わってきた、ということの1つの帰結であると思います。佐藤信淵の100年前には、有名な新井白石が『西洋紀聞』を書いています。その段階では、文明を2つに見るということをやっていた。1つは精神世界で1つはモノの世界です。

 シドチという密航者を相手にしていろいろ問いただしてみると、西洋というのはモノの世界に長ずると思える。これが非常に進んでいる、と白石は見ている。しかし、一方、彼ら西洋人はキリスト教という愚にもつかない宗教を持っている。例えばキリストの復活などというバカバカしい幻想を大まじめで信じているから、彼らの精神の世界はまったく駄目である……と白石は考えました。そうした白石の評価に従って、8代将軍吉宗も、西洋の科学・技術、つまりモノについての書物の解禁をするのです。これにより蘭学が発達しはじめます。

蘭学者の教育実践

 そういうことの1つの帰結が、あの『解体新書』でした。あれは単に翻訳したというだけのことではなくて、それによって日本の実証学がスタートを切ったという点で大事だと私は思います。

 一方、1770年代になると、西洋はモノの世界だけがすぐれているのではない、モノにすぐれている文明は、精神の世界もすぐれているだろうと考えはじめます。そしてそのことをいろいろな蘭学者が言うわけです。例えば三浦梅園は、特にオランダの政治思想に注目しました。オランダという国は、国王が良い政治をしている、仁政の国であるという。それは、例えば貧院、幼院という――これは福祉施設や孤児院のことですが――そういう貧しい人々への福祉が行きとどいていることでも分かる、と言っています。こうしてだんだん西洋の精神文明に対する評価が出てくるわけです。佐藤信淵の国づくりとしての教育論という考えも、こうした認識の延長線上にあるのです。

 1830年代には適塾などに代表される蘭学塾ができてきます。これは教育を通して実践の学を伸ばすという考え方のものでした。いよいよ蘭学者が教育実践をはじめたわけです。

 幕末の1862年に初めて、日本人が直接オランダに行って勉強するということになりました。その中に内田正雄という人がいます。日本で最初に西洋学校制度の翻訳をした人です。日本の学校制度は明治5年(1872)から始まるのですが、これは、全ナショナル、国家的な次元での教育であり、そこではいろいろな実業教育機関も備えられました。オランダ留学の中から、そういう現実的成果が生まれてくるわけです。

 オランダ留学は、初め専ら軍事技術の修得のために行ったのですが、軍事技術を習う前に基礎学をしっかり勉強しなければ駄目だということになり、それも自然科学だけではなく、もっと社会、政治というものも勉強しなければならないということになりました。軍事学伝習ということから、基礎学、一般学へと学習領域がグンと広がったわけです。しかし、ヨーロッパで彼ら留学生が感じたもう1つのことは、もうオランダは、必ずしもヨーロッパで特に進んだ国ではないという点でした。ドイツ、フランス、イギリスなどのほうがより進んでいる、そちらに目を向けようということになるのです。急いでそちらに目を向けようということになりました。つまり、蘭学から洋学全般へという大転換がここで起こります。この転換も、直接的な西洋との出会い、オランダとの出会いを通した転換だったわけです。

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