慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

発言5
まず南蛮学から見よ
伴 忠康

天文12年を原点としたい

 天文12年(1543年)というのは、日本にとってもヨーロッパにとっても自然科学のルネッサンスと言える年ですね。ヨーロッパではこの年にコペルニクスは地動説を唱えています。また、イタリアのパドワ大学で解剖の先生をしていたべッサリウスという人が、非常に立派な解剖の本を書いています。これは西洋医学のセンターみたいなことになります。

 ところで、この年は日本でいうと、ポルトガル人が種子島に鉄砲をもたらした年なのです。これは日本にとり大変なインパクトだったことはご存じのとおりです。そういうことで私は、この天文12年を非常に重要視して、これを元に蘭学を考えていくことにしています。まあ、これからしばらくは蘭学ではなく「紅毛学」の時代ではあるのですが、それが、日本にある種の土壌をつくったことは確かでしょう。例えばフェレイラ……ころびバテレンとして沢野忠庵になったフェレイラが、紅毛医学――南蛮医学を早くから普及させた、そういったことです。

 そして、リーフデ号が日本に1600年にやって来た。平戸に行きますと、英国の東インド会社の建物が残っています。

 オランダのほうは形が変わってしまっていますが……平戸という所は、お茶が入ってきたり、修行に中国に行ったりするときの基地でもあったわけで、何らかの関係で外国から来たものは、長崎から平戸のほうに押しやられているような気がします。その辺の研究も大切です。

大きかった適塾の存在

 蘭学といえば、他のことを言うより、医学がいちばん話しやすいでしょうね。漢方でなければいけなかった幕府の御典医に蘭方が採用されたのは、ほとんど幕末に近い……。安政になってポンペが西洋の病院を初めて作ります。長崎養生所、つまり精得館です。これは明治元年には長崎医学校になります。大阪では、明治2年に寺町大福寺に大阪医学校ができます。長崎の医学校の校長は、適塾出身の長与専斎です。適塾は1,000人ぐらいの塾生がいますが、その中から非常にいろいろな人が出ている。それが適塾の特色です。長与専斎は、いわば日本の医学制度、医療制度を作った人です。長与専斎は、医学校を作ることで文部省で医務局長、内務省では衛生局長などとなり活躍しました。また、彼は『老子』の衛生の経から衛生という言葉を取り出して、初めてそれを使った人でもある。もっとも、長与が医学教育を文部省、医療を内務省と医事を二元化したのはあまり感心しません。いまそれで大変不便なことがいろいろあります。

 適塾の塾生の話にもどりますが、中には築城をやった人物もいます。函館の五稜郭を作った人物で武田斐三郎です。官軍の大将の大村益次郎も適塾出身で、さらに幕軍、いわゆる賊軍の将である大鳥圭介も適塾出身でした。また高松凌雲は、幕軍の野戦病院の院長であり、ここで官幕兵を治療したので、日本の赤十字の元祖と申してもよい。これも適塾出身。そういうことで、五稜郭は適塾の者が作って、適塾の者が2つに分かれて戦争をして、適塾の者が野戦病院で官幕の怪我人を治した。興味深いことです(笑)。

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