慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

発言6
蘭学は本当に「ガラス窓」だったか
ウィレム・レメリンク

蘭学は本質的影響を与えたか

 出島はしばしば鎖国時代の日本の世界への唯一の窓だと呼ばれてきました。出島が何よりもまず貿易の場として機能したことばかりでなく、日本以外の世界について知る経路、特に西洋の科学について知る経路としての付帯的な機能も十分に持っていたということが、その評価のもとになっています。

 しかし、振り返ってみると、出島の経済的機能は必ずしも大きくありません。出島が存在した2世紀以上の期間を4つに分けて考えますと、その第一四半期以後、出島は急速にその経済的重要性を失っているのです。ですから出島の真正の遺産といえば、文化的なものであり、日本のための世界への窓に、世界のための日本への窓となったことです。そして、日本にとっての窓としての機能のほうが、当然より重要でした。出島を通って外に出た日本に関する知識は、西洋で珍しいものとして歓迎はされましたが、ヨーロッパ文化にはほとんど影響を及ぼしませんでした。これは特に17世紀と18世紀においてヨーロッパに伝わった中国の知識が、ヨーロッパに及ぼした影響の大きさと比較してみると、一層きわだった印象になります。しかし、逆に日本へ伝わった西洋、特に西洋の科学の知識が日本に与えた影響は大きかった……と、少なくとも歴史の本には書いてあります。

 しかし私は実はそのことにある疑問を持っているのです。それは本当に本質的な影響だったのだろうか……。つまり私たちは、蘭学者たちを、明治維新の英雄たちの直接の先輩とみなせるのでしょうか。実際に、蘭学者たちの業績によって日本が急速に近代化するのを可能にする基礎ができたのでしょうか。近代化していない日本の教師としてオランダ人が果たしたと言われる役割をすなおに認めないのは、オランダ人としての私の自然な本能に反することですし、これはすべての支流が独特な国家遺産という主流に吸収されていったというユニークな物語として日本の歴史を考える、日本で根強い傾向にも反することかもしれません。蘭学について考えるとき、私たちはまずそれが江戸時代の文化の傍流であったこと、それが明治維新以降では主流の一部となったことを見ます。しかし、いわゆる日本独特な近代化の過程の固有のルーツは、日本にももとからありました。蘭学の役目は、その動きに独得なものを加えた、というように評価されます。
 明治維新の推進者たちは、環境の重圧によりその文明開化の動きを進めたのですが、蘭学者は一世紀以上も前に既に同じ考え方を信念として持っていたのでした。彼らの中にはその信念のために命を失うものさえいたのです。当時、時代の主流の外にあった蘭学者たちのこうした立場を、このように評価することは、大変ロマンティックに見えます。蘭学者たちが近代化の推進者であるというこの考え方は、強く私たちの想像力をかきたてるのです。実を言えばほとんどの蘭学者たちはそんなことを考えていなかったと言ったりすると、異端者のように見えるかもしれません。しかし、事実はそうでした。蘭学者たちのほとんどは、生来社会のより保守的な部分に属する医者たちです。彼らの職業は、江戸で社会的に働くための数少ない手段の1つであり、彼らの蘭学研究は、彼らの特権をより大きくするための確実な方法だったのではないでしょうか。彼らのうちのほとんどの者は、別にロマンティックな革命家などではなく、支配者側の保護を真剣に求めていました。蘭学は彼らの名声を高め、富のもととなったのです。蘭学の主流は蘭学の保護者たちの基本的な世界観に対し決して影響を与えないような技術を収集することにとどまりました。

中国古典のように西洋科学を学ぶ

 もちろんこれは、幕府が望んだことでもあります。幕府は、蘭学の範囲を医学に制限しようと厳しく努め、それからはみだそうとか、思想的なものを受け入れようとするような数少ない者たちに対し、断固とした処置をとりました。しかし実を言うと、幕府はそれほど心配する必要もなかったのかもしれません。蘭学者たちの西洋の科学の理解の仕方は、非常に限られたものだったからです。彼らは、中国の古典を学ぶように、西洋の科学を学びました。彼らは、西洋の科学の発展の根元にあるものを、プロセスも何も知りませんでした。科学史や思想史にはほとんど興味を持ちませんでした。

 繰り返すようですが、蘭学そのものは、いろいろな時代や場所から技術と理論を寄せ集めたにとどまり、その知識自体の中にある矛盾さえ気づこうとはしなかったのです。彼らには当時の西洋の科学の中で何が間違っており、何が時代遅れのことなのかということもあまり分かっていなかったと思います。日本人が持っていた世界観に挑戦するような西洋の科学の哲学的な意味は、ほとんど完全に蘭学者たちの限界を越えていました。伊東先生が言われたように西洋を理解するにあたって彼らは、日本の世界観、儒教、神学、古学、国学といった、伝統的な学問の力をかりたのです。それなしでは理解できなかったでしょう。

 伊東先生はこのことをもって、日本人が西洋科学を理解するための独創性と評価されましたが、私は、それを蘭学の限界と見ます。もっともこれは討議を活発にするためにわざと取る立場でもありますが……。

限定的だったその役割

 蘭学の内容も蘭学の実践も、日本独得の世界秩序への挑戦や脅威でさえもなかった。決して独得の世界観への挑戦にはなりえなかったと思います。確かにごく小人数の蘭学者は幕府からにらまれたりしていますが、それはその研究のせいというより、その個性が脅威となったと思います。西洋科学の挑戦は、明治以前には日本にはほとんど伝わらなかったと言えます。

 教師としてのオランダ人たちの役割も限定的でした。彼らは決して西洋の科学の基礎を、体系的なやり方で教えようとはしなかったのです。江戸時代もまさに終ろうというころになって、ようやくオランダ人たちは、西洋の科学と技術を体系的に教えるようになったのです。ポンペやボードワンその他の人々のこの面における偉大な貢献はもちろん無視できません。しかし彼らは間もなく日本人に教える独占的な権利を失ったのです。明治時代初期においてはオランダ人はまだ重要な役割を果たしていましたが、その質も量も、極めて相対的な地位に立たされていました。

 このように見て行った場合、蘭学という日本の体験はどう評価すべきでしょうか。この体験は本当に日本史に大きな影響を与えたのでしょうか。あるいは、これは日本史のその後の転機によって重要と考えられるに至ったが、実は非常に限界的な現象だったにすぎないのでしょうか。象徴的に言えば出島は、西洋の科学の十分な豊かさを見ることができるガラスの窓だったのか、それとも、辛うじて何かがすけて見えるような、いくつか穴の開いた障子だったのだろうか……と、改めて考えてしまうのです。

慶賀の見たオランダの日々 八番 宴会図

慶賀の見たオランダの日々
八番 宴会図

  出島のオランダ商館にはカピタンと呼ばれた商館長以下、ヘトルと呼ばれた副商館長・倉庫長・支出役・決算役・書記・補助員・医務職員など、大体、10名前後の職員がいた。そして、この外に料理人や大工など下働きの雇い人や召使などがいた。しかし、ヨーロッパの女性の入国は厳禁されていた。
 商館長の任期は一年であった。そして商館長の重要な任務の一つに、江戸参府のことがあった。商館長が毎年参府するようになったのは寛永10年(1633)からのことであるが、寛保3年(1743)からは5年に一度と改められた。その期間も、寛文元年(1661)からの江戸参府は、正月に長崎を発ち、六月ごろには長崎に帰ってくるのが例であった。

写真・図版提供:長時歴史文化博物館

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