慶賀の見たオランダの日々 六番 動物園図

やはり創造的受容だった

伊東 オランダの方は、オランダが日本に何でもくれてやったとおっしゃるかと思いましたら、むしろ反対のご発言だったのでびっくりしました……。ところで、“気”の自然学の系譜は、西洋科学を日本的土壌でもって受けとめてできたことを、むしろそれは日本側の受容の限界のせいととるべきだというご意見も、一面うなずけます。実際、彼らの仕事には脱落、遺漏があるのみならず誤解にもとづくところもあるし、第一意味が分からなければ飛ばしてしまうのですよ。実際翻訳と原本を比べてみるとそのことはよく分かります。そしてその飛ばした部分に大変重要な新しいセオリーが入っていたりします。まあ、新しいものというものは、非常に分りにくいわけです。全く新しいものはいちばん理解しにくい。だから、そこのところをスキップしてしまう。いちばん根本的なところは飛ばして何とか分かるところだけを非常に曖昧な日本語で訳してしまう、というようなことは、特に蘭学初期段階にはあったと思います。 

 ですから、それは移入の際のリミテーションだと言えば言えるでしょう。例を挙げれば本木良永の場合など、そういうところがあったと思いますが、しかし、志筑忠雄のあたりになるとオランダ語そのものは大変によくできるようになっています。非常に透徹した理解力を持っていたといっていいでしょう。にもかかわらず、先ほど言ったように“気”という東洋的概念で理解する、あるいは接木しようとしているのは、やはりクリエーティブだと言いたいのです。
なぜかというと、ヨーロッパの学術がそのまま入ってきて、日本人の主体性抜きにしてそこに居座ったというだけだったら、それこそ全く受容的な態度だからです。もしそれをよしとする見地に立つとすれば、そういう努力は、明治に入って西洋科学がそのままストレートに入ってくるまでの、一時的なアダ花だったという評価になるかもしれません。

 しかし私はそうではなくて、やっぱりヨーロッパの知的刺激を受けながらも、自分たちの知的土壌でもって、その挑戦に対して積極的に応戦して新しいものを作っていく、という試みを評価したいのです。私は日本文明史、日本文化史の中の蘭学の意味を考えようとしています。ヨーロッパの文物をどんなふうに日本が受け取り、日本の中でどんなふうに変容し、作り上げていったか。それは日本文明史の発展の中に起こったことですね。しかもそれを日本列島に孤立させないで、世界的な規模の中で文明史的に考える。あくまでも日本文明史の一部としての蘭学なのです。そういう意味では、結局蘭学は日本学なのです。

 そういうふうに見ていきますと、私はそこでできたものは、1つひとつ非常に独創的な日本思想史の面白い例だと思います。しかも、それはいまでも死んでいない。アダ花ではない。というのは、この“気”の自然学が最近また非常に復活してきまして、ヨーロッパで注目されているからです。“気”というのは、物と心、自然と人間とをつなぐ一体的なエネルギーのようなものです。“気”というものを通して、医学や科学を考え直そうという考え方は、フロイト以後、ライヒだとかローベンなどという人により試みられています。バイオエナジーなどということを言い出すのは、全く“気”と関係がありますね。“気”というものでもう一度自然を見直そうということが、いましきりに起こっているのです。東洋の考え方と西洋の考え方の融合の1つの状況ですね。蘭学がやったことは、現代のそういうことのほんの萌芽的なものかもしれませんが、先駆的な仕事の1つとして見直していいのではないかと私は考えます。

レメリンク 蘭学を徳川時代の知的生活の大きな流れの一部として考えねばならないということについては、あまり異論がありません。しかし、それが創造性において限界があったことも、また確かです。それは江戸時代のもっとも正統的学問であった朱子学の問題だと考えています。朱子学的思考は、近代的な科学的な発展を促進できる内的な要素を持っていないと思うのです。また、当時の日本政府、幕府は、科学の発展については西洋におけるカトリック教会が果たしたのと同様の役割を果たしたように思います。

 カトリック教会はある時期明らかに科学の発展を阻みました。啓蒙運動の後、ヴォルテールなどの登場の後、ようやく西洋は宗教という科学の発展を阻んだすべての鎖をときはなったのです。国学の一部がヨーロッパ的なもの、例えば天動説などを取り入れたのは、それが自説にとって好都合だったからです。平田篤胤は、神道的思想の裏付けとしてヨーロッパの宇宙論をとりこんだのです。日本人が“気”の哲学をうまくアレンジしたのはたしかですが、“気”の哲学と“理”の哲学は、やはり別々のものだと思います。

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