この記事はIBM THINK Watsonに掲載された記事を転載したものです。
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CTO久世のクロス・ワトソン——脳科学 x Watson

取材・文: 五味明子

日本IBMのCTOである久世和資が、各界のスペシャリストとAIや最先端テクノロジーをテーマに対談する本コーナー、第2回目のゲストはテレビ出演や執筆/講演活動でもおなじみの脳科学者 茂木健一郎氏だ。AIや人工知能をテーマにした講演を行う機会も多いという茂木氏は、IBM Watson にも深い関心を寄せている。AIが人間の生活に身近な存在となりつつある現在、人間はAIにどう向き合うべきなのか。医療や教育の現場でのWatsonのユースケースを通して、AIと人間のあるべき関係性について脳科学のスペシャリストと久世CTOが議論する。

Watsonの進化で人間の医者はいらなくなる?

茂木氏:ここ最近、講演などで人工知能やAIについての話をしてほしいと言われることが多いんですが、実はけっこうIBM Watsonについても紹介していたりします。とくに医療の事例は興味深いものが多いですね。

久世CTO:ありがとうございます。おっしゃる通り、Watsonは世界最先端の医療施設に導入されているケースが多く、すでにいくつもの実績があります。たとえばがんの専門病院として世界的に有名な、ニューヨーク メモリアル・スローン・ケタリングがんセンターでの事例では、優秀な医師が4年間、みっちりWatsonを”教育”し、がんに関するあらゆるデータや文献を読み込ませました。がんはさまざまな要因が相関しあって発生するのですが、何千何万の症例や文献から瞬時にそれらを読み解き、患者ごとに適切な治療法を提示したり、効果的な治療薬を開発することに成功しています。単にデータを読み込むだけではなく、相関関係を分析する、これはWatsonならではの能力ですね。

茂木氏:僕は毎週、だいたい3、4本の論文を読むんですが、トータルすると年間で200本ほどになります。すごく真面目な科学者は年間で数百本を読み込みますが、Watsonはこのくらいはすぐに読み込んでしまうわけで。とても人間がかなう領域じゃないですよね。しかも相関関係まで解き明かせるなんて、もう本当に対抗しようという気も起こりません。

久世CTO:茂木さんのご指摘どおり、膨大なビッグデータからピンポイントで求める結果を探し出す作業はコンピュータのほうが圧倒的に得意です。それよりも、人間は人間にしかできないことにフォーカスしたほうがいいですね。

茂木氏:そのあたり、僕は前から疑問があって、正直のところ「ひょっとして、人間の医者はもういらないのでは?」と考えてしまうことがあるんです。AIやWatsonの事例を知れば知るほど疑問は強くなってきて「人間の医者よりもWatsonのほうが信頼できるんじゃないか?」とさえ思うこともあります。僕だけじゃなく、一般の人々の意識が急速にAIへと傾いているのを感じます。久世さんはどう思われますか。

久世CTO:医療に関して私は「Watsonだけで診察や治療方針を決定するものではない」と考えています。コグニティブ・システムのWatsonは、人間の手ほどきがあってはじめて成長することができます。医療のような、専門性が強く求められる世界はまさにその最たるもので、人間の医者が介在しないところで、Watsonだけによる判断はありえません。Watsonが得意とするデータ分析に関しても、医療関係者によるサポートが必要です。人間との共同作業を通して人間を支援することがWatsonの役割なので、最終判断をする存在としての医師はどうしても必要になります。

ただしおっしゃるように、一般の人々のAIへの期待がかなり進んでいることは感じますね。とくに若い世代はAIを受け入れることへの抵抗が少ないので、だからこそ人間にしかできないことにもっと光を当てる必要があるのかもしれません。

茂木氏:機械にはできない、人間にしかできないこととは何なのか、これは僕も最近よく考えているテーマです。いまのお話を聞いて思ったのが、Watsonはデータがあればあるほどその精度が高くなるけど、データが少なければ答えを出すことができないわけですよね。逆にいえば、これは人間にとっての強みになるんじゃないかな、と。前例がないところから何かを生み出すのは、やはり人間じゃないとダメな気がします。

久世CTO:そのご指摘は非常にうなずけます。おっしゃるようにWatsonはデータが大好物ですが、逆にデータがなければ何も認識できません。データが少ない領域で能力を発揮できるのは人間だけで、機械には無理なのですね。

茂木氏:たとえばある男性が「10回も失恋したことがある」としたら、相当な”失恋のエキスパート”のように聞こえますが、Watsonから見たら10回程度のデータでは全然意味がなくて、たぶん100万件くらいの失恋データがないと分析できないわけですよね。人間は10回でも失恋のパターンがつかめるけど、機械は100万回でも足りない。失恋なんて10回でも耐えられないのに、100万回も失恋しないとわからないなんて(笑)。

久世CTO:いまのお話とも関連するんですが、公立はこだて未来大学が実施しているプロジェクト「きまぐれ人工知能プロジェクト 作家ですのよ」では、故・星新一さんのショートショート1000篇をAIに読ませて、そのデータをもとに小説を書くという実験をやっているそうですね。それは星新一さんが多作だったからできることかもしれません。

茂木氏:1000篇でも少ないんじゃないでしょうか。そう考えると、たとえば村上春樹さん風の小説をAIに書かせようとする試みは、現時点ではかなり困難じゃないかと思います。

人間にしかできない分野と機械のほうが得意な分野の適材適所を見極める

茂木氏:久世さんはおそらく、いろんな人から「人工知能が人間の職を奪うんじゃないか」という質問を受けていると思うんですが、僕もよく、同じことを聞かれます。だけど僕自身はあまりそうは思わなくて、むしろ人工知能の発展を「ブラボー!」と歓迎しているタイプなんですが(笑)

その理由としては、いまお話しした「人間にしかできないこと」ということが必ず残されていて、それもまだ、われわれ人間すら知らない未知の可能性が、ひとりひとりの中にアイランド(未知の島)のように眠っているというか。そしてその、人間のなかに眠っている可能性を、AIが深掘りするというのは十分にありうるんじゃないかと思っているんです。

久世CTO:非常に興味深いご指摘ですね。眠れる人間の可能性をWatsonが掘り起こせたら、それはまさに「人間と機械の理想的なコラボレーション」じゃないでしょうか。

茂木氏:僕が思うに、入試の面接なんかにも人工知能を多用するといいんじゃないかなと。たとえばハーバード大学は面接の形式がすごく自由で、志願者ひとりひとりに2〜3時間かけるそうです。仮に機械が、志願者の興味/関心に合わせた質問を自動生成して深掘りしていけば、面接官の負荷も減るし、結果も面白いものになるような気がします。1万人にひとりしかない才能を見つけることも、人間より機械のほうが得意なはず。もっとも日本は変に平等主義が強くて「誰に対しても同じ質問をしないとダメ」みたいな風潮があるので難しいかもしれませんが……。

実は僕、子供のころから蝶が好きで、亡くなった政治家の鳩山邦夫さんとも蝶の愛好家つながりで親しくさせていただいていたんですが、大学院の面接で誰も蝶の質問をしてくれなかったことがいまだに悔しくて。すごく蝶のことを話したかったのに(笑)。つまり試験官の誰も、僕の中に”蝶が好き”という個性があることを見つけることができなかったわけで、これが、機械が相手だったら違ったんじゃないかと考えることもあります。

脳科学者・茂木健一郎がIBMとWatsonに寄せる期待

茂木氏:久世さんにお聞きしたいのですが、先ほどの話にもあったようにWatsonをはじめ、AIはデータがないと適切な判断を行うことができませんよね。だからこそ、データをどう集めて管理するか、つまりデータの”キュレーション”が非常に大切になってくると思うんですが、いかがでしょうか。

久世CTO:おっしゃるとおりです。これからはさまざまなタイプのデータがさまざまなソースから入ってくるようになります。AIのエンジンをブラッシュアップすることも大切ですが、大量のデータの扱い、つまりデータの”流通”は同じくらい重要な課題です。

茂木氏:そう考えると、日本にはいわゆる”データサイエンティスト”と呼ばれる人たちが少ないのではないでしょうか。そう、僕は危惧しています。先日、ニュートリノの研究でノーベル物理学賞を受賞された梶田隆章先生とお話したんですが、大学での素粒子実験では本当に膨大な量のデータを扱うそうです。ところが日本では高校までの中等教育の場で、子どもたちがこういった膨大なデータに触れられる機会がほとんどありません。もし高校生でもそういう機会があれば、日本の学術研究にも、データサイエンスの世界にも、大きな発展が期待できると思うのですが。

久世CTO:わが国の教育環境では、データサイエンスのスペシャリストが育てにくいというご指摘は、本当にそのとおりだと思います。これは日本IBMとしても取り組まなければいけない課題と認識しておりまして、いくつかプロジェクトを走らせています。そのひとつとして、データサイエンスの入門講座を受講できるプログラムを展開しており、大学生がデータサイエンスに触れることのできる機会を作っています。

茂木さんがご指摘された内容は、データサイエンスだけでなく、日本人のITリテラシー全体にかかわる重要な課題だとわれわれは捉えています。ハードウェアもソフトウェアも、日本にはさまざまなツールがある。それなのに使いこなせる人が少ないのであれば、日本や社会にとっても良い結果をもたらしません。Watsonを含め、良いツールを使いこなせる人を増やすことこそが、私たちIBMにとっての使命と考えています。

茂木氏:僕のイメージの中のIBMって、Appleの「1984」のCMのイメージというか、スティーブ・ジョブズに倒されるレガシーなハードウェアベンダという(笑)。でも久世さんのお話を聞いていると、もうそういうイメージは過去のもので、すっかり情報サービスの会社として生まれ変わったという印象をもちますね。自分自身をトランスフォームする姿勢は大変素晴らしいと思います。

久世CTO:ありがとうございます。たぶんそれはWatsonの名前が最初に知られることになった「Jeopardy!」のチャレンジに通じる部分も大きいのかもしれません。リスクを取るチャレンジ精神を、IBMは社をあげて評価しています。これからどんな世界になるかわからないからこそ、リスクを取りながら新しいことに挑む姿勢は欠かせないと考えていますから。

もうひとつ、IBMが大切にしている精神としてダイバーシティー(多様性)があります。世界にはさまざまな人々がいて、さまざまなパーソナリティーがあり「これは正しい、あれは正しくない」といった単一的な評価軸は意味をなさなくなりつつあります。Watsonの能力を高めていくためにも、多様な視点をIBM自身が持つことは非常に重要です。

茂木氏:パーソナリティーという言葉で思い出したんですが、人工知能はまだパーソナリティーを持つには当分至らないのではないかと思うのです。なぜかというと、感情をインプリメンテーション(実装)できないからなんですね。脳科学でもまだ「意識が生まれるメカニズム」については解明できておらず、感情をロボットに搭載するにはだいぶ時間がかかるんじゃないかと。でも、感情を定量化するモデルが実装されたら、すごく面白いことが起こりそうな気がします。ルネッサンスで人間性が飛躍的に解放されたように、AIは次のルネッサンスを呼び起こすのでは、とさえ思います。

久世CTO:すばらしいご指摘ですね。実はWatsonにはすでに「Personality Insights」というAPIがあって、これは一般に公開しています。Personality Insightsはソーシャルメディアの書き込み内容からその心理属性を分析する機能を備えていて、心理学でいうところの「ビッグ・ファイブ」という性格分析モデルをベースにして、パーソナリティーの傾向を分類しています。しかし、パターンを認識して分類することはできても、パーフェクトに定量化できるかというと、かなりハードルが高いのは事実ですね。

茂木氏:でも、Watsonがそこまでできるなら、たとえば人間関係を深めるお手伝いもできるんじゃないでしょうか。僕は立食パーティーに出ることが多いんですが、もしWatsonが「あの人と話すと楽しいですよ」などと教えてくれたら、パーティーでの過ごし方もすごく変わる気がします。もっと幅を広げ、”パーソナルアドバイザー”としてWatsonが活躍してくれるようになれば、人間関係がより豊かになる可能性も拡がるはずです。機械でなければ思いつかないような人と、仲良くなるように勧めてくれるかもしれない。それってものすごく新しいかたちの人間関係の構築、本当の意味での多様性の受け入れにつながるんじゃないかなと。

久世CTO:そう考えると、先ほど茂木さんがおっしゃられた”AIによるルネッサンス”というのは、人間の可能性だけでなく、人間関係の可能性も広げてくれる可能性もあるわけですね。

茂木氏:大げさではなく、僕は「日本人が変わるきっかけにAIがなってほしい」と思っているんです。AIは人間にとっての脅威ではなく、人間にとっての「鏡」であって、人間が何をもって幸せを感じるか、その見極めを手助けしてくれる存在になると思っています。そういう意味で、WatsonをはじめとするIBMの取り組みにも、今後も大いに期待していきたいと思います。一緒にこの風潮を盛り上げていきたいですね。

久世CTO:Watsonというコグニティブ・システムを作っているIBMにとっても大変示唆に富んだお話です。今日は本当にありがとうございました。