古都・鎌倉―。12世紀終わりに日本初の武家政権が樹立した海辺の街には、鎌倉五山をはじめとする寺社が次々と建立され、仏像を作るために京都や奈良から多くの仏師が流入した。彼らの一部は鎌倉に定着し、中国の影響を受けつつ独自の技術を産み出して、いつしか「鎌倉仏師」と呼ばれるようになった。
時代の変遷とともにいつしか鎌倉仏師は姿を消し、技術も廃れたかに見えたが、今その「幻の技術」の復興を目指す若手彫刻家がいる。鎌倉を主な拠点とし、動物をモチーフとした木彫や仏師として注目を浴びる奥西希生氏だ。「古くて新しいものを作りたい」「普遍的なものを作りたい」。そう語る奥西氏に、復興への熱意や彫刻への思いを聞いた。

「新しさ」は確かな技術とわずかな領域での挑戦で生まれる

――鎌倉仏師は明治時代、政府の廃仏毀釈政策によって途絶えたとされています。奥西さんは生まれも育ちも鎌倉ですが、なぜ復興しようと考えたのですか。

奥西 そもそも「鎌倉仏(かまくらぶつ)」とは、鎌倉時代に全国各地で作られた仏像を指す場合と、鎌倉地方で編み出された技法で作る仏像を指す場合の2つがあるのですが、僕が取り組んでいるのは後者です。 

実は、本当の鎌倉仏師の技術は明治時代ではなく、室町時代後期に途絶えてしまっているんです。例えば「土紋(どもん)」と呼ばれる、土と漆などを混ぜて型抜きして像に貼り付け、刺繍の文様を立体的に表現する装飾方法がありますが、この技術による仏像は数点しか現存していません。

室町時代以降、土紋についての正確な技術を記した文献もなく、実際再現が行われることはありませんでした。僕が生まれる少し前の1970年代に土紋の学術的な研究が進み、僕は再現することができました。この技術を習得しているのは、室町時代以降で僕しかいないと断言できます。

奥西氏

――とすると、本物の鎌倉仏師の技術はほとんどの人が知らないのですから、「復興」という言葉自体が適切ではないのかもしれませんね。

奥西 自分なりの表現ですが「古くて新しい」ものを作ることに強いこだわりがあります。なおかつ「質が良いもの」を作ることに意義があると考えています。

――「古くて新しい」。芸術の素人には難解な言葉ですが、どのような意味ですか。

奥西 同じことを繰り返しても、同じレベルは維持できないというのが人間の性だと思います。不思議なことに、一見して見た目が美しく進歩を遂げている新作と昔の作品を比べた場合、芸術の知識のない人でも昔の作品を選んでしまいます。

つまり、伝統工芸は「守る」という発想になりがちですが、守ったら終わりだということ。気づいたときには「昔よりいいものはないね」と言われ続けるようになり、需要がなくなっていきます。本当に新しく質の良いものを生み出したいなら、技術のルールを守りつつ、残されたわずかな遊びの領域で、これも確かな技術をもった上で何かに挑戦していく必要があります。

鎌倉仏師で新しいこととは、明治時代の仏像の再現ではなく、土紋というとんでもなく古い技術を再現したほうが近道ではないかと考えました。時代に埋もれていた技術ですから、古すぎて逆に新しいですよね。

奥西氏

埋もれた技術の復興は平和な時代に生きる者の使命

――そもそも、なぜ鎌倉仏師に興味を抱いたのですか。

奥西 鎌倉で生まれ育ち、この街は歴史的な背景もあり、イノベーションを起こし続ける宿命を持っていると感じることが多いんです。人々にもその気質が根付いていて、僕の知人たちもすぐに「次はどんな新しいことをやろうか」という話になります。鎌倉仏は、そんな鎌倉の象徴的な存在だと思います。

――鎌倉と言えば12世紀後半に史上初の武家政権が樹立され、以降、発展を遂げた街ですね。なぜ仏像が象徴だと思われるのですか。

奥西 当時に思いを馳せると、おそらく武家の人々は、地位の高い公家たちが支配してきた京都や奈良にまだ存在していない新しい文化を急いで生み出す必要がありました。

仏像は、当初は奈良などから仏師を呼んで作っていたため独自性はありませんでしたが、その後、鎌倉に定着する仏師たちが育ち、中国の宋の影響も受けつつ土紋のような新しい技術を生み出しました。急激な時代の変化によって切羽詰まりながらイノベーションを起こそうとした、当時の鎌倉の人々の思いが結実したものだと思うのです。

これまでも戦争によって、文化が二の次にされる歴史が繰り返されてきました。幸いなことに、戦争のない時代に生きる僕たちには、そうした埋もれた技術を復興させる使命があります。今は作った仏像を鎌倉仏師の研究家にお見せして、いただいた意見をもとに軌道修正する作業を繰り返している段階ですが、3年後の展覧会で、ひと区切りをつけて披露する予定です。

奥西氏

無駄足を踏んで失敗も多い分、それが強みに

――奥西さんは動物をモチーフとした木彫作品で高い評価を受けています。今日、後ろにある「土佐犬」などはリアルな質感で、木で作ったとは思えません。木を彫って漆を塗るという仕事になぜ進もうと考えたのですか。

奥西 祖父が漆の塗師で、祖母と母は鎌倉彫の彫師、父が洋画家という、芸術と職人両方の世界を間近で見ることができました。だから、幼いころから大人になったら絵を描いたり、木を彫って漆を塗る仕事をするんだと思っていました。漆への耐性をつけるため白いご飯に漆を混ぜて食べたりしていましたね(笑)。その仕事を何と呼ぶのか当時の自分にはよくわからなかったのですが、中学生のときに父から「それは彫刻だ」と教えられ、自然と彫刻家の道を目指し、美術大学への進学を決意しました

――ご家族がみな芸術家ということで、恵まれた環境で育ったんですね。

奥西 ところが、僕は最初から器用なほうではなかったんです。僕よりも手先が器用で、彫刻の勘がいい人はたくさんいて、10代のころは「なんで自分はうまくできないんだ」とイライラしたことも数えきれません。中学3年から美大進学の勉強を始めましたが、結局は3年間浪人して、やっと合格できました。今だから話せますが、実は両親も僕に才能がないのではないかと悩んだことがあるようで、僕の将来を真剣に話し合ったことがあったそうです。志だけでは生活が立ち行かなくなる芸術家の「地獄」を、親は見てきましたからね。

奥西氏の作品 奥西氏の作品 奥西氏の作品

奥西氏の作品

奥西さんの作品。さまざまなモチーフに挑戦しているが、人々の信仰の対象となる仏像は、モチーフに対する「自意識の幅」を極限まで狭めて制作に没頭するという。

ただ僕は「飽きずに続ける」ということだけはできて、浪人生活を終えた時、器用だった人より良い作品が作れていることに気づきました。無駄足を踏んで失敗も多い分、なぜダメだったか、どうすればよかったかという知識が蓄積されるので、落ち込んだ時の回復も器用な人たちより早い。そんな強みにも気づいて、以降は焦る気持ちはなくなりました。

人類未達の普遍的でオリジナルな領域を目指す

――とはいえ、時には数年かけて一体の作品と向き合うわけで、想像を絶する精神力が必要な世界だと思うのですが。

奥西 忍耐力は確かに大切です。ただ、努力していれば誰かが見てくれる、というあいまいな考え方は違うと思っています。若いころも、そうした教え方に不満を抱いていました。

芸術は才能や感性が重要とよく言われますが、作り手はそうしたあいまいな感覚だけに依ってはいけない世界だと思っています。例えば、ピカソの作品は「子どもの絵のようだ」などと揶揄されますが、実は彼は具象的な絵を描くと大変上手です。あの「子どもの絵」の裏には、精緻な理論が隠れています。

こういう手順で作業をすればこういう結果が出る、こう考えたらこういうふうになると、技術も感性も、後に続く彫刻家のためにも理論として明確に確立していかなければいけないと思います。

――今後の目標についても、そうした理論に基づいて明確にしているのですか。

奥西 17歳の時に、自分がこれから進むべき道を10段階の階級にして、それぞれの階級でクリアすべき項目を挙げ、この年齢までにいくつに上げよう、という三角形の図を描いたんです。「レベル10」が一番下で17歳当時の自分の位置です。トップから2番目の「レベル2」はミケランジェロやベルニーニなど歴史上最高峰とされる彫刻家たち。そして目指すべき「レベル1」は、人類未達の領域です。

自分はいま8から7へ上がる途中で、とことん彫刻の数をこなして技術を鍛える段階と位置付けていて、41歳から次のレベルへ上がる予定です。そして50歳からは新しいものを生み出す段階に入って、60歳くらいで「レベル1」に到達できたらと考えています。 

――人類がいまだ見ぬ領域とは、どのような世界なのか想像もつきませんが、奥西さん自身はイメージは固まっていますか。

奥西 ミケランジェロもベルニーニも運慶にしても、題材が宗教で、神話の1シーンなどから題材を引っ張って来ています。しかし、「レベル1」は、人間がどう在るべきかというテーマを自分自身で考え抜き、それを厳選した1つのシーンとして完全にオリジナルな彫刻として表現できる状態。だから技術や知識だけではなく、人にとって何が大事なのかという普遍的で、根源的な問いを、この先もずっと考え続けていかなくてはならないと思っています。

奥西氏

――その高みに達するために、どのような工夫をしているのでしょうか。

奥西 最も大切にしているのは、同じ道にいる人たちが目上や周りにいる彫刻家たちから「よく言われていること」は一切やらないということです。例えば、「古いことをやるならもっと新しいことをやったほうがいい」、「アイデアは外の世界にたくさんあるから他の芸術の展覧会を見に行ったほうがいい」などです。僕はその真逆は何かと考えて、制作に取り掛かるとアトリエにひきこもって、仕事で必要がない限りは人に会わない期間を大切にしています。

彫刻の中でも具象の世界は、ミケランジェロら最高峰を超える人間が、この一千年の間、ただ一人として出ていないと言われる状況です。よく言われてきたことが正しいなら、とっくに誰かが彼らを超えているはず。僕は、その真逆のわずかな領域にしか、彼らより先の境地に達する可能性は残されていないと思うのです。

一方で、不思議かもしれませんが、自分とまったく違う道にいる方の言葉は参考にします。現代アート作家が何を考えて作品を作っているとか。芸術以外の世界をよく知らないということも自覚していますので、制作中に孫正義さんや著名な経済学者たちの講演をBGMとして流すときもあります。一流の人はこういう考え方をするんだと、刺激になりますね。

奥西氏

「軸」は仕事が何よりの楽しみ、レベルアップの幸せ

――奥西さんは30代にして「軸」がしっかりして泰然としています。ただ、芸術家で食べ続けていける人は本当に一握りという厳しい環境で、売らなければいけないという現実もあります。ぶれない軸は、どのように形成されたのでしょうか。

奥西 もてはやされた人がいつしか名前すら聞かなくなるというのは、この世界ではよくあります。とても高低差のある世界です。「一発当てると一流」ともよく言われるのですが、それよりも僕は常時、自分のレベルを上げていきたい。「物が良ければすべてをクリアできる」という考え方は揺らぎません。

両親のお陰で小中学生のころ、バブル景気に翻弄される人たちをたくさん見てきました。美術品の評価や価値というのは経済状況や様々な「時代が作る環境」に左右されるモノなのだと思い知りました。

父は世の中の変化とは付き合わず、黙々と家で絵を描いていました。軸がしっかりあったんですね。芸術家とはこうあるべきだという最高のお手本が身近にいました。

自分もしょせんは人間で、評価に左右されて軸を見失う可能性は大いにあり得ます。だからこそ仕事に没頭することが何よりの楽しみで、自分の技量を上げることが何より幸せ、という自分の軸をいつも大切にしています。

奥西氏

――あくなき高みを目指す上での奥西さんの土台が、早い段階で固まったということですね。

奥西 「レベル1」に到達することが本当に困難なのは覚悟していますが、目指さなくてはなりません。もしダメだったら、僕が死んだあと、後世の芸術家たちが、奥西のやり方ではダメだったと失敗例の一つとして学ぶのかもしれません。芸術の世界は、答えがあるようでないような、皆目見当のつかない世界。才能があるとか、努力ができるとか、その程度のことではどうにもならない、もっと高い何かがある世界なんだと思います。

TEXT:國府田英之(POWER NEWS)

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奥西希生(おくにし きしょう)

1979年、神奈川県鎌倉市出身。祖父が漆の「塗師」、祖母と母は鎌倉彫の彫師、父が洋画家という芸術一家に育つ。鎌倉学園高校を経て2000年に東京芸術大学美術学部彫刻科に入学。2006年に同大学院美術研究家彫刻専攻修了。動物をモチーフにした木彫や仏像、神社の御神像などを制作。全国の百貨店などで展覧会を開くほか、鎌倉仏師の復興を目指している。