この記事はIBM THINK Watsonに掲載された記事を転載したものです。
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CTO久世のクロス・ワトソン——スポーツ x Watson

 

スポーツ選手にとって、「自らを理解する」ことはパフォーマンス向上の第一歩となる。もしそれが従来の仮説と検証のサイクルではなく、AIの分析によってより明確な判断が可能になるとしたら。

トップアスリートは日々、自身の競技力向上を目指し、コーチや監督と共に試行錯誤しながらトレーニングを積んでいる。陸上競技400メートルハードルの日本記録保持者である為末大氏もまた仮説と検証を繰り返し、世界を舞台に戦ってきた競技者のひとりだ。

為末氏は競技者を引退後も「人間を理解する」をテーマに、指導などの分野で「スポーツ」の最前線を走り続けている。その経験から、スポーツにおけるAIの可能性について日本IBMの久世和資CTOと議論を交わした。

「運よりAI」変わる適性判断

為末氏:スポーツの世界は、想像以上にアナログなんです。ほとんどが経験や勘によって意思決定が行われています。一方で、2020年の東京オリンピックに向けて選手一人ひとりのパフォーマンスを最大化するためにはデータ解析・活用がとても重要で、そこにAIが重要な役割を担うのではないかと思います。

久世CTO:具体的にAIが活用できる場面はどんなところでしょうか?

為末氏:まず「どんなスポーツに適性があるか」の判断です。陸上競技一つとっても、腕のリーチが長ければ円盤投げが向いているといったように、身体的特徴をベースとした競技の適正診断ができると思いますが、現状では、幼少期の環境が大きく影響を受けることが多いですよね。例えば親がコーチをしていたり、親戚が体操教室をやっていたり。どのようなデータがスポーツの適性を根拠づけるのかは分かりませんが、データと競技適正の相関関係が可視化されるようになると面白いですよね。

久世CTO:野球のポジションなど監督やコーチが決めることが多いですよね。

為末氏:それも今はほとんど勘によって決められていますね。経験を積んだ監督やコーチの勘は信頼性が高いでしょう。しかし問題は「誰がその監督やコーチの知見を引き継げるのか?」ということです。そういう知見は、全く形式化できておらず蓄積がないんです。
一方で、競技者の過去の成績に無意識のクセやコンディションも加味したパフォーマンス分析が必要で、AIはその部分に向いているかもしれません。

コーチングの観点では、コーチがいきなり正解を選手に伝えてしまうことがよくあります。これを繰り返すと、選手は成功や失敗の要因を理解するためのプロセスが抜けてしまいます。するとパフォーマンスが高くなったとしても、高いパフォーマンスを維持し続けることは難しくなります。個人的には選手個人がプロセスを理解し、再現性を持てることが重要だと思うんですよ。

ところで、Watsonが与えられたデータを分析して練習内容などの提案をする仕組みはどのようになっているのですか?

久世CTO:Watsonは、何万から多い時には何千万件という大量の文書情報を網羅的に分析し、人では気がつかないような相関関係などを見つけることができます。コーチングの場合、世界中で発表された論文、スポーツや練習法に関する専門誌などが基本のデータになります。それに加えて、各選手のコーチング記録や競技記録なども活用します。それらの大量の情報を網羅的に分析し、選手の過去のパフォーマンスも考慮することによって、最も効果が上がる練習内容の候補を提供することができます。また、その候補を導くために決め手となった関連性の高い情報も同時に提示します。

為末氏:挙げられた候補と一緒にその根拠まで示すことができるのですね。

AIの「負けそうだ」という判断は、選手に伝えるべきなのか

為末氏:実現したらスポーツ界にとって非常に意義があることなのですが、怪我をする前兆も分かるようになると思いますか?

久世CTO:分かるようになると思います。

為末氏:例えばマラソンでは、オリンピック前の怪我などで選手が出場できないことが問題視されています。しかし現状でできている対策は、写真による疲労度のチェックと血液検査だけで、そこから慢性的な疲労を診断してケアすることはできません。

久世CTO:人の「異常検知」は機械や装置の故障予測と違って、過去のパフォーマンス、身体的特性、疲労度や場所などの環境の要因、さらにメンタルの状態も反映する必要があります。「ケガをする」ことを予測するためには、多くの種類のデータが必要になります。

為末氏:なるほど、メンタルの状態という意味では、試合前の段階で統計的に「どうやら負けそうだ」という状況が見えている場合、それを選手自身に伝えるかどうかも難しい問題です。それによって、さらに勝率を下げてしまう可能性もありますから。

久世CTO:コーチングでは、選手の性格からトレーニング方法や指示の出し方を変えるといったことはあるのでしょうか?

為末氏:あると思います。あるヨーロッパのサッカーチームでは、事前に心理テストのようなテストを行い、性格のタイプ別に統計を元に勝率の高い組み合わせてチームを構成していると聞いたことがあります。それくらい性格は競技のファクターとして大きいです。そこで、コーチと選手の相性の問題があります。アメリカではコーチと選手が合わないと、選手が他のコーチに指導を依頼することがよくありますが、日本では大学時代のコーチがプロになっても指導を続けることがほとんどです。そのため学生時代にコーチとの相性が良かった選手は成績がいい傾向になります。

その結果、コーチに対する公平な評価ができないため、500人のうち1人のオリンピアンを育てたコーチと30人のうち1人のオリンピアンを育てたコーチは同じように評価されてしまいます。

この先、コーチやスカウティングに関するデータがもっとオープンになってベストな選手とコーチと選手のマッチングができれば、活躍する選手の裾野が広がるのではないでしょうか。

久世CTO:Watsonには「Personality Insights」というソーシャルメディアなどに書き込んだメッセージから書き手の性格を分析してくれるツールがあります。これは、心理学の理論で有名なビッグファイブ(性格の特性5因子)を使っています。今お話にありましたサッカーチームなどの最適なメンバーの構成に使えるはずです。また、性格特性に加え、言葉遣いや言い回し、声の高さや大きさなどを組み合わせた感情分析によって選手とコーチをベストな組み合わせができたら強力ですね。発言内容だけでなく、表情や声のトーンなど、その時々の状況や他の要因が説得力を与えることもありますからね。

為末氏:なるほど、確かにキング牧師のスピーチって英語がわからなくてもなぜか納得しちゃうとか、「大丈夫」としか言わないのに選手からすごく慕われるコーチがいたりしますよね。選手のパフォーマンスや過去の経験、使用言語、人生でどのようなことを経験してきたかによって教え方が違うというところがコーチングの面白さでもあります。

特に、オリンピックのように限られた時間でアドバイスするシーンでは、言葉の掛け方はとても重要です。またアドバイスには、過去の体験も関わってきます。僕が「ドアを開けるようにハードルを跳べ」と伝えたのに対して、相手の選手がドアノブを開けるように、手首を捻って跳んだことがあったんですよ(笑)。

スポーツ選手を悩ませる「いつやめるべきか」のタイミング

為末氏:選手は常に、新しい技術を試しながら練習するわけですが、もちろん結果はすぐに出ません。そこで悩むのが手法や技術に対して見切りをつけるタイミングです。このような根気強さと諦めのよさという相反する性質をバランスよく両立できるかが成長曲線を左右するので非常に難しい問題です。

久世CTO:心身ともに自身の「到達点」がどこかにあるということですね。そうなると、ある意味で未来予測に近いものになるでしょうか。コンピューターで解くとしたら、大量のデータを学習することによるデータの知識化だけでなく、身体的な能力に対するシミュレーションなどと組み合わせることが必要になると思います。それにより、ある時点で続けた場合とやめた場合のどちらが良かったかの効果予測ができ、やめるべきタイミングがわかるかもしれません。

為末氏:コンピューター上で「仮の人生を歩ませる」感じですね。

久世CTO:コンピューターの中に現実世界に近いものを再現し、それにスタイルやフォームなどいくつかのパラメーターを変えながら走らせてみるわけです。そこに性格や感情を入れれば、「そもそも飽きやすい」といったメンタル面も含めたシミュレーションができます。

為末氏:スポーツ選手の場合、いつ引退するかという決断はセカンドキャリアという観点で非常に難しい決断になります。どのタイミングでの引退が自分の人生にとって適切なのかといったこともAIによってシミュレーションできると選手にとって非常に励みになると思います。自分でできることとサポート体制の相乗効果が高まった時に選手の幸福度が高まると思います。

久世CTO:なるほど。「いつやめるのか」という視点は、とても興味深いですね。

近い将来、ハードルは立体画像になる?

為末氏:ちなみに例えば2030年を想定すると、どんなことができると思いますか?

久世CTO:13年先には、ものすごく進んでいると思いますよ。例えば指紋の線の中に収まるほど小さなコンピューターの研究開発を進めていますが、このような超小型コンピューターは当たり前になっているはずです。この超小型コンピューターにはCPU、メモリー、バッテリー、センサーなどが組み込まれていますが、身体のいろいろな場所につけられるようになるでしょう。

為末氏:そうすると、脈拍などのバイタルデータが常時取れますね。

久世CTO:そうですね。脈拍は、現状でも8Kカメラなどの高精度の動画から分析するようといった研究も進んでいます。音は画像よりデータのサイズが小さいですが、生活音やスポーツで出る音を学習すると、いろいろなことができます。例えば、走っている際のシューズとトラックの接触音から「今日はちょっと走り方が違うな」とか「疲れてきたかな」なんてことも分析できます。為末さんが館長をされている『新豊洲Brilliaランニングスタジアム』も、このような画像や音を収集して分析するシステムは向いていそうですね。

為末氏:横から撮影する設備はあっても、上からはほとんどないですね。上・横・前まで撮れたら、かなり分析できると思います。

久世CTO:素晴らしいですね、いろんなことができそうなイメージが思い浮かびます。

為末氏:Brilliaでは、子供たちの走りを分析するときだけカメラを入れていますが、やはり撮影は横からのみです。いろんな分析とフィードバックによって、さらに多くの要素をもって自分の状態を把握できるようになれば、成長スピードも早くなるんじゃないでしょうか。

ICT技術の進化によって、スポーツは唯一、人類が何も身につけず競争している場所になるんじゃないかと。普段はとても早く歩ける靴、ARで外部情報が入ってくるメガネ、あるいは脈拍を取ってくれるTシャツなどいろんなものを身に付けながら、スポーツではすべて脱ぎ棄てて生身で競技するわけですよ。だからテクノロジーって、スポーツの現場では本番でその競技力を支えるものではなく、常に能力を磨くためのパートナーという位置から抜けられないと思います。

久世CTO:逆に、表舞台にテクノロジーが出るとよくないのかもしれませんね。ちなみにスポーツでは、コーチングやトレーニングのレポートや論文や映像、音、センサーなど、データは結構あるのでしょうか?

為末氏:ありますが、サンプル数が少ないんですよね。例えば100mを10秒切って走る選手は歴史上125人ほどいますが、9秒8の世界になると激減してしまいます。「スクワットはどんな効果があるのか」というような基礎的な論文はあるものの、ハイレベルになるほど例外のような人が出てきて、本質的な要素が見えにくいんです。常時、機器に接続してデータを取っても、その解析結果から何らかの傾向は見えるものの、理由はよく分からない。ですから、そういった分析手法の強化は、トップアスリートの強化というよりは、スポーツ業界全体の発展に結びついていく気がしますね。

久世CTO:スポーツとAIが結びつくことによって新しく何が生まれうるか。Brilliaでの活動を含め、ぜひ今後も何か一緒にやっていきたいですね。第一線でアスリートとして活躍され、今もまた別の形でスポーツの普及に取り組まれている為末さんだからこそ、大変興味深いお話ができたと思います。ありがとうございます。

 

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